雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

トーテムポールを見上げるゾンビたち

 

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映画のことはフィルマークスに書いているのだけど、この作品はまだリストアップされていないので、こちらに。

お題はこの映画。『飢えた侵略者』(2017)。原題は英語タイトルが Ravenous 、フランス語がLes Affamés 。

ゾンビ映画の「再発明」なんてことも言われているみたい。たしかに面白かった。

舞台はケベックの近郊で、雰囲気がどことなくアメリカとは違うのだけど、ウォーキング・デッドの二番煎じになっていないのは、安直なサバイバルゲームにしていないところ。なんといえばいいのかな。乾いたユーモアと諦念がただよっているのだ。

ゾンビのアウトブレークが起こった後日譚なのだけど、それでも続く日常を捉えるショットのフレームは、つねにゾンビの影が切り込んできそうな余白を残し、フレームの外の世界の広がりを、どこかに獣の鳴き声をちりばめたような環境音が不気味に演出するという趣向。

ジャンルとしてのお約束はほとんど外していないのだけど、それでもどこかが新しい。なによりも霧の中に現れるあのトーテムポールのように積み上げられた椅子や家具やガラクタの塔を、その周りを静かに取り囲んだ「彼等」が見上げているシーンは、ぞっとするほどの美しさ。
そうなのだ。ゾンビがなにか宗教のようなものを持っているというのが、このカナダのゾンビ映画の新しさ。実のところカナダのケベックでは、2017年にイスラム教のモスクへの襲撃事件が起こったばかり。フランス語を話す住民が多数を占めるケベック州では、アラブ諸国をはじめ各国からの移民を数多く受け入れてきたわけだけど、ここのところイスラムへの反発が強まっていた。だから今年の1月には「62号法案」(Bill 62)が施行されることになったという。それは、公の場所で顔面を覆うことを禁止する法律だが、これによって、イスラム教徒の女性は顔を覆うベール着用を禁止されることになる。

ケベックに広がるイスラムフォビア。なにか得体の知れない宗教を信じる人々が、どんどん流入してくることへの恐怖が募っていたとするならば、それこそは、この映画のゾンビの背景にあるものなのではないだろうか。

だから、この映画の主人公たちは、どこか平然と死んでゆく。死ぬことによって守るものがあるとでも言うかのように。そんな命よりも大切なものは、もしかしたら、あのアコーディオンによって象徴されていたのかもしれない。モニカ・ショクリの演じるタニアは、どうして執拗にアコーディオンを持ちあるいたのか。そのタニアのアコーディオンを引き継いだ少女ゾエもまた、最後にはガンよりもアコーディオンを選ぶ。まるで、それこそが守るべき文化だとでもいわんばかりに。
このゾンビたちは、かつてケベックの地を植民した人々のもとに、どこからともなくやってきて、この地をかつての入植者から奪いとってゆく。それは侵略者であり、あのトーテムポールをあちこちに立てながら、この地をまさに再・植民地しようとしているわけなのだ。

こうしてかつての入植者たちは、得体の知れない圧倒的な侵略者によって駆逐されてゆくのだけど、それはカナダのケベックだからこそのリアリティーもあるのだけれど、世界中のいたるところで静かに進行中の出来事でもあるけだ。こわっ。

いやはや、ゾンビ映画をあなどってはなりませんな。 

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プロフェッソーレとマエストロ

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/Giotto_di_Bondone_-_Legend_of_St_Francis_-_15._Sermon_to_the_Birds_-_WGA09139.jpg

Retweeted 中田考 (@HASSANKONAKATA):
大学の教員は、小中高の教師とは根本的に違います。大学では教員が教えるのではなく、学生が学ぶのです。少なくとも私が大学生の時はそれが大学というとものだ、ということには学生と教員の間に広範な合意があったと思います。 https://t.co/RynRsFFKW9

 去年のツイートだけれど、これをきっかけに少し考えたことがあるので、備忘のためにブログアップしておきます。

 「大学では教員が教えるのではなく、学生が学ぶのです」というのは、ぼくも共有する感覚です。大学の教員は、まずは研究者として採用されているわけですから、教えることに関して優先順位が下がる。教えるよりはまず、研究すること。そして研究室において、研究者を育て、研究の継続性を確保すること。そういう感覚は、ぼくも大学院のころに感じていたものでした。

 ぼくが上のツイートに少し付言したいのは、「小中高の教師とは違う」という部分です。研究者という部分では、たしかに大学の教員は小中高の教師とは少し違う。けれども「教える」という部分では、それほど変わらないのではないでしょうか。高校生だって中学生だって、教師から「教わる」部分が大きいとしても、最終的には自分で「学ぶ」ようにならなければなりません。

 では、どうすれば自分で学ぶようになるのか。「教えること」と「学ぶこと」に関しては、以前このブログで、イタリア語の語源に遡りながら、すこし考えたことがあります。 

hgkmsn.hatenablog.com

 ここでは「教師」あるいは「教員」について、イタリア語にひきつけて考えておきたいと思います。「教える人」という意味では「インセニャンテ」(insegnante)でしょうか。けれども、日本語でも呼びかけるときは「先生」とか「教授」とか、いうようにイタリア語でも「インセニャンテ」は呼びかけには使いません。「先生」という呼びかけに相当するのは「プロフェッソーレ」(professore)です。

 このプロフェッソーレは、英語のプロフェッサー(professor)に相当しますが、大学の教員だけではありません。イタリア語では高校の教員も、中学の教員も、プロフェッソーレ (professore) と呼ばれます。小学校は違います。小学校や幼稚園の教員はマエストロ(maestro)です。

 どうして小学生まではの「先生」はマエストロで、中学生からプロフェッソーレとなるのか、はっきりしたことはわかりません。けれども、それぞれの言葉の意味を考えてみると、腑に落ちるものがあります。

1. プロフェッソーレ

 「プロフェッソーレ」とは「プロフェッサーレする者」ということですが、「プロフェッサーレする」(professare)という動詞は、「宗教的な信仰や、政治的イデオロギーや哲学的な立場などを公然と表明し、それに従うこと」*1という意味になります。語源的にはラテン語 pro-fitieri 【 pro- (〜の前で、前に向けて)+  fatēri (認識する、認める、話す)】に遡るのですが、興味深いのは、この「profĭtēri」が「 confĭtēri 」とともに、新約聖書ギリシャ語 homologéō の訳語にとして用いられたということです。

 このギリシャ語は homo + -logeo という要素に分かれます。それぞれは「同じ、一貫した(homo-)」と「言葉を述べる(-logeo)」ですが、これはキリスト教における「信仰告白(ホモロギア)」のことです。ラテン語はこの言葉を翻訳するとき、人々の前で公然と(pro-)表明するときには pro-fessare (信仰を公然と語る)を用い、同じ信仰を持つ誰かと共有する(con-)ときには con-fessare (信仰をともに語る)を用いたと考えるとわかりやすかもしれません。

 こう考えてみるとプロフェッソーレとは、まず第一になにか信じるものを持っている人のことです。現代的にいえば、ひとつの学科、数学や歴史や文学などの学問について、一貫した言葉を語る能力を持ち、その学問に献身する人がプロフェッソーレということになるのでしょう。

 だとすれば、イタリア語で中学校以上の教師がプロフェッソーレと呼ばれるのは、イタリア語に特有な誇張もあるにせよ、中学校以上の教科は専門性が高いということになります。つまり、その分野に専心している者が、その分野の言葉で、そのすばらしさを語ること(プロフェッサーレ)によって、学びの起動が期待されるということなのかもしれませんね。

2. マエストロ 

 一方のマエストロ(maestro)ですが、語源的にはラテン語の magis (più, より多い)に遡るもので、「優れている superiore 」の意。つまり楽器を演奏したり、絵を描いたり、物を作ったりと、具体的な技芸に「優れている」者がマエストロということになります。

 だとすれば、幼稚園や小学校の教師がマエストロと呼ばれのもよくわかります。クレヨンを持ってお絵描きをする園児たちよりも、先生がたはずっとお絵描きがうまい「マエストロ」ですし、文字を学び書き方を覚える小学生にとって、お手本を示してくれる先生もまた「マエストロ」だというわけです。

 興味深いのはマエストロ(maestro)に対置されるのがミニストロ(ministro)であるということです。語源的にラテン語の minus (meno, より少ない)に由来するミニストロは、「優れていない」人ということですが、それは技術のことではなく、むしろ身分の話であり、高位の者に従い仕える「臣(おみ)」のことです。わかりやすい例は、総理大臣(Primo Ministro)ですね。これは「第一の」(primo)「従者」(ministro)という意味ですが、主権を持つものが王であるならば従者の一番手(大臣)ということであり、民主主義の国であるならば、国民の下僕のNo.1 ということになりますね。

****

  教義を掲げて教説を垂れるとプロフェッソーレ。技芸に優れたものが弟子をとるとマエストロ。さてはて、イタリア語を教える立場にいるぼくのような者は、どちらなのでしょうか。講座に来られる日本人の受講者のみなさんよりは、イタリア語の会話や読み書きの能力が多少優れているからマエストロではあるけれど、じぶんよりイタリア語にすぐれたイタリア人の前では烏滸がましいかぎり。一方、大学なんかで外国語を学ぶことの意義を説いて、みずからもその道を進んでいるという意味ではプロフェッソーレなのなのかもしれませんが、イタリア語というのは、宗教でもイデオロギーでも学問でもなくて、たんなるコミュニケーションの手段であり、道具であり、そういう意味ではしばしば呼ばれてきたように「語学屋さん」にすぎません。
 まあ、いずれにしても、亡くなった恩師T先生の口癖を思い出します。曰く「先生とよばる先生、生徒の成れの果て」。あるいは曰く「先生と呼ばれるほどのバカとなり」。
 いやはや、たしかに、つまるところ、いかがわしい商売ってことですよね、先生。
 

*1: "professare: Manifestare e seguire apertamente una fede religiosa, un'ideologia politica o filosofica, ecc." (il Devoto-Oli 2015).

マン、ヒューマン、デビルマン...

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テクノビート

単調な波形

MAN

HUMAN という声

反復して

反響する

MAN MAN

MAN MAN

MAN の連呼

HUMAN の解体

ビートは

止まらない

 

エレクトリックな装飾音

幾重にも纏い

先へ先へと

止まる気配のないビート

まるで

なんとしても

あの真紅の

カタストロフィー

その向こうの

CRYBABY の情景

そこにぼくらを

道連れにする

つもりに

ちがいない

 

 湯浅版『デビルマン』を見た。上に記した一連の言葉は、その『DEVILMAN crybaby 』のオープニングテーマ、電気グルーブの「MAN HUMAN」に触発されたもの。その MAN HUMAN というタイトルが、HUMAN から MAN を分離し、デビル(DEVIL)に憑依されてなお人間であり続けるデビルマン( DEVIL-MAN) を呼び込む仕掛けだと感じるために綴っていたものなのだと思う。

 DEVIL は HUMAN と相容れない。そうだとされてきた。しかし果たしてそうなのか。本当はそうではないのではないか。そんな疑問は ANIMAL と HUMAN の違いを考えるとき立ち上がる問いと相似形だ。

 ジョルジョ・アガンベンは、人間を動物から区分する不断の営みのことを人類学的マシンと呼んだ。それは人間と人間にあらざるもの(たとえば動物のような存在)との境界を定めつづける。もちろん人間も動物だし、クジラも、イルカも、犬も、猫も、そしてダニでさえも動物であることは変わらない。

 それでも人間は動物とは違うし、違っていても不都合はない。違うからといって、ともに生きられないわけではない。違うなりに折り合ってゆけばよい。じっさい人類学的マシンは、人間とも動物とも判別しがたい非人間を生み出してきた。そんな魑魅魍魎はそれでも、人間世界とそうでない世界との閾に息づき、境界を行き来してきたのではなかっただろうか?

 

それは

ぼくらの傍にいた

アキラとリョウ

まだ幼いふたりの

寄り添うように

 

人類学的マシン

生み出す境界

どちらともつかない

閾はまだ

開かれて

いたはず

 

ヒトにソレ

あるのなら

動物や悪魔に

ないわけがない

愛もあるだろう

ならば愛して

やりもらう

 

MAN HUMAN

マシンからの

繰り返すビート

自由の閾の

隠された広がりを

さらけ出して

引きさく

境界

 

HUMAN は HUMUS、

すなわち大地に

生きるもの

だったはずなのに

あのマシンの

あのビートが

HUMUS から

MAN を

引き離す

 

ANIMAL が来れば

ANMAL MAN (獣人)

 

DEVIL が来れば

DEVIL MAN 

 

泣き虫の

デビルマン

 

そのとき MAN は

どちらからも追いやられ

その生をむき出しにされ

その涙さえ絞り尽くされ

ついにはあの赤い海に

永遠のビートを残し

虚空を見つめる

ことだろう

  

MAN HUMAN

MAN HUMAN

 
MAN HUMAN(DEVILMAN crybaby Ver.)

MAN HUMAN(DEVILMAN crybaby Ver.)

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開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

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