雲の中の散歩のように

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「教えること」と「学ぶこと」

 

 最近話題になっている体罰の問題は、「教える」ことを仕事にする者にとっては、ちょっと考えさせられる。必要なのは、少し下がったところから考え直すことなのだろう。そこで、ちょっとイタリア語から考えてみようと思う。

 何はともあれ、最近愛用のイタリア語辞典 Zanichelli の電子版で、「教える」と「学ぶ」という動詞を調べてみた。

 

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 まずは「教える」。

 「教える」に近いイタリア語は、基本的に 1. insegnare, 2. educare だろうと見当をつける。すると 3. esercitare という動詞も引っかかって来た。辞書にはそれぞれに3つの類義語が挙げられていて、ニュアンスの違いが記述されていた。なんだか「教える」という行為の社会的・歴史的な展開の姿が見えるようで興味深い。

 

1-1. INSEGNARE 

 

 動詞 insegnare (教える)の原義は「刻印 segno を入れる」ということ。この segno (刻印)という言葉は secare = tagliare (切る) から派生した名詞らしい。この「刻印する」というのは、もちろん「文字」と関係があるのだろう。なにしろ「文字を書く」という動詞 scrivere は「ペンで線を引く」こと、つまり石盤や木版などの表面を「切る、ひっかく」という行為。それが segno (刻印・記号)へとつながっていることが推測される。

 だとすると insegnare は、こうした「文字、あるいは刻印」を相手に「刻み込む」ということなのだろう。「教師は生徒の成れの果て」なんて言われるけれど、教える者(insegnante)も、かつては自らの中にこの「刻印」を受けたものなのだ(insegnato)。

 

1-2. ISTRUIRE 

 

 動詞 istruire (教育する)は、相手の「上に in- ‘sopra’ 」に何かを「構築する struere ‘costruire’ 」することらしい。動詞 insegnare が個人に対する「刻印」の行為だとすれば、もう少し集団的な「構築」へと進めること、何か社会制度的なもののを志向が、「教育する istruire」ということなのだろう。そういえばイタリア語で Ministro della pubbulica istruzione と言えば「教育省」のこと。

 

1-3. AMMAESTRARE 

 

動詞 ammaestrare (仕込む)とは、「師匠に従わせる a- maestro -are 」こと。 この言葉は、動物にも使われて「調教」という意味にもなる。そもそもこの maestro という言葉は「ほかの人々よりも偉大であったり、年上だったりするもの、つまり師匠など」のこと。

 

以上が「教える」 insegnare とその類義語 istruire, ammaestrare 。この系統の動詞は、基本的に教師と生徒という関係における「教える」行為を記述しているが、そこにもう少し集団的な意味合いが入ってくると「教育する」 educare となる。その類義語 formare, plasmare とともに見てゆこう。 

 

2-1. EDUCARE 

 

動詞 educare は「外へ( es- )連れ出す( ducare )」こと。ここには、人がその内部に何かを持ってることが前提になる。その内にあるものを外へひきだすのが教育というわけだ。そういえば、そんな意味だということを、大学時代にイタリア語を教わったマリーサさんから聞いた記憶がある。というか、ぼくのなかにそんな記憶が「刻み込まれていた insegnato」ということか。あのころは勉強しなかったけど、イタリア語劇なんてのに出演して、褒められたこともあったっけ。おだてられて、おれって才能あるのかななんてうぬぼれちゃったわけだけど、あれが educare だったのかもしれない。

 

2-2. FORMARE 

 

動詞 formare は、読んで字のごとく、人に形 forma を与えること。ちなみに formazione というと「学習や経験による精神的、知的能力の成熟」のことで、「人格形成」なんていうときに formazione della personalità なんて使うようだ。ようするに、個人の持っているものを引き出したら educare 、次にその個人がうまく集団のなかに入るように形を与えなければならない formare ということなのだろう。

 

2-3. PLASMARE 

 

動詞 plasmare は「形成する・造形する」。formare がもう少し明確な目標を持って、厳格になったもの。ようするに、既存の集団秩序に沿うように矯正すること、つまり形にはめ込むというニュアンスが入ることになる。

 

個人対個人の色彩の強い「教える insegnare 」や集団的なニュアンスを持つ「教育する educare 」の系統に加えて、具体的な学習行為へと駆り立てる側面に力点を置くのが「練習させる esercitare 」の系統の動詞だ。

 

3-1 ESERCITARE 

 

動詞 esercitare (練習させる)は「外へ (ex-) 追い立てる arcēre ‘cacciare’ 」という意味の動詞。人が追い立てられて立ち向かうのが「練習 esercizio 」ということ。この esercizio が宗教的なものであるとき「(祈りと瞑想による)おつとめ esercizi spirituali 」となり、軍事的なものであるとき「訓練」と呼ばれ、一つの軍事的な集団となると「軍隊 esercito 」と呼ばれるわけだ。

 

3-2 ADDESTRARE  

 

動詞 addestrare は「右を向かせること」全員を「右向け、右!”Attenti a destra!”  とやれば、まさに学校体育、さらにはマスゲーム、そして当然軍事訓練へとつながってゆく。動物の調教にも使われる言葉だ。

 

 

3-3. ALLENARE 

 

動詞 allenare は主にスポーツの世界で「練習させる・鍛える」の意。 この動詞の語幹の lena は「苦労に立ち向かう活力、エネルギー  vigoria, energia nell'affrontare le fatiche」のこと。つまり a- lena -are とは、そんな「活力・エネルギー」を起こさせるの意。ただし、この名詞 lena は動詞 anelare 「あえぐ、息を切らせる」から派生したもの。つまりスポーツの「コーチ allenatore 」は、「選手からやる気を引き出す人」であると同時に、選手の「息を切らせる」ように強いる人でもあるわけだ。

 

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 ここまでは、「教える」側の動詞をみてきたが、次に「学ぶ」側の動詞を見てみよう。思い浮かぶ単語は imparare と studiare 。

 

1. IMPARARE 

 

動詞 imparare(学ぶ)は、im-parare という構成なのだが、その原義は「自分のもととして  in- ‘in possesso’  取り込む parare ‘prendere’ 」 。なるほど「学ぶ」が、その対象を「自分のものとする」というのはわかりやすい。ただし、ここで気になるのはその原義にある動詞 parare だ。

 Parare は proteggere(防御する) bloccare(阻止する) fermare (止める)の意味なのだが、語源辞典を調べると、その元となったラテン語 parare が、動詞 parere「出産する partorire, 現れる apparire 」の継続形だという記述が見られる。この parere の過去分詞が parto で、イタリア語では「出産」の意。そしてここから partorire 「生む」という動詞が派生している。

 それにしても「生む」の継続形とはどういうことなのか?

 ラテン語の動詞 parere 「生む」の継続形である parare のそもそもの意味は「世話する  ‘procurare’ 」だと言う。ここから推測するに、「生む」という行為の継続とは、生まれたものを「世話する」ことが「生む」という行為の継続としてあるという観念のことなのだろう。この「世話」には、生まれた子どもを着飾ったり(飾る)、危険なものから守ったり(防御する・阻止する)することが含まれてくる。だからこそ、この継続形 parare からはイタリア語 paramento 「祭壇を飾ること」(飾ること)、 paratoia 「水門」(止めること)などが派生してくるわけだ。なるほど、その過去分詞から出て来たイタリア語の名詞 parata に、サッカーの「セービング parata 」やカーニバルや軍隊の「パレード、閲兵式 parata」の意味があるのも、これで納得できる。

 ようするに動詞 parare は「何かのために世話をすること procurare」であり、それはまさにラテン語の動詞 parere 「何かのために創造すること、生むこと partorire, procreare 」の継続形から来たものに他ならない。

 

 だとすれば imparare とはどういう事態なのか。ここからは、想像を膨らませてみよう。もともとのラテン語 parare (世話する)では、共同体のなかで、親が子どもに、あるいは飼い主が家畜に対して、その出産、その庇護、その成長に関わるという事態だったはずだ。ようするに共同体の未来の成員(こども)や未来の糧(家畜)は、生みっぱなし(生まれっぱなし)では死んでしまうから、それを庇護し、成長を見守ること=養育・飼育が要請されるし、そうしなければ、共同体は継続できない。動詞 parare (守り育む)が parere (生む)の継続形であることは、そうした共同体の原初的な出来事(=共同体内的な出来事)として記述できるのではないだろうか。

 

 ここから派生したイタリア語の imparare (教える)もまた、やはり共同体のなかの出来事として記述できる。ただし、ここでは共同体の成員としての個人が、己自身との関わる関わり方に焦点が移っている。そこで個人は、自らの内の何ものかの「発生、保護、成長」に主体的に関わる様が記述されているのではないか。つまり、imparare が対象とするのは、もはや「子ども」や「家畜」ではなく、これまた共同体の継続に欠かすことのできない「言語・技術」だということ。それは、あくまでも個人の内に「生まれ・現れ」るものでありながら、放っておけば「死ぬ・消える」ことになる。だからこそ、保護の必要があり、さらにはその発達を促進してやらなければならない。そんな能力を、個人の内側に与えること。それが imparare ということではあるまいか。

 つまりイタリア語の動詞 imparare とは、個人の外部から到来する言語や技術を内在的な「生まれ・現れ」として受け取り、それが消えないように保護し育んで共同体へと返すような、個と集団の関わりの有り様を、個の側から記述するものにほかならない(と思う)。

 

2. STUDIARE

 

動詞 studiare は「勉強する」。語源的にはラテン語の動詞 studere から来るが、これは aspirare (熱望する) applicarsi(取り組む), occuparsi con passione (熱心に関わる)studiare(勉強する) などの意。その名詞形 studium は zelo(熱心さ)cura(世話)interesse(関心)propensione(傾向) passione(情熱)の意だ。さらにこの studere について、興味深いことにその語根は、動詞 tundere ‘coplire, precuotere’ (打つ・揺り動かす)と同じく、サンスクリット語の tudati ‘coplire’ (打つ)にまで遡る。つまり動詞 studiare の語義は、「打ちのめされた状態でいることrestare colpiti 」から転じて「強く欲する desiderare vivamente 」へと変化したものと考えられるわけだ。

 こうして studiare には「打たれた・衝撃を受けた・驚いた」という事態が隠されていることが推測される。その「打たれた」衝撃のもとに「学び」が起動するというわけだ。これを哲学の起源にある「驚き(タウマゼイン thaumazein )」と比べると面白いかもしれない。哲学的な驚きが、あくまでも「見る」という行為からの派生する視覚的な驚き meraviglia だとすれば、studiare にあるのは「打たれる」という皮膚的な衝撃なのだろう。

 

 

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 それにしても「教える」とか「学ぶ」ということの言葉を探っているうちに、「体罰」よりももっと激しく残虐な人間的現実が浮かんできたような気がする。そこから今一度、「教える」こと「学ぶ」ことを立ち上げゆくこと、それが当面の課題かな。