雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ジョヴァノッティの新曲 "Oh, Vita!" 、訳してみた

Oh, Vita!


ジョヴァノッティのニューアルバムを聞いた。その一曲目、リズムが気に入った。歌詞も悪くない。むしろ、その嫌味のない若々しさが心地よい。

1966年生まれで今年51歳になったジョヴァノッティ。若造(ジョヴァノット)ではない。けれども、ここには50代のおっさんだからこそ歌える「若さ」がある。

ビデオに映っているのはジョヴァノッティ本人が20代を過ごしたローマのアパートの界隈だという。冒頭に、ムーラ・アウレリエ通り (Viale delle mura aurerile) と読めるから、ちょうどサン・ピエトロ大聖堂の南で、トラステヴェレの北あたりだ。白黒の映像がとらえる通りや人々の映像は、なんだかニューヨークのクイーズ地区を思わせるタッチで、リアルな人生を飾り気なくとらえていて好感がもてる。 

www.youtube.com

 

告白しておくと、五十路のジョヴァノッティが、ようやく自分自身と出会えて子どものように嬉々としている姿に、ぼくはおもわずホロリとさせられてしまったのだ。「そうなんだよ、人生は50代からがぐっと楽しくなるんだよ」なんて思いながら。

 そんなジョヴァノッティの Oh, Vita! 、以下にささっと訳してみました。ご笑覧。

 

ここはミシシッピーでもアトランタでもない 

なのにおいらの白い肌の下には何があるのか

14歳のとき感じたのさ 自分はまるで

N.Y.クイーン地区のホリス生まれ、妙な名前がつけられたけどね

イタリアのパスポート 地中海のハート

労働者階級の英雄で愛は心のおもむくまま

酒樽は一杯でしかも女房が酔っ払てるのもあり*1

アラカタカ*2 の市街にある宇宙基地

ガボマルケス*3ヴァレンティーノ・ロッシ*4、そして「ハッピーデイズ」*5

ディエゴ・ベラスケス、「サタデーナイトフィーバー」、「ウォーク・ディス・ウェイ」

森の呼び声が聞こえたなら

そいつはおいらの音楽、パーティのはじまりさ

 

どうしたっておれ

おまえのこと祝わずにいられない ヴィータ(生命)よ ああ生命

qui non è il Mississippi e nemmeno Atlanta 

ma non so che cosa c’è nella mia pelle bianca

che a quattordici anni mi ha fatto sentire come

nato a Hollis Queens ma sotto falso nome

ho il passaporto italiano e un cuore mediterraneo

working class hero con un amore spontaneo

per la botte piena e per la moglie ubriaca

la base aerospaziale nel centro di Aracataca

Gabo Marquez Valentino Rossi ed happy days

Diego Velásquez  Saturday night fever Walk this way

e quando senti il richiamo della foresta

è la mia musica e la tua festa

 

Come posso io non celebrarti vita

Oh, Vita!…Oh, Vita!

スキップ、スキップ、ダイブ、社交的にやれるんだ

リズムで、モッツァレラにトマト、ほらピザできた

スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス

旧石器時代人のインパクトはモンスタラス

大学は出てないけどハーバードでは教えられる

ヴィレッジ・ヴァンガードでよりも時間をうまく即興してやれる

いまではおいらもスタンダード、大いなるクラッシック

クイック、ストップ、ロケンロール、ミスター・ファンタスティック

神がいるなら、たぶんイエス、たぶんノー、まったく

でも話は聞こう、ちょっとなら信じてもかまわない

みんな誰かの子どもに生まれたんだからあとはやるっきゃねえ

ルーツなんてねえけど歩くための足ならあるさ

 

どうしたっておれ

おまえのこと祝わずにいられない ヴィータ ああヴィータ

どうしたっておれ

おまえのこと祝わずにいられない 生命よ ああ生命

skip skip dive so socializza 

ritmo mozzarella pomodoro ecco una pizza

supercalifragilistichespiralidoso 

uomo paleolitico di impatto mostruoso

non sono laureato ma posso insegnare ad Harvard

e improvviso sul tempo meglio che al Village Vanguard

ormai sono uno standard un grande classico

quick stop rock n roll Mister Fantastico

Se esiste un Dio forse sì forse no boh

Ma ascolto le storie disposto a crederci un po'

Che siamo figli di qualcuno e il resto è tutto da fare

non ho radici ma piedi per camminare

 

Come posso io non celebrarti vita

Oh, Vita!…Oh, Vita!

Come posso io non celebrarti vita

Oh, Vita!…Oh, Vita!

おいらにはジャズマンのフローとバリスタのムード

折れた骨もピッチに立つから治っちまった

ピストルは水鉄砲で銀行強盗

馬の動きがL字で人生の扉は開き

向かうのは王手 革命

カンタウトーレは舌がパーカッション

叩いてみせる歯の痛み、人々の歩み

アルカトラズ、どんちゃん騒ぎ、あっという間の急降下

元気出せよ 旅の途中の想像力

触れるぜ 野生の心のど真ん中

オリノコ川の河口、ポエムとゲーム

暑いだろ、ベイビー?

そいつが聖なる炎

 

どうしたっておれ

おまえのこと祝わずにいられない ヴィータ ああヴィータ

どうしたっておれ

おまえのこと祝わずにいられない 生命よ ああ生命

ho il flow di un jazzista e il mood di un barista 

e le ossa rotte riparate a forza di stare in pista 

con la pistola ad acqua rapino la banca

La mossa del cavallo a elle che la via mi spalanca

verso lo scacco al re verso la rivoluzione 

un cantautore con la lingua come una percussione

che batte dove duole il dente e dove passa la gente

alcatraz razzmatazz precipitevolissimevolmente

coraggio la fantasia in viaggio

e tocco il centro esatto del cuore selvaggio

la foce dell’Orinoco la poesia e il gioco

senti un calore baby?

è il sacro fuoco

 

Come posso io non celebrarti vita

Oh, Vita!…Oh, Vita!

Come posso io non celebrarti vita

Oh, Vita!…Oh, Vita!

ブーン、ブーン、ブーン、ブーン、人生のリズム

笑い話さ、自然が飼い慣らされるなんて

ブツブツ言うなら、信じてこいや

ここではなんでもいつでもおいらのお気に召すまま

趣味でもなければ報酬のためでもない

岩礁からダイブして人生の荒波へ

おいらはミグランテ(渡り人) おいらはカンタンテ(歌い人)

ダマスカスのパン職人で、遠くに光るスター

どこかの聖具室の調律の狂ったピアノで

衛兵の最前衛として後衛の前に立ち

恐しさの時代にあって

花のさく時を待つのさ

もし女の子なら 名前は

フトゥーラ(未来)だ

 

どうしたっておれ

おまえのこと 祝わずにいられない ヴィータ ああヴィータ

どうしたっておれ

おまえのこと 祝わずにいられない 生命よ ああ生命

boom boom boom boom ritmo della vita 

la barzelletta di una natura addomesticata

a beh sì beh vacci a credere te

qui è tutto sempre relativo come piace a me

non sono qui per il gusto o per la ricompensa

ma per tuffarmi da uno scoglio dentro all’esistenza

sono un migrante sono un cantante

un panettiere a Damasco una stella distante

un pianoforte scordato dentro a una sagrestia

l’avanguardia di guardia davanti alla retrovia

nel tempo della paura

aspetto la fioritura

e se è una femmina si chiamerà 

futura

 

Come posso io non celebrarti vita

Oh, Vita!…Oh, Vita!

Come posso io non celebrarti vita

Oh, Vita!…Oh, Vita!

 

 

Oh, vita!

Oh, vita!

  • ジョヴァノッティ
  • ポップ
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes
Oh, Vita!

Oh, Vita!

 

 

*1:イタリアのことわざで「酒樽が一杯で女房が酔っ払っている」のはありえないことの例え

*2:ガルシア・マルケスの出身地

*3:ガブリエル・ガルシア=マルケス - Wikipedia

*4:バレンティーノ・ロッシ - Wikipedia

*5:ハッピーデイズ (テレビドラマ) - Wikipedia

あらゆる終わりを超えて響き渡る「叫び」

Th?or?me (Teorema) (Theorem) (DVD) (1968) (French Import) (ITALIAN LANGUAGE ONLY) by Silvana Mangano

 

先日、横浜の朝日カルチャーセンターで『テオレマ』について話してきました。しかも「名作の謎と秘密」というシリーズだったのですが、いやはや、さすがにパゾリーニは簡単ではありません。語りきれなかったことや、まだまだわからない疑問も含めて、これから取り組むべき新たな課題として浮かび上がってきました。

 問題はなかなかその課題に取り組む余裕がないってことなんですわ、ハハハ、なんて自分を茶化しているだけでは、あまりにも無責任。というか、自分でも気持ちがわるいので、ともかく懸案だったラストシーンの「叫び」についての、パゾリーニ自身の自由詩を翻訳しておきます。

 パゾリーニというひとは、この映画が公開された1968年当時、警官と学生たちがぶつかった事件を取り上げるのですが、そのとき、大勢のイタリア知識人がそうしたように学生に同情することはありません。自分が同情するのは、学生になぐられた警察官のほうだとして(『共産党を若者に』)、物議を醸し出した人なのです。警官に同情するというと、えっと思うむきもあるでしょう。けれど、その理由を読めば、なるほどと思わせるものがあります。パゾリーニは、学生たちはそもそもブルジョワの子息だと喝破すると、警官たちが実のところ下層プロレタリアートの出身であるという点に着目するのです。貧しい家で育った子どもたちが、安定を求めて警官となり、制服を着せられて人格まで剥奪されると、ついには権力の手先と堕してしまい、ブルジョワの子息の殴られてしまことのほうが、憎まれる存在として、憎しみを煽ってしまうほかないことのほうが、同情すべきだというのです。

 ほんとうの下層プロレタリアートあるいは抑圧された人々は誰なのか。おそらくパゾリーニは、ほかのどんな作家よりも、ほんものの従属階級(サバルタン)に対する感性が豊かだったのでしょう。そのあたりは、彼の出自を考えれば、少しは見えてくるものがあります。しかし、ここで記しておきたいのは、そういう従属階級への感性と同時に、彼には打倒すべきブルジョワへの感性も持ち合わせていたということです。それは、おそらく自己理解とか自己批判と呼ばるものなのかもしれません。だからこそ、この映画では、「ブルジョワは自らの支配の道具そのものによって打ち倒されるべく運命付けられてる」という「定理(テオレマ)」は、はたして本当なのかという疑問を投げかけているのではないでしょうか。

 『テオレマ』という映画には、ブルジョワはただ打ち倒される運命にあるばかりで、何をしても救われることがないのか、という問いがあります。ちょっと考えてみればわかるのですが、それはアッシジのフランチェスコの問いでもありますね。フランチェスコもまた裕福な家の出身でしたが、ご存知のように、清貧による帰依によって、救われることになる(あるいはそういう話しになる)わけです。そこには、転向 convertire という契機があるいわけですが(フランチェスコの場合は戦争だったのでしょうか?)、パゾリーニの映画で、そんな転向の契機として登場するのが、客人(テレンス・スタンプ)なのですね。

 この客人、なにしろアンジェロ(ニネット・ダヴォイ)が到来を告げるわけですから、いわばキリストの再来なのわけですね。そのキリストの訪問をうけたのが、ミラノのとあるブルジョワ一家なのわけです。そして家族の全員が、身体的にして精神的な触発を受けることになります。けれども、ここからがパゾリーニのすごいところです。キリスト=客人による触発によって、幸福な救いがもたらされるわけではないというのが、おそらくはその眼目なのでしょう。

 救いでなければなんなのか。ぼくの見るところでは、そこから出てくるものは「叫び」なのだと思います。そうなのです。強烈な転向の経験、キリスト的なものの触発からは、人に「叫び」をもたらすというわけです。そして、叫びが起こるためには、その場所にゆかなければなりません。キリスト教において親しまれてきた「砂漠」です。

 その「砂漠」と「叫び」を描写するパゾリーニによる散文詩は、映画に先立つ小説のなかに見出せます。その言葉を読むだけではよくわかりません。読まずに映像を見るだけでもうまく理解できません。ところが映像を見てその言葉を読めば、あるいは言葉を読んで映像をみれば、なにかが、ぼくの目の前に像を結ぶように思われます。なにかが立ち上がってくるのです。それは映像だけでは捉えられないし、言葉だけでは描ききれません。どちらかが欠けると、どうしても何かが、こぼれ落ちてしまうのです。その何かこぼれ落ちてしまうもの、捉えきれず、あるいは描ききれず残されてしまうもの、そこにこそが、パゾリーニの思想の核心にせまるなにものかだと思うのですが、ここではさしあたり、彼の『テオレマ』における、あの「砂漠」と「叫び」の描写を日本語に訳してみたいと思います。


ではどうぞ。

ああ、わたしの裸足の足よ、おまえたちが歩むは

砂漠の砂の上。

わたしの裸足の足よ、おまえたちにに運ばれる場所は

ただ唯一無二の存在があって、

だれの視線からも隠れることのできないところ。

わたしの裸足の足よ

おまえたちが行くと決めた道に

今 わたしは従う それはあたかも

父たちの見たヴィジョンのなかを行くかのようだ

父たちによって、1920年代、我がミラノの屋敷は建てられ、

若き建築家によって、1960年代、それは完成した!

イスラエルの民あるいは使徒パウロにとってそうであったように、

砂漠によってもたらされるのは

現実のなかでも、それなしではいられないものだけ。

あるいは、もっとうまく言うなら、現実の

すべてが剥ぎ取られ エッセンスだけになったもの、

ちょうど人が生活のなかで思い描き、ときには、
哲学者になることもなく、考えるものなのだ。

じじつ、まわりには何もない

あるのは必要なものだけ:

大地、空、そして一個の人間の体だけ。

いかに狂気にあふれ、底しれず、澄み渡ったものであれ

くらい地平線の、その輪郭はひとつ:

どの一点をとっても、ほかの点と同じ。

Ah, miei piedi nudi, che camminate

sopra la sabbia del deserto! 

Miei piedi nudi, che mi portate 

là dove c’è un’unica presenza

e dove non c’è nulla che mi ripari da nessun sguardo!

Miei piedi nudi

che avete deciso un cammino

che io adesso seguo come in una visione

avuta dai padri che hanno costruito, 

nel ’20, la mia villa di Milano, e dai giovani

architetti che l’hanno completata nel ’60! 

Come già per il popolo d’Israele o l’apostolo Paolo, 

il deserto mi presenta come ciò

che, della realtà, è solo indispensabile. 

O, meglio ancora, come la realtà

di tutto spogliata fuori che della sua essenza

così come se la rappresenta chi vive, e qualche volta, 

la pensa, pur senza essere un filosofo. 

Non c’è infatti, qui intorno, niente 

oltre a ciò che è necessario: 

la terra, il cielo e il corpo di un uomo. 

Per quanto folle, abissale  o etereo 

sia l’orizzonte oscuro, la sua linea è UNA: 

e qualunque suo punto è uguale a un altro punto. 

暗くまるで煌々と輝くようで

大いに厳しく甘い砂漠と、

癒しがたく空色の天腔は、

常に変化しながら常に同じ。

よろしい。では自分について何を語るべきか?

この自分、かつていたところにあり、いまあるところにいたもの、

どこかのリアルな人間を再現する機械人形として

そのものに代わって送られた砂漠を歩くものとなったもの、その何を?

わたしとは、たちあがる疑問にみたされながら、

それに答えられないでいるところのもの。

悲しい結末ではないか、この砂漠を、わたしが

人生のほんとうにリアルな場所として選んだのならば!

ミラノの通りを探し歩いてたあの男は

いま砂漠の通りを探し歩いている人物と同じなのか?

たしかにそうだ、現実を象徴するシンボルには

現実にはない何かがある:

シンボルは現実のあらゆる意味を表象しながら、

そこに ― シンボルに固有な

表象する本性によって― なにか新たな意味を加える。

しかし ― もちろんイスラエルの民あるいは使徒パオロとはちがって ― 

この新しい意味は、わたしには解読不可能のままだ。

Il deserto oscuro che sembra sfolgorare  

tanta è la sua durezza zuccherina, 

e la cavità del cielo, immedicabilmente azzurra,

mutano sempre ma sono sempre uguali. 

Bene. E cosa dire di me? 

Di me, che sono dove ero, e ero dove sono, 

automa di una persona reale

mandato nel deserto a camminare per essa?

IO SONO PIENO DI UNA DOMANDA 

A CUI NON SO RISPONDERE. 

Triste risultato, se questo deserto io l’ho scelto

come il luogo vero e reale della mia vita! 

Colui che cercava per le strade di Milano

è lo stesso che cerca ora per le strade del deserto? 

È vero: il simbolo della realtà

ha qualcosa che la realtà non ha: 

esso ne rappresenta ogni significato, 

eppure vi aggiunge — per la stessa sua

natura rappresentativa — un significato nuovo.

Ma — non certo come per il popolo d’Israele o l’apostolo Paolo — 

questo significato nuovo, mi resta indecifrabile. 

聖なる招魂が深く沈黙するなか、

だからわたしはこう自問する、砂漠に行くには

《どうしてもあらかじめ砂漠へと運命付けられた人生を

経験しておかなければならなかったのか》と:そして、それゆえに、

歴史の日々を生きながら ― その表象に比べればそれほど素晴らしくも 

純粋でも本質的でもない歴史の日々を生きながら ―

そこに立ち上がる数えきれない無用な問いかけに

すでに答えることができていなければ

今ここで砂漠の、唯一にして絶対的な

問いかけに答えることができないのか、と。

憐れむべき凡庸な結末だ、

― 抑圧された人々の文化が按手されているため世俗的結末でもある ―

神にいたろうと始められたことなのに!

いったい何が勝ることになるのか?理性の俗世的な

不毛なのか、それとも宗教の、すなわち歴史を離れて

生きる者の唾棄すべき豊穣なのか?

Nel profondo silenzio dell’evocazione sacra,  

mi chiedo allora se, per andare nel deserto, 

non bisogni avere avuto una vita

già predestinata al deserto; e se, dunque, 

vivendo nei giorni della storia — così meno bella, 

pura ed essenziale della sua rappresentazione — 

non bisogni avere saputo rispondere

alle sue infinite e inutili domande

per poter rispondere, ora, 

a questa del deserto, unica e assoluta. 

Misera, prosaica conclusione, 

— laica per imposizione di una cultura di gente oppressa — 

di una vicenda cominciata per portare a Dio!

Ma cosa prevarrà? L’aridità  mondana

della ragione o la religione, spregevole

fecondità di chi vive lasciato indietro dalla storia?

かくして、わたしの表情に優しい諦めが浮かぶのは

ゆっくりと歩くときであり ―

息を切らし汗を滴らせるのは

走るときであり ―

聖なる驚きに満たされるのは

この終わりのない地平を見回すときであり ―

子どものように不安になるのは

はだしの足で滑り降り駆け上がり

その砂を観察するときなのである。

まさに、それは人生のようであり、ミラノの暮らしのようだ。

それにしてもなぜ前を向くのか、まるで何かが見えかのように?

暗い水平線の向こうには新しいものは何もなく、

どこまでも異なりながら変わることのないその輪郭が

空の青に際立つこの場所は

わたしの貧相な文化が想像したものなのに?

それなのになぜ、わたしの意思の及ばないところで、

顔がひきつり、首の

血管がふくれあがり、

目に燃える光があふれるのか?

Dunque, il mio viso è dolce e rassegnato  

quando cammino lentamente — 

affannato e grondante di sudore, 

quando corro —

pieno di uno spavento sacro, 

quando guardo intorno questa unicità senza fine — 

infantilmente preoccupato, 

quando osservo, sotto i miei piedi nudi, 

la sabbia su cui scivolo o mi arrampico. 

Proprio, appunto, come nella vita, come a Milano. 

Ma perché guardo fisso davanti a me, come vedessi qualcosa? 

Mentre non c’è nulla di nuovo oltre l’orizzonte oscuro, 

che si disegna infinitamente diverso e uguale, 

contro il cielo azzurro di questo luogo

immaginato dalla mia povera cultura? 

Perché, fuori dalla mia volontà, 

la mia faccia mi si contrae, le vene

del collo mi si gonfiano, 

gli occhi mi si empiono di una luce infuocata?

そして叫びが、ほんのしばらく後に

喉からほとばしり出てきても、

なおあの、つかみどころのなさが

この砂漠の道行きを支配しているのはなぜなのか?

なんとも言い難い叫び、それが

わたしの叫び。まことにおぞましく、

わたしの口もとの輪郭を

何か獣のそれのように歪めてしまう叫び。

しかし、どこかしら楽しげで、

わたしを子どもに戻してくれる叫び。

誰かの注意を引くか、あるいは助けを求めるようで、

もしかすると誰かを冒涜しようとする叫び。

なにか、この荒涼とした場所で

「わたしは生きている」と知らせる叫び、

もしかすると、ただ生きているではなく、

「知っているのだ」という叫び。そのなかに、

不安の奥底に感じられるような

かすなか希望を響かせている叫び、

あるいは、まったく馬鹿げた自信をみなぎらせながら、

その内奥に 純粋に 絶望を響き渡らせている叫び。

いずれにせよこれだけは確かだ。そこにどんな

意味があるにせよ、わたしのこの叫びは

運命として、いかなる終わりをも超えて響きわたる。

 

終わり

E perché l’urlo, che, dopo qualche istante,  

mi esce furente dalla gola, 

non aggiunge nulla all’ambiguità che finora 

ha dominato questo mio andare nel deserto? 

È impossibile dire che razza di urlo

sia il mio : è vero che è terribile

— tanto da sfigurarmi i lineamenti

rendendoli simili alle fauci di una bestia —

ma è anche, in qualche modo, gioioso, 

tanto da ridurmi come un bambino. 

È un urlo fatto per invocare l’attenzione di qualcuno

o il suo aiuto; ma anche, forse, per bestemmiarlo. 

È un urlo che vuol far sapere, 

in questo luogo disabitato, che io esisto

oppure, che non soltanto esisto, 

ma che so. È un urlo 

in cui infondo all’ansia

si sente qualche vile accento di speranza; 

oppure un urlo di certezza, assolutamente assurda, 

dentro a cui risuona, pura, la disperazione. 

Ad ogni modo questo è certo: che qualunque cosa 

questo mio urlo voglia significare, 

esso è destinato a durare oltre ogni possibile fine. 

 

FINE

http://deeperintomovies.net/journal/image15/teorema6.jpg

(Massimo Girotti in "Teorema")

 小説版『テオレマ』はこれですね。ペーバーバック版になっているみたいですね。

Teorema

Teorema

 

 
 日本語訳は米川さんのがありますね。自分では訳し終わったので、これから比較してみようと思います。

テオレマ―定理 (1970年)

テオレマ―定理 (1970年)

 

 映画の日本語版は残念ながらまだブルーレイは出ていません。でも、この作品はぜひブルーレイで見たいもの。

テオレマ [DVD]

テオレマ [DVD]

 

 

「似る」こと:「親和力」と「深くて暗い川」

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d2/Paradiso_Canto_31.jpg

 

この日曜日、どうしてだか「親和力」のことを考えることになったのは、この記事が始まりだった。

cakes.mu

ここで東浩紀はこんなことを言っている。

人間はそもそも、言葉だけではなく、服装や振る舞いや声の高さ低さや、じつに多様なチャンネルからの情報を組み合わせて相手の人間像を組み立てているわけですね。「似る」という判断はその総合から生まれていて、じつは人々は、言葉の内容なんかよりもはるかにそっちのほうに敏感で、基本的にそれをもとにコミュニケーションしているわけです。それは、イデオロギーなんかよりもはるかに根幹の部分で、人の行動を決定している。 

この発言、ぼくにはなんだかピンときた。「似る」というのは、たしかに「イデオロギーなんかよりもはるかに根幹の部分」で働いているぶん、かなりヤバイことなのだ。

* * *

ぼくが思い出したのは、大学のころに外国語の語劇の舞台をやったことだ。じつは素人が舞台に上がると、お互いのセリフがどうして似たようなリズムになり、抑揚が自然に同期してしまう。異なる役のセリフが、たがいに「似る」のはドラマとしてはまったくダメ。むしろ、まったく異なるリズムと抑揚がぶつかって、角と角がガチガチいうようなぐらいでないと、ドラマとしてならない。

ところが、日常的にはその逆のことがおこる。ぼくらは「似る」ことによって、あまりドラマチックな日常を生きている。家族どうしは、いつのまにか似たような話し方をしているし、しぐさも似てくる。同じ学校の生徒、同じクラブ、同じ地域、同じ町、同じ県の人々、そして同じイデオロギー、おなじ集団の人々は、どことなく似てきてしまうのだ。

けれども、自分たちが似ていることは、中にいると気がつかない。一度、似たものの集団から外にでることがなければ、似ていることに気がつくことはできない。外に出ることなくその同質性に気がつくためには、遠くから客人がやってきたり、外の言葉に触れる機会がなければならない。その意味で外国語の学習は、母語の話者がようやく獲得した「似たもの同士」の世界に亀裂を入れることになるのだろう。

考えてみれば、ホモ・ロクエンスであるぼくたちは、言葉を話すことによって、どうしても「似る」ことを避けられない。そもそも、ぼくらが発する《声》が、仲間の中で機能するためには、その波長があいてに同調しなければならない。同調することがなければ、ただのノイズであり、通じるとはいえないのではないだろうか。

《声》が同調すること。同調することで、集団において相互に通じるものが生まれること。それが言語の起源だとすれば、同調できない《声》は言語となることはない。誰かと同調し、そうすることで通じる《声》から言語が始まるとすれば、あらゆる言語は、その起源に同調すること、つまり《声》が互いに「似る」という現象を持つことになるのではないだろうか。そう言う意味で、《声》を「似せる」という能力は、おそらく言語の起源の驚異を想起させるのではなだろうか。だからかつては寄席の舞台で、今ではテレビの人気番組で、モノマネが芸として成立してるのだとは考えられないだろうか。

この「似る」というのは「同じ」であることとは違う。「違う」ものでなければ「似せる」ことはできない。イタリア語で「似ている」ことを 〔affinità〕というが、これは「境界に向く(a-finis)」ということ*1。異なるものが隣接するときの力学を表しているわけだ。人間どうしが「隣接する」ときの力学を「親近感 affinità 」と言うが、それは同時に、「親族 affinità」のことでもある。だから親族は似た者どうしの集団になるのだが、それはよいことだけではなく、かなりうっとうしいことでもある。

ゲーテには『親和力』という小説があるけれど、これは「化学的親和力 chemical affinity」から取られたものらしい。Wikipedia によれば「異なる化学種間での化合物の形成しやすさを表す電子的特性」のことだ。ゲーテは「化学的親和力」が人間にも働くものだとということを「姦通小説」を通して描きだしたのだろうか。どうしようもなく好きになることは、そこでは道徳や社会制度を破壊するような解放力を持つことになる。

そう考えてみると、「似ること」あるいは「親和力」というのは、二重の意味で「やばい」。一方では、似た者同士が集まる家族や村や閉鎖的な共同体に特有の鬱陶しい世界を作り上げる。だから「やばい」。けれども、その「やばさ」は同時に、当のその力が作り出した鬱陶しい世界から解放する「やばさ」をもっている。まさに、ゲーテが描いた「姦通小説」は、そういう「やばい」解放力のことを言っていたのではなかったのだろうか(ここは当てずっぽうで言っているので、違ってたらごめんなさい)。

つまり「似る」ということ、あるいは「親和力」というのは、かなり「やばい」力をもっているのだけれど、それが閉塞への力なのか、解放への力なのかはわからない。良いものなのか悪いものなのか、無記の「やばさ」なのである。
そんな力のことを、もしかするとアガンベンは quodlibet と呼んだのではなかったのだろうか。それは「なんであれかまわないもの essere qualunque 」なのだが、「そこにはすでにつねに望ましい(libet)ということへの送付が含意されている 」というものだ*2。そこには、束縛的な磁場としての「親和力」と、解放の力としての「親和力」が働いている。

そういえば、ダンテの『神曲』の最後に有名な一節がある。

L'amor che move il sole e l'altre stelle

愛、それは太陽とその周りの星々を動かすもの。

 ガリレオがのちに重力と呼んだ神秘の力のことだけど、それをダンテは愛(amore)と呼んだわけだ。これって、まさに「親和力 affinità 」ではなかったのだろうか。

神秘の力は、つねに存在の臨界 finis に働くもの。その「あいだ」や「あわい」、あるいは「閾」(@アガンベン)や「深くて暗い川」(@野坂昭如*3。そんなはっきりとしない、無形にして無調の混沌がなければ、なんの形も、どんな調律も生まれることがないのかもしれない。

ぼくらの《声》は、きっと、そこでしか立ち上がることがない。けれどもひとたび立ち上がった《声》は、それが聞こえなくなってもなお、ぼくらを動かすあの神秘の力であり続けるのかもしれない。

ゲンロン0 観光客の哲学

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到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険)

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黒の舟唄

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黒の舟唄

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神曲 天国篇 (講談社学術文庫)

神曲 天国篇 (講談社学術文庫)

 

 

*1:ちなみに「似ている」には simile という形容詞もあるが、これは「ひとつの」(sem-)という語根から来ているので、意味する内容が少し違う。

*2:ジョルジョ・アガンベン『到来する共同体』上村忠男訳(月曜社、2012年)、p.9.

*3:『黒の舟歌』については、このサイトの記事に触発された。ぼくがこの曲を最初に聞いたのは、中島みゆきだったような気もするけれど、ちょっとさだかではない。