雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

あらゆる終わりを超えて響き渡る「叫び」

Th?or?me (Teorema) (Theorem) (DVD) (1968) (French Import) (ITALIAN LANGUAGE ONLY) by Silvana Mangano

 

先日、横浜の朝日カルチャーセンターで『テオレマ』について話してきました。しかも「名作の謎と秘密」というシリーズだったのですが、いやはや、さすがにパゾリーニは簡単ではありません。語りきれなかったことや、まだまだわからない疑問も含めて、これから取り組むべき新たな課題として浮かび上がってきました。

 問題はなかなかその課題に取り組む余裕がないってことなんですわ、ハハハ、なんて自分を茶化しているだけでは、あまりにも無責任。というか、自分でも気持ちがわるいので、ともかく懸案だったラストシーンの「叫び」についての、パゾリーニ自身の自由詩を翻訳しておきます。

 パゾリーニというひとは、この映画が公開された1968年当時、警官と学生たちがぶつかった事件を取り上げるのですが、そのとき、大勢のイタリア知識人がそうしたように学生に同情することはありません。自分が同情するのは、学生になぐられた警察官のほうだとして(『共産党を若者に』)、物議を醸し出した人なのです。警官に同情するというと、えっと思うむきもあるでしょう。けれど、その理由を読めば、なるほどと思わせるものがあります。パゾリーニは、学生たちはそもそもブルジョワの子息だと喝破すると、警官たちが実のところ下層プロレタリアートの出身であるという点に着目するのです。貧しい家で育った子どもたちが、安定を求めて警官となり、制服を着せられて人格まで剥奪されると、ついには権力の手先と堕してしまい、ブルジョワの子息の殴られてしまことのほうが、憎まれる存在として、憎しみを煽ってしまうほかないことのほうが、同情すべきだというのです。

 ほんとうの下層プロレタリアートあるいは抑圧された人々は誰なのか。おそらくパゾリーニは、ほかのどんな作家よりも、ほんものの従属階級(サバルタン)に対する感性が豊かだったのでしょう。そのあたりは、彼の出自を考えれば、少しは見えてくるものがあります。しかし、ここで記しておきたいのは、そういう従属階級への感性と同時に、彼には打倒すべきブルジョワへの感性も持ち合わせていたということです。それは、おそらく自己理解とか自己批判と呼ばるものなのかもしれません。だからこそ、この映画では、「ブルジョワは自らの支配の道具そのものによって打ち倒されるべく運命付けられてる」という「定理(テオレマ)」は、はたして本当なのかという疑問を投げかけているのではないでしょうか。

 『テオレマ』という映画には、ブルジョワはただ打ち倒される運命にあるばかりで、何をしても救われることがないのか、という問いがあります。ちょっと考えてみればわかるのですが、それはアッシジのフランチェスコの問いでもありますね。フランチェスコもまた裕福な家の出身でしたが、ご存知のように、清貧による帰依によって、救われることになる(あるいはそういう話しになる)わけです。そこには、転向 convertire という契機があるいわけですが(フランチェスコの場合は戦争だったのでしょうか?)、パゾリーニの映画で、そんな転向の契機として登場するのが、客人(テレンス・スタンプ)なのですね。

 この客人、なにしろアンジェロ(ニネット・ダヴォイ)が到来を告げるわけですから、いわばキリストの再来なのわけですね。そのキリストの訪問をうけたのが、ミラノのとあるブルジョワ一家なのわけです。そして家族の全員が、身体的にして精神的な触発を受けることになります。けれども、ここからがパゾリーニのすごいところです。キリスト=客人による触発によって、幸福な救いがもたらされるわけではないというのが、おそらくはその眼目なのでしょう。

 救いでなければなんなのか。ぼくの見るところでは、そこから出てくるものは「叫び」なのだと思います。そうなのです。強烈な転向の経験、キリスト的なものの触発からは、人に「叫び」をもたらすというわけです。そして、叫びが起こるためには、その場所にゆかなければなりません。キリスト教において親しまれてきた「砂漠」です。

 その「砂漠」と「叫び」を描写するパゾリーニによる散文詩は、映画に先立つ小説のなかに見出せます。その言葉を読むだけではよくわかりません。読まずに映像を見るだけでもうまく理解できません。ところが映像を見てその言葉を読めば、あるいは言葉を読んで映像をみれば、なにかが、ぼくの目の前に像を結ぶように思われます。なにかが立ち上がってくるのです。それは映像だけでは捉えられないし、言葉だけでは描ききれません。どちらかが欠けると、どうしても何かが、こぼれ落ちてしまうのです。その何かこぼれ落ちてしまうもの、捉えきれず、あるいは描ききれず残されてしまうもの、そこにこそが、パゾリーニの思想の核心にせまるなにものかだと思うのですが、ここではさしあたり、彼の『テオレマ』における、あの「砂漠」と「叫び」の描写を日本語に訳してみたいと思います。


ではどうぞ。

ああ、わたしの裸足の足よ、おまえたちが歩むは

砂漠の砂の上。

わたしの裸足の足よ、おまえたちにに運ばれる場所は

ただ唯一無二の存在があって、

だれの視線からも隠れることのできないところ。

わたしの裸足の足よ

おまえたちが行くと決めた道に

今 わたしは従う それはあたかも

父たちの見たヴィジョンのなかを行くかのようだ

父たちによって、1920年代、我がミラノの屋敷は建てられ、

若き建築家によって、1960年代、それは完成した!

イスラエルの民あるいは使徒パウロにとってそうであったように、

砂漠によってもたらされるのは

現実のなかでも、それなしではいられないものだけ。

あるいは、もっとうまく言うなら、現実の

すべてが剥ぎ取られ エッセンスだけになったもの、

ちょうど人が生活のなかで思い描き、ときには、
哲学者になることもなく、考えるものなのだ。

じじつ、まわりには何もない

あるのは必要なものだけ:

大地、空、そして一個の人間の体だけ。

いかに狂気にあふれ、底しれず、澄み渡ったものであれ

くらい地平線の、その輪郭はひとつ:

どの一点をとっても、ほかの点と同じ。

Ah, miei piedi nudi, che camminate

sopra la sabbia del deserto! 

Miei piedi nudi, che mi portate 

là dove c’è un’unica presenza

e dove non c’è nulla che mi ripari da nessun sguardo!

Miei piedi nudi

che avete deciso un cammino

che io adesso seguo come in una visione

avuta dai padri che hanno costruito, 

nel ’20, la mia villa di Milano, e dai giovani

architetti che l’hanno completata nel ’60! 

Come già per il popolo d’Israele o l’apostolo Paolo, 

il deserto mi presenta come ciò

che, della realtà, è solo indispensabile. 

O, meglio ancora, come la realtà

di tutto spogliata fuori che della sua essenza

così come se la rappresenta chi vive, e qualche volta, 

la pensa, pur senza essere un filosofo. 

Non c’è infatti, qui intorno, niente 

oltre a ciò che è necessario: 

la terra, il cielo e il corpo di un uomo. 

Per quanto folle, abissale  o etereo 

sia l’orizzonte oscuro, la sua linea è UNA: 

e qualunque suo punto è uguale a un altro punto. 

暗くまるで煌々と輝くようで

大いに厳しく甘い砂漠と、

癒しがたく空色の天腔は、

常に変化しながら常に同じ。

よろしい。では自分について何を語るべきか?

この自分、かつていたところにあり、いまあるところにいたもの、

どこかのリアルな人間を再現する機械人形として

そのものに代わって送られた砂漠を歩くものとなったもの、その何を?

わたしとは、たちあがる疑問にみたされながら、

それに答えられないでいるところのもの。

悲しい結末ではないか、この砂漠を、わたしが

人生のほんとうにリアルな場所として選んだのならば!

ミラノの通りを探し歩いてたあの男は

いま砂漠の通りを探し歩いている人物と同じなのか?

たしかにそうだ、現実を象徴するシンボルには

現実にはない何かがある:

シンボルは現実のあらゆる意味を表象しながら、

そこに ― シンボルに固有な

表象する本性によって― なにか新たな意味を加える。

しかし ― もちろんイスラエルの民あるいは使徒パオロとはちがって ― 

この新しい意味は、わたしには解読不可能のままだ。

Il deserto oscuro che sembra sfolgorare  

tanta è la sua durezza zuccherina, 

e la cavità del cielo, immedicabilmente azzurra,

mutano sempre ma sono sempre uguali. 

Bene. E cosa dire di me? 

Di me, che sono dove ero, e ero dove sono, 

automa di una persona reale

mandato nel deserto a camminare per essa?

IO SONO PIENO DI UNA DOMANDA 

A CUI NON SO RISPONDERE. 

Triste risultato, se questo deserto io l’ho scelto

come il luogo vero e reale della mia vita! 

Colui che cercava per le strade di Milano

è lo stesso che cerca ora per le strade del deserto? 

È vero: il simbolo della realtà

ha qualcosa che la realtà non ha: 

esso ne rappresenta ogni significato, 

eppure vi aggiunge — per la stessa sua

natura rappresentativa — un significato nuovo.

Ma — non certo come per il popolo d’Israele o l’apostolo Paolo — 

questo significato nuovo, mi resta indecifrabile. 

聖なる招魂が深く沈黙するなか、

だからわたしはこう自問する、砂漠に行くには

《どうしてもあらかじめ砂漠へと運命付けられた人生を

経験しておかなければならなかったのか》と:そして、それゆえに、

歴史の日々を生きながら ― その表象に比べればそれほど素晴らしくも 

純粋でも本質的でもない歴史の日々を生きながら ―

そこに立ち上がる数えきれない無用な問いかけに

すでに答えることができていなければ

今ここで砂漠の、唯一にして絶対的な

問いかけに答えることができないのか、と。

憐れむべき凡庸な結末だ、

― 抑圧された人々の文化が按手されているため世俗的結末でもある ―

神にいたろうと始められたことなのに!

いったい何が勝ることになるのか?理性の俗世的な

不毛なのか、それとも宗教の、すなわち歴史を離れて

生きる者の唾棄すべき豊穣なのか?

Nel profondo silenzio dell’evocazione sacra,  

mi chiedo allora se, per andare nel deserto, 

non bisogni avere avuto una vita

già predestinata al deserto; e se, dunque, 

vivendo nei giorni della storia — così meno bella, 

pura ed essenziale della sua rappresentazione — 

non bisogni avere saputo rispondere

alle sue infinite e inutili domande

per poter rispondere, ora, 

a questa del deserto, unica e assoluta. 

Misera, prosaica conclusione, 

— laica per imposizione di una cultura di gente oppressa — 

di una vicenda cominciata per portare a Dio!

Ma cosa prevarrà? L’aridità  mondana

della ragione o la religione, spregevole

fecondità di chi vive lasciato indietro dalla storia?

かくして、わたしの表情に優しい諦めが浮かぶのは

ゆっくりと歩くときであり ―

息を切らし汗を滴らせるのは

走るときであり ―

聖なる驚きに満たされるのは

この終わりのない地平を見回すときであり ―

子どものように不安になるのは

はだしの足で滑り降り駆け上がり

その砂を観察するときなのである。

まさに、それは人生のようであり、ミラノの暮らしのようだ。

それにしてもなぜ前を向くのか、まるで何かが見えかのように?

暗い水平線の向こうには新しいものは何もなく、

どこまでも異なりながら変わることのないその輪郭が

空の青に際立つこの場所は

わたしの貧相な文化が想像したものなのに?

それなのになぜ、わたしの意思の及ばないところで、

顔がひきつり、首の

血管がふくれあがり、

目に燃える光があふれるのか?

Dunque, il mio viso è dolce e rassegnato  

quando cammino lentamente — 

affannato e grondante di sudore, 

quando corro —

pieno di uno spavento sacro, 

quando guardo intorno questa unicità senza fine — 

infantilmente preoccupato, 

quando osservo, sotto i miei piedi nudi, 

la sabbia su cui scivolo o mi arrampico. 

Proprio, appunto, come nella vita, come a Milano. 

Ma perché guardo fisso davanti a me, come vedessi qualcosa? 

Mentre non c’è nulla di nuovo oltre l’orizzonte oscuro, 

che si disegna infinitamente diverso e uguale, 

contro il cielo azzurro di questo luogo

immaginato dalla mia povera cultura? 

Perché, fuori dalla mia volontà, 

la mia faccia mi si contrae, le vene

del collo mi si gonfiano, 

gli occhi mi si empiono di una luce infuocata?

そして叫びが、ほんのしばらく後に

喉からほとばしり出てきても、

なおあの、つかみどころのなさが

この砂漠の道行きを支配しているのはなぜなのか?

なんとも言い難い叫び、それが

わたしの叫び。まことにおぞましく、

わたしの口もとの輪郭を

何か獣のそれのように歪めてしまう叫び。

しかし、どこかしら楽しげで、

わたしを子どもに戻してくれる叫び。

誰かの注意を引くか、あるいは助けを求めるようで、

もしかすると誰かを冒涜しようとする叫び。

なにか、この荒涼とした場所で

「わたしは生きている」と知らせる叫び、

もしかすると、ただ生きているではなく、

「知っているのだ」という叫び。そのなかに、

不安の奥底に感じられるような

かすなか希望を響かせている叫び、

あるいは、まったく馬鹿げた自信をみなぎらせながら、

その内奥に 純粋に 絶望を響き渡らせている叫び。

いずれにせよこれだけは確かだ。そこにどんな

意味があるにせよ、わたしのこの叫びは

運命として、いかなる終わりをも超えて響きわたる。

 

終わり

E perché l’urlo, che, dopo qualche istante,  

mi esce furente dalla gola, 

non aggiunge nulla all’ambiguità che finora 

ha dominato questo mio andare nel deserto? 

È impossibile dire che razza di urlo

sia il mio : è vero che è terribile

— tanto da sfigurarmi i lineamenti

rendendoli simili alle fauci di una bestia —

ma è anche, in qualche modo, gioioso, 

tanto da ridurmi come un bambino. 

È un urlo fatto per invocare l’attenzione di qualcuno

o il suo aiuto; ma anche, forse, per bestemmiarlo. 

È un urlo che vuol far sapere, 

in questo luogo disabitato, che io esisto

oppure, che non soltanto esisto, 

ma che so. È un urlo 

in cui infondo all’ansia

si sente qualche vile accento di speranza; 

oppure un urlo di certezza, assolutamente assurda, 

dentro a cui risuona, pura, la disperazione. 

Ad ogni modo questo è certo: che qualunque cosa 

questo mio urlo voglia significare, 

esso è destinato a durare oltre ogni possibile fine. 

 

FINE

http://deeperintomovies.net/journal/image15/teorema6.jpg

(Massimo Girotti in "Teorema")

 小説版『テオレマ』はこれですね。ペーバーバック版になっているみたいですね。

Teorema

Teorema

 

 
 日本語訳は米川さんのがありますね。自分では訳し終わったので、これから比較してみようと思います。

テオレマ―定理 (1970年)

テオレマ―定理 (1970年)

 

 映画の日本語版は残念ながらまだブルーレイは出ていません。でも、この作品はぜひブルーレイで見たいもの。

テオレマ [DVD]

テオレマ [DVD]