雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

人間の姿をした映画(ルキノ・ヴィスコンティ)1943

ヴィスコンティは、そのデビュー作『郵便配達は2度ベルを鳴らす』(1942)を発表したのち、映画雑誌チネマに Cinema antropomorfico と題する小論を発表する。まだネオレアリズモという言葉がなかったころ、後にその先駆とされる作品を発表したばかりのヴィスコンティは、この小論において映画監督としての決意表明をしたのである。

ぼくは、その内容が今の映画作家にも通じるような長い射程を持っていると思う。実のところ、マッテオ・ガッローネの『リアリティ』(2013)のことを考えながら、ぼくはこの論文を思い出したのだ。70年の時を隔てた映画作品と映画監督の小論の関係については、べつの場所で書くとして、ここではその資料として訳出したものを挙げておくことにする。

 

ルキーノ・ヴィスコンティ DVD-BOX 3 3枚組 ( 郵便配達は二度ベルを鳴らす 完全版 / ベリッシマ / 白夜 )

人間の姿をした映画

 Cinema antropomorfico
 
どうしてわたしは映画の世界で創造活動を始めたのか?
 
(創造活動とは、すなわち人々のなかに生きるひとりの人間として作品を作るということだ。この言葉が、何か芸術家の支配する領域だけに関わるものだけを意味するのではないことは明らかだろう。あらゆる労働者は、生きて、創造する。労働者が生きていられるかぎり、常にそうなのだ。すなわち、労働者が1日を自由で開かれた条件のもとで過ごすかぎり、芸術家にしても、職人や労働者にしても、どちらも生きて創造しているのである)。
 
わたしは、抗しがたい召命を聞いてこのような職業についたわけではない。そもそも召命などは、わたしたちの今の現実からはほど遠いロマン主義的な概念であり、抽象的用語であって、ただ芸術家に都合よく作られ、ただ芸術家の活動が他の人々のものに比べて特権的で際立っていることを言うために用いられるものだ。
 
そもそも何かの職業への召命などは存在しない。存在するのは、おのれの経験についての意識であり、ひとりの人間がほかの人間たちと関わりながら生きるという、生の弁証法的な展開なのだ。だからわたしの考えでは、ただ苦しみに満ちた経験を通してのみ —つまり日々の暮らしのなか、人間的な事象について、愛情を持って客観的に検証することで経験が突き動かされることを通してのみ—、人は専門的な仕事に到達することができるのだ。
 
しかし、到達することは閉じこもることではない。閉じこもれば、あらゆる具体的な社会関係は壊され、多くの人々に起るように、ついには専門化することで現実からの悪しき逸脱に加担してしまう。辛辣な言葉を使うなら、卑劣な現実放棄に終わってしまうのである。
 
わたしは、あらゆる仕事が個別的な仕事であること、それがある意味では「専門職 mestiere 」であることを否定しようというのではない。そうではなくて、仕事とは、それが数多くの生の証の産物となってはじめて、つまり生のひとつの表出となるときにはじめて、価値を持つということが言いたいのである。
 
映画がわたしを魅了した理由は、そこに多くの人々の情熱や願望が流れ込み、それぞれに調整されながら、誰もが張りつめたなかで、なにかよりよい総合的な仕事が目指されていることにある。それゆえ映画監督の人間的な責任は、どうしても並々ならぬほど過酷なものになってしまう。しかし、なにか退廃的な世界観によって損なわれることがないかぎり、監督がその責任を果たすことで、仕事は正しい道を進むことになるだろう。
 
わたしを映画に導いたものは、それが生きている人間を物語る仕事だからだ。物語られるのは事物のなかに生きる人間であって、事物そのもののではないのである。
 
わたしが関心をもっている映画(チネマ)は、人間の姿をした映画(チネマ・アントロポモルフィコ)である。
 
したがって、わたしが監督としてやるべき責務のなかでもっとも情熱を感じるのは、俳優との仕事なのだ——彼らは人間という素材であり、そこから新しい人間が構築され、新しい現実を生きるように仕向けられるなかで、芸術による現実を生み出してゆく。
 
なんといっても俳優は、なによりもまずひとりの人間なのである。彼の保有する人間としての特質は決定的だ。わたしが心がけるのは、その特質に基づき、その特質を見つめながら登場人物を作り上げてゆくことだ。そうやって、俳優としての人間と、登場人物としての人間が、ただひとりの人物となることを目指すのである。
 
今日までイタリア映画は、俳優たちに悩まされて来た。それは俳優たちが自らの欠点や虚栄心を大きくさらけ出すのを放任してきたからだ。しかし、俳優にとって本当に問題となるのは、彼らが自分たちのなかに保有している本性を、具体的に、他にはないかたちで、うまく利用することだ。
 
それゆえ、いわゆるプロの俳優が監督の前に現れるとき、その姿が、個人的な経験によって歪められていることは、ある程度までは仕方のないことだ。プロの俳優は、それまでの経験によって図式的な表現をしてしまうものだが、それはふつう人為的に押しつけられたものであることが多く、その内奥にある人間性から来るものであることは少ないからである。
 
たとえ多くの場合、 偽造されてしまった人格にその核心を見つけるのがかなり骨の折れることだとしても、そうすることは骨折りに値する。なぜなら、根底には常に被造物としての人間がいるのであり、人間ならば解放し、教育し直すことができるではないか。
 
俳優は、それまでの図式から、あらゆるメソッドとスクールの記憶から、力づくで引き離してやり、ついにはその本能的な言語が話せるようにしてやらなければならない。そのためには苦労もあるだろう。しかし、もしもこの言語が、たとえ幾重ものベールに包まれて隠されていようとも本当に存在するのであれば、つまり本物の「独創性 temperamento 」が存在するのであれば、苦労は無駄ではないのである。
 
もちろん、技術もあり経験もある「偉大な俳優」が、そうした原初的な特質を持ち合わせていることだってあると思う。しかし、わたしが言いたいのは、しばしば、市場でそれほど名の知られていない俳優たちでさえ、私たちの注意に値しないわけではなく、むしろかの偉大な俳優に見劣りしない特質を持ち合わせていることがあるということだ。
 
もちろん素人俳優にも同じことがいえる。素人俳優は、その素朴さが作品に貢献するところが魅力なのだが、それだけではない。彼らはしばしば、職業俳優よりもずっと本物で、ずっと健全な特質を持ち合わせている。その理由はまさに、まだ損なわれていない環境から生まれた彼らが、しばしば人間的にすぐれているからなのだ。大切なのは、そんな特質を見出して焦点を当てることだ。まさにこれが、相手がプロであれ素人であれ、監督が例の鉱脈発見力を発揮すべき場所なのだ。
 
わたしが実際に監督をした経験から学んだことは、ただ人間存在の重みだけが、人間が場所を占めていることだけが、映画フィルムの1コマ1コマを本当の意味で充たす唯一の「モノ」であるということだ。舞台/世界 ambiente とは、人間によって、彼が生きてその場にいることによって創造される。そして、彼を揺り動かす情熱から、舞台/世界は真実性を獲得して浮かび上がってくる。ところが、フィルムのコマから彼がほんの少しでもいなくなると、あらゆるものが生気のない様相を呈してしまうのだ。
 
人間のもっとも控えめな仕草、その一歩、その躊躇、その衝動、ただそれらがあるだけで、その回りにある事物はフィルムに映し出されて詩となり、身を震わせはじめるのだ。なんであれ、これ以外の方法で問題を解決しようとすることは、わたしたちの眼前に展開する現実への暴力的な介入のように思われる。この思いはこれからも変わらないであろう。現実とは人間によって作られ、人間によって絶えず改変されてゆくものなのだから。
 
これはまだ話の端緒にすぎない。しかし、自分のはっきりした態度をつかむためにも、次のような言葉で締めくくりたいと思う(わたしは繰り返しを愛するのだ)。わたしなら、たとえ一枚の壁しかなくても、その前で映画を撮ってみせよう。そのためには、その裸の舞台装置の前に立たせた人間の真の人間性から与えられるものを見出す術を知ればよいのだ。それを見出し物語ってみせようではないか。
 
1943年 

 

原文:http://www.luchinovisconti.net/visconti_al/cinema_antropomorfico.htm

 

 

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