雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

チェチェンから来た兄弟

兄はタメルラン・ツァルナエフ26歳、弟はジョハル・ツァルナエフ容疑者19歳。

 

4月15日、このふたり兄弟が仕掛けた爆弾がボストンマラソンのゴール付近で爆発。19日、兄は銃撃戦のすえ死亡、弟もアメリカの威信をかけた大捕り物のすえ拘束された。ニュース映像で、ボストンの住民たちが弟を拘束した警官隊を拍手で歓迎、「USA」を声高に叫んでいる姿が印象的だ。

 

ふたりは幼いころアメリカに移民(弟が8歳くらいだとすると、兄は15歳のころだ)、アメリカで育ち、アメリカで教育を受けている。兄はボクシングでオリンピックをめざし、アメリカ人と結婚し、子どももいたらしい。弟は社交的で友人も多く、医者をめざしていたという。

 

弟については、こんな記事があった。

 

「ジョハル容疑者が在籍するマサチューセッツ大学ダートマス校の学生らによると、同容疑者は事件が発生した15日以降も、18日まで毎日授業に出ていたらしい。ある女子学生が匿名で地元紙に語ったところによれば、17日の夜には学内のサッカー仲間とのパーティーに参加し、リラックスした表情を見せていたという。同容疑者が住んでいた学生寮では、米連邦捜査局(FBI)が18日に公開した手配写真を見て、学生らが「ジョハルかもしれない」「いや、あり得ない」と冗談を飛ばし合ったという」

http://www.cnn.co.jp/usa/35031125.html

 

冗談を飛ばし合った友人たちにとって、ジョハルのような隣人が犯人だったことはショックだったはずだ。それは新しい恐怖の出現でもある。「自国で育ったテロリスト grown up terrorist 」だ。外から見ただけではわからない。話してみてもなかなか良いヤツだ。そんな友人が突然爆弾をしかけるのだからたまらない。じつは、アメリカはかつてそんな恐怖を体験したことがある。アカ狩りの時代がそれだ。そして、その恐怖を映画化したのがドン・シーゲルのSF映画『盗まれた街(1956年)』(何度もリメイクされていて、最近のはニコール・キッドマン主演の『インベージョン(2007年)』)。

 

銃撃戦の末に死んだ兄タメルランは、弟より驚きが少ないかもしれない。15歳ごろにアメリカに来たのだから、言葉もうまくできなかったのだろう。友人もできず、それでもボクシングに打ち込んでオリンピックのアメリカ代表を目指すが、それも挫折。やがてイスラム教に熱心になってゆき、FBIから聴取を受けたことも影響したのか、アメリカ政府に対する不満を口にするようになる。だとすれば、彼の行為はアメリカで横行する「ヘイト・クライム」の一種と考えられる。ウィキペディアによれば、ヘイトクライムとは「人種、民族、宗教、性的指向などに係る特定の属性を有する集団に対しての偏見が元で引き起こされる口頭あるいは肉体的な暴力行為を指す」という。憎しみは偏見から生まれるだけではない。憎まれる側もまた相手に憎しみを抱くようになる。憎悪が憎悪を呼ぶのだ。タメルランの場合もそう考えられる。移民でありイスラムである自分に向けて、陰に陽に憎悪(ヘイト)を示してくるマジョリティへの反発は、やがて憎悪に対抗する憎悪として、あの過激な暴力へと帰結したのかもしれない。

 

そんな兄については、FBI がかつて事情聴取したことがあるという報道から、あの事件の背後に陰謀があったのではとささやかれている。タメルラン容疑者はFBIの監視下に置かれていたはずなのに、なぜテロが可能だったのか。そんな疑問は、あの爆弾事件の背後にある陰謀説へとつながってゆく。たしかに実際国際情勢を見てみれば、チェチェン出身の兄弟が事件を起こしたことはロシアにとっては朗報だ。この強国の目の上の瘤であるチェチェンを叩く絶好の口実になるのだから。一方、チェチェンの人々は今度の事件に驚き、警戒を強めているわけだ。受益者を考えれば、誰かという観点からすれば、この事件がロシアの陰謀なのではないかという説は、なるほどと思わせるものがないわけではない。(http://d.hatena.ne.jp/chechen/20130421/1366499729

 

ただ陰謀説については、注意しておく必要があるだろう。少なくとも、今回のような事件を「風が吹けば桶屋がもうかる」式の推論で説明するのは危ないということだ。そもそも、誰かに責任を負わせることで、すべてが解決するように語るのは陰謀説と呼ばれるものの特徴なのだ。その危うさは、多くのユダヤ人たちを追い立てた陰謀説の記憶を思い出せば十分だ。けれども、同時に忘れてはならないは、今回の事件の背後には、たしかにチェチェン紛争が関係している可能性があるということ。少なくともそこでは、多くの人々が強制的に故郷を追われている。そしてあのチェチェンの兄弟がそんなディアスポラからアメリカへたどり着いたことは、少なくとも厳然とした事実らしいのだ。

 

こうしてぼくの関心は、この若い兄弟についていわれる「アメリカに居場所がない」という言葉に向かうことになる。おそらくそれは、共同体というものを考え直すことを要請するものだと思うからだ。はたして、今いる場所で自分の居場所がみつからないこと、あるいは逆に、自分には居場所があるということは、一体どういう事態なのだろうか?

 

ぼくは今、この問題をめぐってひとつの寓話を立ち上げたのが村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅』ではないか感じている。次回は、そのことについて少し考えてみようと思う。

 

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色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

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