雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

トム・フーパー『レ・ミゼラブル』


映画『レ・ミゼラブル』予告編

 

 オープンングから引き込まれる。CGの豪快さがこれは映画だと訴え、囚人たちの歌う "Look down" のコーラスがミュージカルだと教えてくれる。そして、あの憎々しいジャヴェール(ラッセル・クロウ)の歌声がまるで自然なセリフのように続けば、折れたマストを肩に担ぐジャン・バルジャンヒュー・ジャックマン)が、まるで十字架を担ぐかのように、濡れ汚れたフランス国旗を肩に担ぐではないか。こうして、この物語がキリストのヴィア・クルーチス(十字架の道行き)さながらに、バルジャンの昇天までの、苦悩に満ちながらも豊穣な人生を描くことが暗示されるのだ。 

 

 去年のクリスマス、中学生の娘にせがまれ、高校生の娘も見たいというので、早起きして見に行った『レ・ミゼラブル』。ふたりとも大満足。下の娘は感動して泣いた回数を自慢し、上の娘は家に帰ってすぐに世界史の知識を復習していたっけ。

 

 ぼくのほうは、ジャン・バルジャンという名前に『ああ無情』というタイトルを思い出し(いつ読んだか忘れたが、主人公が親切にされた教会で銀の食器を盗むシーンは鮮明だった)、あらためてそれが19世紀のヨーロッパの台風の目となったフランスを舞台に、ひとつのネーション(想像の共同体)の成立を描く群像劇だったのだなと再認識した次第。それはまさにロマン主義的な物語なのだ。

 

 このロマン主義というは、啓蒙主義への反発として生まれる。啓蒙主義は絶対王権のイデオロギーと言うべきもので、ヨーロッパの場合、それは普遍宗教(キリスト教)を批判し、農業共同体を解体しながら、近代的な国家と資本の形成を後押しするものだったと考えられる。ロマン主義は、そんな啓蒙主義に反発する形で生まれると、国家や資本を批判し、解体された農業共同体の回復をめざす。

 

 実際、ヴィクトル・ユーゴーが『レ・ミゼラブル』を発表した1862年は、そんな時代だ。すでにフランス革命によって絶対主義王政は解体していた。しかし生まれたばかりの共和国は外国の絶対主義王権からの圧力を受け、革命の防衛ために僭主としてのナポレオンに頼まざるを得なくなる。そんなナポレオンがワーテルローの戦いに破れ、王政復古によるウィーン体制が敷かれたのが1815年(映画の冒頭に描かれるツーロン刑務所からジャンバルジャンが保釈され、ユーゴーの物語が始まるのがこの年だ)。この復古王政は1830年の7月革命によって倒れ、ルイ・フィリップ王による7月王政が立ち上がる。時代はまさに、革命と復古のはざまで古い共同体を解体された人々が、フランス国民というネーションを想像的に創り出そうとしていた時代、まさにロマン主義のまっただ中なのである。

 

 「想像の共同体」というのはベネディクト・アンダーソンの言葉だが、柄谷行人はこれを次のように説明している。

 

 ところで、資本=国家による共同体の解体は、(ベネディクト)アンダーソンが指摘するように、深刻な意味をもった。共同体の消滅は、それがもっていた「永遠」を保証する世代的な時間性の消滅でもあったからだ。農業共同体の経済においては、たんに生きている者たちの間の互酬だけではなく、死んだ者(先祖)とこれから生まれてくる者(子孫)との間にも互酬的な交換が想定されていた。たとえば、生きている者は子孫のことを考えて行動し、また、子孫は彼らのために配慮してくれた先祖に感謝する。農業共同体の衰退とともに、自分の存在を先祖と子孫の間におくことで得られるこのような永続性の観念も滅びる。普遍宗教は個人の魂を永遠化するだろうが、共同体のこうした時間性を回復しない。そして、それを想像的に回復するのがネーションなのである。したがって、「国民」とは、現にいる者たちだけでなく、過去と未来の成員もふくむものである。ナショナリズムが過去と未来にこだわるのはそのためである。(『世界史の構造』p.321) 

 

 柄谷によれば、ナショナリズムは時間性を回復する。すなわち、農業共同体の解体とともに消えた時間性(「永遠」を保証する世代的な時間性:祖先・自分・子孫)を、普遍宗教のような個人のレベルではなく、過去・現在・未来の「国民」という想像を通して共同体のレベルで回復する。だとすれば、ユーゴーの物語は、まさにそんな「国民」を回復しようとする物語だ。国民とは、泥棒も警官も、貴族も平民も等しく同じ価値を持つ構成員であることを要求する。もちろん簡単なことではない。しかし、ユーゴーの物語は、まさに「悲惨な境遇にある人々(レ・ミゼラブル)』を、金持ちや貴族と等しい国民として、想像力によって救いあげようとする物語にほかならない。だから、娼婦にまで落ちぶれるファンティーヌ(アン・ハサウェイ)の娘コゼット(アマンダ・サイフリッド)が、貴族の息子マリウス( エディ・レッドメイン)と結ばれることは象徴的だ。それはまさに、想像の共同体としてのフランスが誕生する瞬間なのであり、だからこそ想像上の父であるジャン・バルジャンは、その誕生を見届けて昇天するわけだ。それはまさに、精神的なレベルでフランス(ネーション)が誕生したことを言祝ぐものにほかならない。このことを柄谷はこう説明している。

 

ネーションを経済的・政治的な利害だけで考えることはできない。そこにはメタフィジカルな問題がある。しかし、それは、ネーションが経済や政治とは違った、何か精神的レベルの問題だということを意味するのではない。たんにそれは、ネーションが商品経済とは違ったタイプの交換、すなわち互酬的交換に根ざすということを意味するのである。ネーションとは、商品交換の経済によって解体されていった共同体の「想像的」な回復にほかならない。ネーションは、いわば、資本=国家に欠けていた「感情」をそこに吹き込んだのである。(同 p.322)

 

 世界的に大ヒットしたというこの映画、日本でも、ミュージカルをみたことのない観客をも巻き込んでロングランを続けているのだが、それはまさにぼくたちのいる世界が、ますます分断されてゆき、「悲惨な状態にある人々(レ・ミゼラブル)」が溢れ出してきているという現実を反映しているのかもしれない。こうした現実が、解体されてゆく共同体の回復を要請するものだとすれば、ここにはまさに想像力が立ち上がる余地が生まれるのだ。そして、この映画にはその余地を埋めるだけの要素が詰まっている。

 

 ジャン・バルジャンを演じたヒュー・ジャックマンは、『X-Men』のウルヴァリンとか『ヴァンヘルシング』でお馴染みの、オーストラリアの肉体派俳優だが、どこかキリストを思わせる風貌で、力強くも繊細な表情をみせている。ラッセル・クロウもまた、ニージーランド生まれのオーストラリア育ち。『グラディエーター』の肉体派だが、けっしてそれだけではない知的な面も持ち合わせている。実際、映画の演出にも意見をのべ、例えばジャベールという人物の不安を描くため、断崖を歩くときに足下を撮るように提案したり、この警部が少年ガブローシュの亡骸にメダルを捧げるシーンなどを発案したという。フォンィーネを演じたアン・ハサウェイはブルックリン生まれだけど、『ダークナイトライジング』のキャットウーマンや『アリス・イン・ワンダーランド』の白の女王などを演じた個性派。彼女の歌う “I dreamed a dream” なんて最高だったけど、実のところ歌のレッスンも続けていたそうだ(「歌のレッスンを10年間続けているんだけれど、この映画の話をいただいたときは、私はずっとこの映画のために予習をしてきたんだと思った」 http://mantan-web.jp/2012/11/28/20121128dog00m200054000c.html )。



I Dreamed a Dream - Anne Hathaway

 

 そんな彼らの歌声は、リップシンク(あらかじめ歌を録音しておいて口に動きをあわせること)ではなく、カメラの前で一発取りのライブ歌唱だという。もともと映画俳優だから、言葉を伝える時の表情がその強み。表情は言葉の意味を支える。だから、この映画でのアップの多用は効果的なのだ(舞台ではそうはいかない)。しかもその言葉は、いざというときにセリフから歌へと変わる。アップで映し出された彼らの表情が、セリフをウタうとき、そこには強い感情の表出を感じることができる。ウタが、大野晋が言うように、「止むに止まれず湧き出て外界に向かってまっすぐに発進すること」である「詩」と同じように、「内心から発する声」のこと(『日本語をさかのぼる』p.133)であるとすれば、この映画に見られるウタは、「悲惨な境遇にある者」たちが「止むに止まれず湧き出る」ものを、まさに「内心から発する声」、つまり柄谷の言う「感情」として立ち上げたものと捉えることができるのではないだろうか。しかも、そのウタにはリップシンクのような「言い訳」がない。ただウタとしてリアリティをそのまま保ちながら、スクリーンに映し出されている。

 

 それらのすべてが、まさにひとつの「ウタ=詩」として、失われつつある共同体的な「永遠」を呼び戻そうとしている。そしてぼくたちの心は今、あがないようもなく、そこに共振してしまうのだ。