雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

子どもを打つのは3歳まで

 

 体罰のことを考えていて思い出したことがある。「子どもを打つのは3歳まで」。ぼくに子どもができたとき、大学時代の剣道の恩師から教えられた言葉だ。 

 躾のため子どもを打つのは3歳まではかまわない。3歳をすぎたら慎むべき。なんだかとても合点のいったぼくは、以来この教えを守ろうとしてきた。3歳を過ぎてからも打ってしまったことはある。その時は、できるだけ言葉で道理を説明したつもりだ(もちろん、それをどう受け取ったかは娘たちに聞くしかない)。

  それにしても、なぜ3歳なのだろうか。何が3歳を境とするのだろうか。この点については、次のような脳研究の興味深い知見がある。

 

 海馬の完成していない乳幼児には、海馬を必要とする記憶はうまくできません。海馬がほぼ完全な形になるのは、だいたい2歳から3歳くらいであると考えられています。じつは、これが幼児のころにはエピソード記憶ができないという幼児期健忘の原因なのです。(池谷裕二『記憶力を強くする』p.86 )

 

 「エピソード記憶」は、時間や場所や、そのときの感情の記憶のことだ。これは経験を実感を伴った物語として形成し、貯蔵し、後の想起を可能にするものだ。人は脳力なしに自分の物語を語ることができない。ところが、このエピソード記憶は3歳までうまく働かないという。この記憶を形成する脳の海馬がまだ完成していないからだ。だからぼくたちは3歳以前のことを思い出そうとしてもうまくゆかない。そのころはまだエピソード記憶が形成されなかったからだ。たしかに場面ごとの記憶はある。しかし、それを実感をもって思い出せないし、うまく物語ることもできない。たとえできたとしても、写真を見たり、両親の話を聞いて、後に作り上げられたもの(捏造された物語)である可能性が高い。

 このエピソード記憶のように、自分が想起している意識をともなう記憶は健在記憶と呼ばれ、無意識のうちに思い出す記憶は潜在記憶と対置される。潜在記憶には、例えば服を着る動作の記憶「手続き記憶」や、先行する言葉やイメージが連想に影響するような記憶(つまり記憶におけるサブリミナル効果)「プライミング記憶」、また言葉の意味などの記憶である「意味記憶」などがある。潜在記憶は3歳までにある程度の発達を終える。つまり3歳までの幼児はこの潜在記憶だけで生きている。そして3歳をすぎると、この潜在記憶を基礎として、エピソード記憶のような健在記憶を立ち上げることになる。

 実感をともなう記憶、自分自身の物語を創り出す能力=脳力は、人間の成長にとって欠かすことができない。この記憶の積み重ねによって大きな筋の通った物語を作りあげてゆき、その唯一無二の物語をよりどころに「自己」が形成されるからだ。イタリア語ではこれを formazione と言う。しばしば「教養」と訳されるこの言葉は、まさに「自己を形づくること」を意味する。逆にいえば「自己」とは「教え(インプット)自らの内に養うこと(教養)」にほかならない。ただし、このときに形作られる「自己」あるいは「教養」を直接に確認することはできない。それはあくまでも、その人物の言動(アウトプット)を通して間接的にのみ知ることができるものなのだ。

 確認しておこう。3歳という年齢は、脳の海馬が完成する時であり、したがってエピソード記憶が立ち上がる地点を示している。幼児は3歳までに、潜在記憶によって必要な素材を準備し、海馬の完成を待って、準備された素材によってエピソード記憶の形成にあたる。これが、海馬の研究者である池谷裕二が教えてくれる知見なのだ。だとすれば、「子どもを打つのは3歳まで」とは、どういう意味なのか。

 3歳に満たない幼児はエピソード記憶を持たない。だから幼児に言葉によってものごとを言い聞かせるのは難しい。言い聞かせるとは道理に訴えることだが、道理があくまでもある種の物語としてエピソード記憶に訴えるものであるかぎりで、この時期の幼児には言葉による教えの効果が薄い。そこで、言い聞かせるために「子どもを打つ」ということが起こる。「打つ」ことは、それにともなう痛みの感覚をとおして潜在記憶に訴える。これによって、そうすることで幼児が間違えたものごとの手続き、条件付け(プライミング)、あるいは言葉の意味付けに矯正を加えることが可能になるのだろう。しかも、この打つ行為とそれに伴う痛みの感覚は、エピソード記憶によって何らかの物語として構成され貯蔵されることがない。つまりトラウマ(心的外傷)となり、抑圧された記憶となって、後のち悪影響をおよぼす危険性が少ないということだ。

 3歳ごろの海馬の発達とエピソード記憶の完成は、言葉が通じるか否かの分かれめとなる。だからこそ、この年齢に満たない者はイタリア語でインファンテ(幼児)と呼ばれる。 infante とはまさにin- fante 'non parlante' (言葉を話さない者)のことなのだ。だとすれば「子どもを打つのは3歳まで」というのは、「言葉を話さない者は、打つことができる」と読むこともできる。おそらく問題はここにある。

 3歳を過ぎて、エピソード記憶を起動させた子どもに何かを教えるときは、言葉を使って道理に訴えることができる。だから「子どもを打つのは3歳まで」なのだ。しかし、しばしば大きな子どもが言うことを聞かないことがある。何度言っても言うことを聞かない者は、まさにインファンテとして現れる。ここに「打つ」という行為が再び浮上する。それは、言うことを聞かないなら、「打つ」ことによって言うことを聞かせようということにほかならない。では言うことを聞かない者、インファンテとして現れた者に対して「打つ」ということは許されるのだろうか。

 この問題はじつは暴力の問題に触れている。しかしそれでは話が広がりすぎるので、ここではあくまでも親や教師がなにかを教えようとする場合に限定することにする。

 そこでまず「教える」とは何かを確認しておこう。それは、なんらかのインプットによって特定のアウトプットを期待することだ。親であれ教師であれ、「教える者 insegnante」は、相手に何かを「教える insegnare」と、その「教え segno 」が保持され、成長し、何らかの成果として現れることを期待する。つまり「教え=インプット」のあとは、その「成果=アウトプット」を待つほかない。もしそのアウトプットに問題があれば、教える者にできるのは、新たなインプットを与え直すことだけだ。

 したがって、まだエピソード記憶が発達しておらず、言葉の通じない幼児を相手にするとき、言葉によるインプットがうまくゆかなかったら、新たに暴力(打つ)によるインプットに訴えるようなことが起こる。ただそれはあくまでも、この「打つ」というインプットを受け取った幼児が、この時点では働いている潜在記憶だけを通して、そこから適正なアウトプットに至ることを期待してなされることだと言うことができるだろう。

 しかし、すでにエピソード記憶を得た大きな子ども、あるいは学生たちの場合はどうなのか。少なくとも子どもたちや学生に対するとき、ぼくたち親や教師が望むのは、やはり彼らが何かを「学ぶ」ことであることに変わりはない。「教えること(insegnare)」は、あくまでも「学ぶこと」を目的としている。では「学ぶこと(imparare)」とは何か。それは「教え」を受け取った子どもや学生が、受け取ったものを「自らのものとして(in-)育くむこと(parare)」にほかならない。そして大きくなった彼ら/彼女らにとっては、そんな「学び」が営まれる場所はエピソード記憶ということになる。「学び」の物語=エピソードとして形成されることが、3歳以前とは違う点だ。

 池谷の海馬の研究が指摘するように、この「学び」の物語が生まれ、貯蔵され、何らかのアウトプットを準備するされる場所(エピソード記憶)は、脳のなかの海馬にある。それは、いわばブラックボックスのなかにあるということだ。そこは学ぶ本人だけのものであり、他人が立ち入ることのできないサンクチュアリである。何が起こっているかを知るのは、ただアウトプットによって事後的にしか知ることができない。ところが教える者は、しばしば、こうした事態を忘れてしまう。とくに親や教師は、アウトプットに間違いを見つけたときには、熱心であればあるほど、この神聖な領域に無理矢理に手を突っ込みたくなる。なんとかして、間違ったアウトプットを矯正したくなるのだ。その性急な思いが、例えば「打つ」という行為として現れることになるのだろう。

 しかし、相手が3歳以上である場合、ここにひとつの問題が生じる。この「打つ」という行為は相手に「痛み」を与える。この「痛み」はエピソード記憶のなかで合理化され、なんらかの「罰」として理解されてしまう。「罰」があるということは、その前に「罪」があったということだ。つまり間違えた自分が悪いのだ、間違えるという罪を犯したから「痛み」という罰を与えられたのだ、そんな物語がエピソード記憶のなかに形成されてしまう。まさに「打つ」行為が体罰となったわけだ。しかし体罰だけでなく、あらゆる罰は、脳の海馬(エピソード記憶)のなかで「罪と罰」の物語となって貯蔵される。それは、本来の目的である「学び」の物語とは、ほど遠いものなのだ。

  思い出してみよう。だれでも教室で教師の質問に答えを間違えたことがあるのではないだろうか。それは、教師の質問に対してみずから考えた結果をアウトプットしてはみたものの、残念ながら教師の期待通りではなかったという事態だ。このとき教師が「それは間違いだ」と指摘したとしよう。教室では当たり前の光景だ。しかし、注意してみれば、この指摘は場合によっては、生徒の側に「罪と罰」の物語を立ち上げてしまう可能性がある。生徒にしてみれば、せっかくの答え(アウトプット)を他の生徒たちの前で「間違い」と指摘されるのだから、恥ずかしく感じてもおかしくない。いわば「恥辱」(=苦痛)を受けたと記憶されることになる。「恥辱」を与えることはひとつの罰だ。こうして「罪と罰」の物語が記憶に貯蔵されると、なにが起こるのだろう。そもそも罰は罪を抑制するためにある。この場合の罪は間違った答えをしたことだから、この生徒はもう間違いを犯さないようにするだろう。しかし、間違えない(=罪を犯さない)ようにすることは、正しい答えを考えること(=学びを継続すること)には結びつかない(なかには奇特な生徒がいて罰せられたことでやる気をみせたりすることもあるが、これはこれで問題なのだ。なぜならこの生徒が教師になったとき、嬉々として生徒を罰することになるはずだから)。むしろ、罰せられること(=苦痛を味わうこと)を避ける直接的な行為は、答えを言わないこと(だから生徒たちは、うれしそうな顔で「先生、わかりません」と声を上げる)。そして「分かりませんとは何だ!」と怒鳴られると、後はただ黙ってしまうことになる。

 学びの場においてアウトプットを罰することは、その本来の目的である「学び」自身を阻害する。そもそも「学び」とは、間違いを犯しながらでなければ進展させることができない。どんなに間違ったアウトプットがあったにせよ、それは学びが進んでいることの証拠なのだ。このアウトプットがあればこそ、その修正のための新たなインプットを準備することが可能となる。人は間違えながら学ぶのだ。これをイタリア語で言うと「間違えることは人間的なことだ Errare è umano. 」となる。だとすれば間違いを罰することは、「人間的であること」を罰することにほかならない。実際、間違いを罰すると、正しい道への可能性としての間違いが罪として認識され、抑制されてしまう。間違えないためには、答えなければよい。答えなければ罰せられない。だから黙り込んでしまう。こうして人は、再びあのインファンテ(話さない者)へと退行してゆく。

 インファンテに退行するものは、「学び」を拒む。彼/彼女らはもはや、言葉による「教え」を受け取ろうとしない。たとえ受け取ったとしても、それを守り育み、アウトプットへともたらすような「学び」を起動させることはない。それを、間違いへの道=罪への道として抑制してしまうからだ。こうした事態は、とりもなおさず、「学び」という人間的営みから退行させ、非人間的なものへと進ませることにほかならない。目指されているのは「学び」ではない。一定のインプットに一定のアウトプットで応じるような営みだ。それは、まさにコンピューターのような情報機械のそれであり、人はひとつのマシーンと化す。それは、例えば、人間の集団に対して号令をかけて一斉に右を向かせるように仕込むこと「右向け、右(Attenti, a destra! )」、つまり兵士や動物に対して用いられる「訓練、養成 addestramento 」と呼ばれるものに、果てしなく近づけるような事態にほかならない。

 

 だからこそ、ぼくたちが人間を相手にしようとするとき、「打つのは3歳まで」なのだ。そして、このことを教えてくれたのが武道師範だというのも、さして不思議なことではない。そもそも武道とは、人間が「矛を止める(武)」術を学ぶ道なのだから。