人間の条件は、つねに本質よりもさきに「生」そのものがあるのであって「はじめにことばありき」ではなく「はじめに声ありき」だったのである。
「はじめにことばありき」とは聖書の言葉だが、そこに寺山は「本質」を嗅ぎ付けると、それに「生」そのものを対置する。それが「はじめに声ありき」なのだろう。
たしかに「本質」に「生」が先行するように、「ことば」には「声」が先行しなければならない。では、その「声」とは、そのまま「生」と結びつき、それにはなにも先行しないものなのだろうか。
おそらく声が出るようになるには、その声を聴くための耳が必要だったはずだ。そして耳は、そもそも声を聴くためのものではなく、むしろ環境世界の変化を察知するための感覚器官だったのではないだろうか。
この聴覚が環境世界の変化を察知するためのものであるなら、この器官はいかにして声を捕らるものと変化していったのか。
声を出すためには、その声を聴いてもらう器官を前提にする。発声は聴覚を前提にしている。
しかし一方で、聴覚は声を聴くことはできるが、そもそも聴こうとしているのは環境世界からもたらされる危険の兆候だ。危険の察知が本来の目的ならば、声を聴くことはそこから逸脱したものだということができる。はじめの声とは、原初の人間において、密かに聴覚と共謀し、聴覚に自らの目的を逸脱させるなかで、立ち上がったものだと言えば大げさだろうか。
声の出現は、聴覚の逸脱から生まれる。その逸脱は、環境世界から逸脱した「ことば」を立ち上げてゆく。そしてその「ことば」は、みずからの原初的逸脱という出自をとらえようとして、「神」や「精神」や「思考」などのさままざまなメニトミーを駆使してきたのではないだろうか。
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