雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

カルロ・ルドヴィーコ・ブラガッリャ『人生は素晴らしい』(1943)短評

日本語版DVD。24-41。マニャーニ祭り。これは楽しい。堪能した。

 実はタイトルだけは知っていた。ロベルト・ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』と同名があるという記事を読んだからだ。今回はアンナ・マニャーニを追いかけながらのキャッチアップ。マンガノは主役ではない。けれど実に印象的なコメディエンヌとして登場する。天性の魅力なのだろうか、少し天然の夢想家のヴィルジーニャの依代となる。

 このころのマニャーニは、レビューの舞台でも人気がでていたころ。前年の1942年に息子ルーカが生まれたばかり。母子家庭だからがむしゃらに働いていたころ。しかも、映画が公開されたのはイタリアがドイツの占領下に入ってから冬。その寒い冬の時期に、この映画はとりわけローマで、異常なほどの熱気で迎えられたという。かくも厳しい状況にあって、いったいどうやったら「人生は素晴らしい」と言うことができるのか。観客たちはそれを確かめようとしたのだという*1

 ヒロインはヴィルジーニャの妹ナーディア。当時としては珍しく、女性なのに大学で農学を学び農園を経営しているという設定。演じるのはヴィットリオ・デ・シーカの妻となるマリア・メルカデル。その相手役はアルベルト・ラバッリャーティ 。だから映画はミュージカル仕立てのコメディで。当時のラジオのスター歌手ラバッリャーティが歌いまくる。

 ラバッリャーティは、ムッソリーニの愛人クララ・ペタッチも魅了したらしいのだけで、ムッソリーニの方は彼が大嫌いで「イタリアにはラバッリャーティやトスカニーニ*2は必要ない」と怒鳴っていたという。

 

以下、映画のあらすじを記す。


****************

 アルベルト伯爵(アルベルト・ラバッリャーティ)はカジノで財産を失って暗い顔をしている。それを見つめる眼光の鋭い男がいる。伯爵が薬を飲もうとするのを見て、男が止めに入る。自殺してはいけないと諭すのだが、じつは胃薬だった。しかし、自殺という言葉を聞いて、アルベルトはそれもいいかもしれないと言い出す。そこで男が自己紹介する。男の名前はルチェディウス博士(グアルティエーロ・トゥミアーティ)。新薬の血清を開発しており、人間の治験を探しているのだという。大変危険な治験なのだが、命を捨てるくらいなら、新しい血清の治験に協力してくれないか。どうせ死ぬのなら科学の進歩のために役立ってほしい。治験までの10日間を過ごすために、十分なお金も用意するという。
 アルベルトは、博士の申し出を受けることにする。お金をもらい、一度は帰ろうとするのだが、ふたたびカジノに戻りすべてをすってしまう。失意の夜。雨が降る。雨宿りのために飛び込んだトラックの荷台で、アルベルトは放浪者のマッテーオ(ヴィルジーリョ・リエント)と出会い意気投合。ふたりは、突然に出発したトラックに乗せられて郊外に連れてこられてしまうが、「La vita è bella」を歌いながら、とある農場にゆきつくことになる。


 

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 ひとりの男が屋敷の塀を乗り越えてゆく。あやしいと思った2人がおいかけると、部屋に入って誕生部のケーキを取り出し、蝋燭をさしてテーブルにセットして出てゆくのではないか。腹が減ったふたりは、残されたケーキを一口もらおうと忍び込んだところに、屋敷の住人で声楽家のヴィルジーニャ(アンナ・マニャーニ)が現れる。名前からして笑わせる。ヴィルジーニャはバージンの意味。マニャーニはこのころ35歳。私生活では前年の 1942年にルーカを産んだばかり。そのマニャーニが演じるのが、恋に恋するヴィルジーニァ。ここはニヤリとするところなのだろう。

ヴィルジーニャ(アンナ・マニャーニ

 ヴィルジーニャは、ケーキを手にするマッテーオを見て誤解する。私の誕生日ケーキなの。誰の使いなのか。マッテーオは外で待っていたアルベルトを指差す。ああ、あなただったのね。ずっとお待ちしておりました、とヴィルジーニャ。いつもお手紙を届けてくれるのに姿を見せない。それが今日はついにおいでになってくださったのね。実は、ずっと手紙を書き続け、今日のケーキを持ってきたのは近所に住む音楽家のレオーネ(カルロ・カンパニーニ)だったのだが、ヴィルジーニャはその気持ちに気づいていないという設定。
 そこにヴィルジーニァの妹ナディーナ(マリーア・メルカデル)が登場。大学で農業を学び、一人で農場を経営する優秀な女性。アルベルトはそんな彼女と偶然ふたりきりになる。姉と違って、わたしはロマンチックなセレナータなんてわからないと言うナディーナに、アントニオはそんなことはないよと、セレナータを歌い出す。心動かされるナディーナ。

アントニオ(ラバッリャーティ)とナディーナ(マリア・メルカデル)

 その後アントニオは、じつはケーキを持ってきたのは自分ではないとの告白し、それまでの事情を説明することになる。ナディーナはそれなら、マッテーオとふたりうちで働けばよいではないかと提案。こうして、アントニオは彼女の農場で新しい人生に感謝することを学ぶのだが、彼にはルチェディウス博士との約束があった。

レオーネ(カルロ・カンパニーニ)とヴィルジーニャ(マニャーニ)

 その間、騙されたことに怒ったヴィルジーニャは、自分にゾッコンのレオーネを巻き込んで、アントニオを逮捕させたりするのだが、ナディーナの尽力もあって釈放。これで約束を果たせると、アントニオはルチェディウス博士のもとに向かうのだが、そこにはマッテーオから事情を聞いたナディーナが先回りしており、博士に危険な治験を取りやめるように頼んでいた。約束通りアントニオが現れる。絶望するナディーナ。血清を射ってくれと頼むアントニオ。このとき博士が思いがけないことを言う。いやもう血清は射ってある。君は生き延びたんだよというのだ。
 実のところ、血清の治験話は方便で、博士は死にたいと思っている若者に生きるすばらしさを教えようとしただけだったというのだ。その名前ルチェディウスのとおり、「光」(ルーチェ)を名前に持つ博士が説明する。

人生の価値がわかるのは、それが失われるのが確実になったときだからね。そのとき初めて人生の価値のすべて、その美しさのすべてが理解されるのさ。
Perché la vita si apprezza soltanto quando si ha la certezza di perderla! Solo allora se ne comprendono tutti i valori, tutta la bellezza!

 

*イタリア語版の映像はここで全編見ることができます。

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ここでは日本語付きで鑑賞可能。ただ画質が少しあらい。

イタリア版はこちら。僕は持っていないのですが、経験からすると上の「CRISTALDIFILM」の方を買いますね。版も新しいので。「Bibax」はどうなんだろう。YouTube の映像はこちらからみたいですが、日本版よりも断然よいですね。

 

*1:Vedi. "Qunado nacque mi figlio fu un gran giorno" in Matilde Hochkofler, Anna Magnani, Bompiani, 2018.

*2:トスカニーニは反ファシズムの象徴的存在。1931年にボローニャファシスト党歌の演奏を拒否、暴徒に襲われたという。ムッソリーニはこの音楽家を警戒して監視。トスカニーニがイタリアの指揮台に立つのは戦後になってからだという。

フェリーニ&ロータ(3):『カビリアの夜』と音楽の力

 昨日朝カル立川で「イタリア映画を聴く」のシリーズとして「フェリーニとロータ(3)』を話してきました。ほんとうは『カビリアの夜』『甘い生活』そして『8½』の3本を話すつもりだったのです。でもね、いやいや、フェリーニ&ロータは奥が深い。結局はほとんど『カビリアの夜』に終始、少しだけ『甘い生活』と『8½』に触れると止まりました。

 でもまあ、これでよかったのではないでしょうか。だってね、急いで進んでも意味がない。ゆっくり話しながら、少しずつ発見してゆくのが楽しい。そんなぼくの楽しさを、みなさんと少しでも共有できていたらうれしいかぎり。

 1950年代のフェリーニは、偶然のデビュー作『白い酋長』(1952)と『青春群像』(1953)を撮ったあとで、本格的に自分の作品に挑戦することになります。その第1作が『道』(1954)、つづいて『崖』(1955)、そして締めくくりに『カビリアの夜』(1957)を発表します。この3つの作品は、それぞれ戦後のイタリアが新しい時代に進んでゆくとき、そこから取り残され、排除された人々を主題にしています。『道』のザンパノとジェルソミーナは旅芸人、『崖』のアウグストやピカソたちはペテン師、そして『カビリアの夜』のカビリアは娼婦なのです。

 この3作を「排除された人々の三部作(trilogia degli esclusi)」と呼んだ人がいました。よくわかります。おそらく最も完成されていたのが『崖』(原題の「 il bidone」は「ペテン」の意味)だと思うのですが、これは興行的には失敗に終わっています。それでも、この作品がいちばん「排除された人々」という主題を明確にしているのではないでしょうか。ペテン師にだって「精神的な崇高さ」が垣間見えるときがある。そして、その「崇高さ」を言葉ではなく、映像と音楽的なモチーフで示して見せたのが、実にフェリーニらしいところ。

 そうなのです。映像だけでは足りないのです。音楽的なモチーフがあってはじめて、言葉を超える何ものかを表現することができる。有名なのは「道」のテーマ曲ですね。ラストにこの調べが奏でられると、精神的な救いの光が差し込んできたように感じられます。同じように『崖』のラストでも、精神的なモチーフが流れます。それがこれです。

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 すばらしいモチーフです。『道』のそれよりも知られてませんが、全体を通して見ると、ロータによるこの調べが、じつに精神性のあるものだというのがわかります。なによりも、最後に主人公アウグストが死ぬという展開にもかかわらず、それがじぶんの娘のためであり、誰かのために死ぬのだという精神性が強調されるわけです。けれども言葉にしてはつまらない。映像だけでもわからない。だからロータのモチーフは必須だったわけです。

 それがカビリアではもっとはっきりとした形で出てくる。カビリアの精神的なものを表すテーマは4つあります。

 Tema A はカリヨンによる透明な演奏で、非常に精神性の高い美しいモチーフ。Tema B は躍動的に盛り上がるモチーフで、Tema C でジャジーで楽しい演奏。このふたつは、カビリアが新しい恋をしたり、自分で元気を出そうとするときに用いられます。いわば彼女の精神的な活力とでもいえばよいでしょうか。そしてTema D は別名「ラリリラー」(Lla Ri Lli Ra)というタイトルが付けられたダイナミックな曲。いわば「希望」と「裏切り」の両方を含み持つテーマであり、これこそがフェリーニの「排除された者たちの三部作」を締めくくるものだと言ってよいかもしれません。

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 サウンドトラックとして録音されているものには、うえのABCDが入っているのですが、映画のオープニングではAが排除されています。おそれくこれには、Tema A と結びつくシーンのカットが影響しているのではないでしょうか。

 Tema A はふたりの人物との出会いのモチーフです。ひとりは「ずた袋の男」(Uomo del sacco)。もうひとりが「修道士ジョヴァンニ」(Frate Giovanni)です。

 

 「ずた袋の男」は実在の男だそうです。フェリーニが、おそらくパゾリーニとともに夜のローマをドライブしいるとき出会ったのだというのです。さまざまな人物と話している映画の素材をあつめているとき出会ったその男は、「ずた袋」を背に、夜な夜なローマの郊外の洞窟で暮らしている浮浪者たちに食糧などの必需品を配って回っていたといいます。

 ところが、その慈善活動が問題となります。それは本来カトリック教会がすべき仕事。それを世俗の男にされてしまったのでは、教会としては非難されているようで、どうもよろしくない。そういうこともあってか、敏腕プロデューサーのディーノ・デ・ラウレンティイスもまた、映画として必要がないと言い張るのですが、フェリーニはなかなか首を縦に振らない。そこで、このナポリ人プロデューサーはその部分のフィルムを隠してしまったのだというのです。その後ほとぼりが覚めた頃、フェリーニがあれを返してくれというと、ニヤリと笑って返してくれたというのが笑えます。じつにデ・ラウレンティイスらしい。

 ところで、この「ずた袋の男」を演じたのが、レオ・カトッツォという脚本家にしてフィルムの編集マン。彼を有名にしてのがカトッツォ・スプライサーというフィルムの編集機。じつはカトッツォ、それまでカットしたフィルムを繋ぎ合わせるのに使われていたアセトンにアレルギーで、しかたなくこのカットしたフィルムをテープで簡単に接着できる機械を発明したというのです。この発明のおかげで、編集点を何度もやり直すことができるようになったわけですが、その最初の映画がこの『カビリアの夜』だったといいます。だからフェリーニ言わせると、あのカトッツォ・スプライサーは、最初「カビリア」と呼ばれていたらしいのです。

  

 さて、この Tema A が使われるもうひとりの人物が「托鉢の修道士ジョヴァンニ」は、カビリアに神の慈愛に包まれて幸せになることを説き、結婚して子どもをもちなさいと勧めます。こうしてカビリアは、そのときまでにデートを重ねていた恋人オスカーに、自分が娼婦であることを勇気を持って告白することになります。幸いというよりは不幸なことに、このオスカーという男は平然と、それでも結婚したいと応じるます。カビリアは心踊り Tema B と C が高鳴ります。実はこのオスカーが食わせものなのです... 

 その前に「托鉢の修道士ジョヴァンニ」に注目しておきましょう。というのも、このフランチェスコ会の托鉢修道士を演じたのが、サイレント時代から活躍した喜劇役者のフェルディナンド・ギヨーム(1887 – 1977)、イタリアではポリドール(Polidor)やトントリーニ(Tontolini)として知られる人なのです。

 フェリーニは、サーカス出身のポリドールを『カビリアの夜』だけではなく『甘い生活』や『8½』でも起用します。とりわけ『甘い生活』でナイトクラブ「チャチャ」でトランペットの道化師は印象的でしたよね。

 『8½』ではクレジットされていませんが、ラストシーンの道化師のひとりが彼だったと言われています。たぶん先頭をゆく道化師がそうなのでしょう。

 さて、Tema B と C については割愛します。映画をご覧いただければ、さまざまなところで耳にすることができると思います。

Tema B 

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Tema C 

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 また娼婦のテーマというのもあるのですが、これはカビリアが娼婦仲間といる時のモチーフ。いわば、彼女の仕事のマスケラといえばよいのでしょうか。

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 今回のぼくの発見は Tema D です。これには「ラリリラ」という別名があり、ナポリ方言の歌詞までがついているのです。歌詞はあとからつけられたものではなく、その歌詞を劇中で実際にギターを抱えた男が歌っているのです。いやあ、何度も見た作品なのですが、今回音楽に注目しながら見直してみて、はじめて気がつきました。しかも、その歌詞がまたすごい。シーンのなかにいるカビリアに語りかけるような内容になっているではありませんか。これにはおどろきました。

 ともかくも、最初にこの Tema D が聞かれるのは、映画の冒頭でテヴェレ川に突き落とされる直前にカビリア本人が口ずさんだもの。カビリアは、恋人のジョルジョとの将来に希望を持っているようすなのですが、サングラスをしたジョルジョは、大金の入ったバックを奪うと、彼女を川に突き落として逃げてゆく、そんなシーンです。まさに「希望/裏切り」のテーマといえばよいでしょうか。

 同じテーマは、ディヴィーノ・アモーレの聖マリア教会への巡礼のあとのピクニックでも聴かれます。カビリアはそのとき、もしかすると本当にマリアの奇跡というものがあって、じぶんも娼婦の仕事から抜け出すことができるかもしれないと「希望」を抱くのですが、ほかのおおうの巡礼者と同様に、奇跡はそう簡単に起こりません。だから「裏切られた」と感じるわけですね。

 この Tema D が歌詞つきで聴かれるのが、オスカーに結婚を申し込まれたカビリアが、家を売り、銀行から有り金をおろし、全財産を持って新しい生活に進もうとするときです。それはアルバーノ湖を臨む高台のトラットリーア。オスカーとカビリアの席の後ろで、ギターを抱えた男がこのテーマ「ラリリラ」を歌詞付きで歌うのです。

 ギターの男は実際のカンツォーネ歌手エリオ・マウロ(1934-1983)。当時はけっこう活躍しており、ヴィスコンティの『若者のすべて』(1960)で「Paese mio」を歌っているのもエリオ・マウロです。

 ここでもうひとつ念頭においておきたいことがあります。このアルバーノ湖では、映画の2年前の1955年に、結婚詐欺の被害にあったカターニャシチリア)出身の女性アントニエッタ・ロンゴの遺体が発見されているのです。事件はいまだに迷宮入り。そしてこのシーンもまた、その同じアルバーノ湖で撮影されたものなのです。

 当時の観客は、カビリアの姿に同じ湖で殺されたシチリア人女性を重ねていたかもしれません。そして、背後の席に座るエリオ・マウロは、騙されようとしているカビリア/アントニエッタに語りかけているように聞こえます。その歌こそが Tema D (Lla Ri Lli Ra) 。
 

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 曲はニーノ・ロータ。歌詞はナポリ方言で Enzo Bonagura (1900-1980) の手によるものだそうです。ナポリカンツォーネが、フェリーニの映画に登場するのは、これが最初で最後だそうです。ナポリの響きは、シチリアの田舎から出てきた女性への語りかけに聞こえるのでしょうか。大都会ローマに働きに出て、愛/結婚という希望をつかんだと思った瞬間に裏切られてしまう。アントニエッタ・ロンゴはそれで命を落とし、今まさにカビリアも同じ運命にある。でもこの歌は「でも大丈夫だよ。また歌えばいいじゃないか」と励まします。まるで亡き魂への鎮魂歌のように。

まずは原語から。

Lla ri lli ra, lla ri lli ra,
n'ammore va, n'ato vene,
nisciuno chiù te vo bene.
Nun ce penzà, ll'uocchie asciuttate,
torna a cantà comm' a me.
 
Lla ri lli ra, lla ri lli ra,
l'ammore passa comme passa 'o viento.
Te vasa pe' 'na vota e niente chiù.
Tira a campà,
nun suffri,
nun te lagnà,
se può capì,
nun penzà ca ll'uocchie chiagnine.
 
Lla ri lli ra, lla ri lli ra,
l'ammore te l'ha fatto 'o tradimento.
Nun era comme t'o sunnave tu.
N'ammore a ccà,
n'auto a ll'à.
Te pò spassà,
nun te felì *1
che vuò fa si ll'uocchie chiagnine?
 
'O tiempo va, se pò scurdà
pienza a canta

以下に拙訳です。

ラリーリラー ラリーリラー

愛がひとつ去り またひとつやって来る

もう誰にも 愛してもらえないの?

よくよしないで 涙を拭いて

また歌えばいいさ 僕みたいに

 

ラリーリラー ラリーリラー

愛は通り過ぎてく 吹く風のように

一度はキスもしてくれる けどそれで終わりさ

前を向いて 大丈夫だよ

嘆くのはおよし 気持ちはわかるさ

大丈夫 ただ涙が 流れてるだけだから

 

ラリーリラー ラリーリラー

愛があなたを 裏切ったのだね

夢見たものとは 違っていたんだね

ここにも愛がひとつ あそこにもひとつ

揶揄われても仕方ない めげてはダメ

しかたがないのさ 涙がながれても

 

時は過ぎる 忘れられるさ

歌っておくれよ ラリーリラー

 

愛は通り過ぎてゆく 吹く風のように

だから風のように 留まることはできないのさ

 こうしてカビリアは、アントニエッタ・ロンゴのたどった最期を再現し、しずかに立ち上がって彼女を追悼すると、森の中へ歩き出します。するとそこには、ふたたび Tema D (Lla Ri Lli Ra) が流れてきます。それは「希望から絶望へ」のテーマだったのですが、ラストシーンでは「また歌えば良いさ」という歌詞にあるように、「絶望から希望へ」向かうテーマとなります。

 それがあの有名なラストシーン。トリフォーが衝撃を受けて『大人は判ってくれない』(1959)に引用したシーンですね。『ラリリラ』を演奏する若者たちに囲まれ、次第に希望を取り戻してゆくカビリア。ひとりの女性から「Buona sera」(こんばんは/良い夕べを)と挨拶されると、じぶんも少年たちに目で挨拶を返してゆきます。ひとり、ふたり、そして最後にカメラに向かって軽く会釈する。その目はぼくたち観客に「Buona sera」と語りかけてくれるのです。

 この映像とこの音楽だからこそ、絶望の淵に希望の光が差し込んでくる。それは映像に力であり音楽の力でもある。なるほどカトリック的。それも本来の意味でのカトリック(普遍)的な力。なんど見てもぼくは、ここで落涙してしまうのです。

 

 

*ぼくは正直、音楽は詳しくない。楽譜もほとんど読めない。そこで上記の分析は M.Thomas Van Ordier さんのこの著書を参考にした。記して感謝の意を表明したい。

*『カビリアの夜』『甘い生活』『8½』については、クライテリオン版の「Essential Fellini 」を参照している。ブルーレイだと汗まで見えるのが新たな発見。『カビリア』の場合、ヴァリエタの舞台で空想のオスカーと踊っているカビリアが、最後に「ほんとうに愛してくれているのね」と繰り返し始めるシーンで彼女の額に浮かぶ汗。それを見て催眠術師のアルド・シルヴァーニはハッとして催眠を解く。あのスリリングなシーンの「汗」を確認するためにも、高画質のメディアを手元においておきたいところ。

*日本版のブルーレイはこちら。

 

 

 

 

ここで Tema A, B, C, D が聞ける。

Le notti di Cabiria

Le notti di Cabiria

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これは娼婦のテーマ。

Donne di vita, mambo di Cabiria

Donne di vita, mambo di Cabiria

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エリオ・マウロが歌う「ラリリラ」。映画だと聞こえにくいところもはっきり聞こえる。

Lla ri lli ra: La trattoria

Lla ri lli ra: La trattoria

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大御所ロベルト・ムーロロによる「ラリリラ」。歌詞が少し違うのだけど、これはこれでよい。

Lla-Rì Lli-Rà

Lla-Rì Lli-Rà

  • ロベルト・ムローロ
  • ワールド
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ムーロロ版の歌詞

Lla ri' lli ra' Lla ri' lli ra'
N'ammore va, n'ato vene
Nisciuno chiù te vo bene?
Nun ce penzà, ll'uocchie asciutate
Torna a cantà comm'a me

Lla ri' lli ra' Lla ri' lli ra'
L’ammore passa comme passa 'o viento
Te vasa pe' 'na vota e niente chiù.
Tira e campà
Nun suffrì
Nun te lagnà [se può capì ] 
Nun ce penzà ca ll'uocchie chiagnine

Lla ri' lli ra' Lla ri' lli ra'
L’ammore te l'ha fatto 'o tradimento
Nun era comme t' 'o sunnave tu?
N'ammore 'a ccà
N'ato a ll'à.
Te può spassà  [nun te felì] 
Che ce vuò fa si ll'uocchie chiagnine?

'O tiempo va, se può scurdà 
pensa a cantà: Lla ri' lli ra' Lla ri' lli ra'.

Nun dice chiù: Casa mia!
Nun tiene chiù cumpagnia
E che vuò fa? Te vuò accidere?
Torna a cantà 'nzieme a me 
Lla ri' Ili ra' Lla ri' lli ra'

ブルーの部分は、サントラ版(エリオ・マウロ版)にはなく、ムーロロ版に加えられたもの。また、同じブルーで斜線をひいいた部分は、ムーロロ版では歌われていない。

ラリリラ、ラリリラ

ラリリラ ラリリラ
愛は ひとつ去り ひとつ来る
だれにも愛してもらえないって?
くよくよしないで 涙をふいて
また歌おうよ ぼくみたいに
 
ラリリラ ラリリラ
愛は通り過ぎるもの 吹く風のように
接吻してくれるのは一度だけ
前を向いて
大丈夫
泣き言はおよし
くよくよしない 涙が流れても

ラリリラ ラリリラ
愛に裏切られてしまったんだね
夢見たものじゃなかったんだね
ここにもまた愛 あそこにも愛
からかわれることもある
しかたがない 涙が流れても

時が過ぎたら 忘れられる
歌ってみなよ ラリリラ

我が家とはもう言わない
連れ添う人がいなくなる 
だからなんなの?死のうとでも言うの?
また歌えばいいさ ぼくといっしょに
ラリリラ ラリリラ

 

*1: ここは意味がわからない。ナポリ語の felirsi って、どういう意味なんだろうか? Se c'è qualcuono che sa dirimene il significato, fatemi sapere, grazie.

ナポリのカンツォーネ『レジネッラ(Reginella)』(1917)を訳してみた

 アンナ・マニャーニの評伝を読んでいる。冒頭に引用されるのがこの『レジネッラ』の一節。マニャーニの祖母が好きだった曲。母に捨てられ、祖母に育てられたマニャーニは、しばしば祖母から請われてこの曲を歌ったという。

 


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 マニャーニが生まれたのは1908年。この曲はその9年後の1917年に発表された。その翌年にはジルダ・ミンニョネッテがレコードに吹き込む。まだラジオはなかった。音楽家が通りで演奏し、楽譜を売り歩く時代だ。その曲を覚えたのだろう。10歳のアンナ・マニャーニの歌を祖母はたいそう喜んだという。

 『レジネッラ』歌詞はナポリ語で、イタリア語ヴァージョンも付記されている。作詞はリーベロ・ボーヴィオ(1883 – 1942)。ボーヴィオの姓に見覚えがあるとおもったら哲学者のジョヴァンニ・ボーヴィオ(1837 – 1903 )の息子だ。なるほどこの父は旧態然とした王政に反対し、自由な共和主義者の理想を掲げた哲学者、からこそ息子に「リーベロ」(自由)という名前をつけたのだろう。母親はピアニスト。ふたりの息子のリーベロは、ナポリカンツォーネの黄金時代をつくる作詞家となる。

  この曲のタイトルの「レジネッラ(Reginella)」は「regina」(王妃あるいは女王)に愛称の接尾辞「-ella」が続いたもので、「小さな王女」であり「大切な愛しい人」という意味。おそらくは、恋する男が大切な女性をこう呼んだのだ。

 この歌を祖母に歌っていたころのアンナ・マニャーニは10歳ぐらい。母親は18歳で彼女を産むが父親は不明 。後にアンナが調査したところ、彼女の父はカラブリアの裕福な貴族でデル・ドゥーチェ Del Duce という姓で、「Figlia Del Duce 」(ドゥーチェの娘)では様にならないと、調査をやめてしまったらしい。結局、母はひとりで育てられず、アンナを祖母に預けると、裕福なオーストリア人とエジプトのアレッサンドリアに渡ったという。

 こうして小さなアンナは祖母の家で、叔母4人と叔父ひとりに囲まれて、大切な孫娘としてまさに「レジネッラ(小さな王女)」のように育てられたというわけだ。

 以下に拙訳と原文を挙げておく。

1

あなたは襟ぐりの深い服を着て
リボンとバラで飾られた帽子をかぶり
3、4人のシャントーサ *1 に囲まれて
フランス語を話してた、そうだよね

あなたにあったのはおとといのこと
おとといのトレド通りだった、そのとおりさ

あなたのことを愛したんだ
あなたも愛してくれたのさ
今はもう愛し合っちゃいない
でも時にあなたは
なにげなくふと
ぼくを思うのさ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Te si’ fatta na vesta scullata,


nu cappiello cu ‘e nastre e cu ‘e rrose,


stive ‘mmiez’a tre o quatto sciantose
e parlave francese, è accussí?

Fuje ll’autriere ca t’aggio ‘ncuntrata


fuje ll’autriere a Tuleto, ‘gnorsí!

 

T’aggio vuluto bene a te!


Tu mm’hê vuluto bene a me!


Mo nun ce amammo cchiù,


ma ê vvote tu,


distrattamente,


pienze a me!
*2

 

2

レジネッラ(小さな王妃さま)、ぼくといたとき
パンとサクランボのほかは何も食べなかったよね
ぼくらの糧は接吻だった、なんて接吻だったんだろう
ぼくのために歌って泣いてくれたよね

ゴシキヒワ *3 がいっしょにこう歌っていたね
「王妃さま、この王様を愛しているの?」

あなたのことを愛したんだ
あなたも愛してくれたのさ
今はもう愛し合っちゃいない
でも時にあなたは
なにげなくふと
ぼくに話しかけるのさ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Reginè’, quanno stive cu mico,


nun magnave ca pane e cerase.


Nuje campávamo ‘e vase… e che vase!


Tu cantave e chiagnive pe’ me!

E ‘o cardillo cantava cu tico:


“Reginella ‘o vò’ bene a stu rre!”

 

T’aggio vuluto bene a te!


Tu mm’hê vuluto bene a me!


Mo nun ce amammo cchiù,


ma ê vvote tu,


distrattamente,
parle a me!
*4

 

3

ああ、ゴシキヒワよ、今宵は誰を待っているの?
ほらごらん 籠を開けてあげたよ
レジネッラは飛んでいっただろ?だからお前も飛んでゆけ!
飛んでいって歌うんだ… ここでは泣かないでくれ

誠実な女主人に飼ってもらうんだぞ
言うことを聞きてくれて、歌を歌うのにずっとふさわしい人を

今はもう愛し合っちゃいない
でも時にあなたは
なにげなくふと
ぼくを呼ぶのさ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Oje cardillo, a chi aspiette stasera?


nun ‘o vvide? aggio aperta ‘a cajóla!


Reginella è vulata? e tu vola!


vola e canta…nun chiagnere ccá:

T’hê ‘a truvá na padrona sincera


ch’è cchiù degna ‘e sentirte ‘e cantá.

 

Mo nun ce amammo cchiù,


ma ê vvote tu,


distrattamente,


chame a me!
*5 

 

 

 

これがジルダ・ミンニョネッテの録音。『レジネッラ』を最初に吹き込んだ歌手の、マニャーニが聞いたかもしれない歌声だ。

Reginella

Reginella

  • Gilda Mignonette
  • ワールド
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代表的なナポリの歌手ロベルト・ムーロロ(1912-2003)やセルジョ・ブルーニ(1921-2003)の録音。言葉もはっきりしているし

 

Reginella

Reginella

  • ロベルト・ムローロ
  • シンガーソングライター
  • ¥153
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Reginella

Reginella

  • Sergio Bruni
  • ヨーロッパ
  • ¥153
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リーナ・サストリ(1953-)のヴァージョン。人前で歌った最初のナポリカンツォーネ、それも偉大な女優アンナ・マニャーニに捧げたものだという。ただし、マニャーニが祖母に歌ってもらったと語っているけれど、時代からしても、マニャーニが祖母に歌ったというのが正しい。

Reginella

Reginella

  • Lina Sastri
  • ワールド
  • ¥255
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ミーナ(1940 - )のヴァージョンはさすが。ジャズのアレンジが素敵だ。

Reginella

Reginella

  • Mina
  • フォーク
  • ¥204
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小野リサも歌っている。この軽さはたまらない。クセになる。

Reginella

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アマゾンにはこんなタイトルが並んでいる。ご関心のある方はどうぞ。

Reginella

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  • Fiesta Records
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Reginella

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*1: sciantosa: レビューの歌手のこと。フランス語の chanteurse がイタリア語化されたもの

*2:翻訳にはこのサイトのイタリア語への訳詩を参考にした:

http://parliamoitaliano.altervista.org/reginella-murolo/

1.

Ti sei fatta un vestito scollato,
un cappello con i nastri e con le rose,
eri in mezzo a tre o quattro sciantose
e parlavi francese, è così?

 

E’ stato l’altro ieri che ti ho incontrata,
è stato l’altro ieri a Toledo, signorsì!

 

Ti ho voluto bene, a te!
Tu m’hai voluto bene, a me!
Ora non ci amiamo più,
ma a volte tu,
distrattamente,
pensi a me.

*3: cardillo はイタリア語では cardellino 。このゴシキヒワは、頭が赤いことからキリストの受難を連想させるものとして、絵画においては聖母子像に頻出し、幼子イエス聖母マリアの迎える運命を暗示する。例えば、ラファエロ『ヒワの聖母』など。

*4: Ibid.

2.
Reginalle, quando stavi con me,
non mangiavi che pane e ciliegie.
Noi vivevamo di baci… che baci!
Tu cantavi e piangevi per me.

 

E il cardellino cantava con te:
“Reginella, vuoi bene a questo re?”

 

Ti ho voluto bene, a te!
Tu m’hai voluto bene, a me!
Ora non ci amiamo più,
ma a volte tu,
distrattamente,
parli a me.

*5: Ibid. 

Oh cardellino, chi aspetti stasera?
Non lo vedi? Ho aperto la gabbia!
Reginella è volata? E tu vola!
Vola e canta… non piangere qui!

 

Tu devi trovare una padrona sincera
che sia più degna di sentire e cantare.

 

Ora non ci amiamo più,
ma a volte tu,
distrattamente,
chiama me.