雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

『Tempo massimo』(1934)短評:デ・シーカ&ミリー、そしてマニャーニ

Tempo Massimo [Italian Edition]

 イタリア版DVD。イタリア語字幕付き。24-39。マニャーニ祭り。これは面白かった。マニャーニの2作目。デビュー作『La cieca di Sorrento(ソレントの盲女)』と同じ時期だけど、マニャーニらしさが出ているのはこちら。

 タイトルの「Tempo massimo」はスポーツ用語で「試合や競技が行われる最大時間」、つまり「試合時間」や「競技時間」のこと。じっさいボクシングや、スキーの滑降、そして自転車競技が登場する。ところが主人公のインテリ青年ジャコモ・バンティ(ヴィットリオ・デ・シーカ)には、どれもがとんでもなく危険なこと。なにしろこの青年、アガタ叔母さんから健康に悪いことはすべて厳禁されている。だから酒もダメ、タバコもダメ、あげく大人になっても肝油を飲まされる始末で、スポーツなんてとんでもない。

 そんなもやし青年のジャーコモ・バンティが、次々と危険なスポーツに挑戦する羽目になる。そこが笑いどころ。だから映画の定番の「駅での別れのシーン」もなければ「ナイトクラブ」登場せず、「電話のシーン」もほんのわずか。それでも国産映画として、トップクラスの俳優たちが見事な芝居をしてくれますよというのが、映画の宣伝文句なのだ。

 ではこのインテリもやしの文学青年バンティくん、いかにして、それこそ「時間の限り tempo massimo 」で、いくつものスポーツに挑戦することになるのか。理由はもちろん恋だ。その恋はある日空から降ってくる。若くて美しいその女性の名はドーラ・サンドリ(ミリー)。なんと、スペイン人の求婚者ウェルタ公(N.ベルナルディ)と賭けをしてパラシュートでの降下に挑戦し、バンティくんが釣りをしていたところに落ちてくる。彼女が空から降ってきたのを見て、驚いたバンティも湖におちて、ふたりともずぶ濡れ。着替えがほしいの。お宅に連れて行って、と彼女。もちろんと彼。執事のアントニオは大丈夫かと不安げ。邸宅に帰ると待っていたのは、厳しい叔母のアガタ。まずは甥の心配をして、おてんばながら礼儀正しいドーラには、しぶしぶながら礼儀正しく接し、着替えを準備。すると彼女が選んだのは、おそらく亡くなったバンティの母の衣装。そのあたりが、運命的。実際、二人は惹かれ合うわけだ。

 それにしても、リアリズムでもなければ、白い電話でもない。貴族と貴族の出会いなのだけれど、ミリーの演じるドーラの弾けっぷりと、デ・シーカの口髭を話したバンティのモヤシぶりが達者な演技が実に楽しい。もちろん、執事のアントニオも、叔母のアガタもなさそうな人物なのだけど、俳優たちの演技がありそうに見せてくれる。

 それもそのはず。この映画はマーリオ・マットーリの新しい演劇集団ザ・ブン(Za-Bum)のヒット・レパートリーの映画化。1927年にマットーリと仲間が立ち上げたこの劇団は、レビューの喜劇役者と舞台の俳優たちを混ぜ合わせたもので、筋書きのなかった喜劇と、笑いのなかった舞台から、双方の良いところをうまくミックスしたもの。おかげで、それまで鳴かず飛ばずだったデ・シーカたちは一気に有名になる。そのザ・ブン劇団のレパートリーの映画化の話があったとき、最初に頼まれたカルロ・ルドヴィーコ・ブラガッリャが監督を降りたので、しかたなくマットーリが監督したのがこの『Tempo massimo』だというのだ。

 そんな作品でアンナ・マニャーニが演じたのは、主人公の裕福なお転婆娘のドーラ/ミリーに言い寄るスペインの公爵ボブ・ウエルタ(B.ベルナンディ)に使える家政婦エミリア。彼女には自転車競技のチャンピオンのアルフレード(エンリコ・ヴィアリーシオ)という恋人がいるのだけど、デ・シーカの演じる青年が自分に恋していると誤解してその気になるという鵜役所。『ソレントの盲女』で与えられた殺人犯の恋人アンナにくらべると、こちらのほうがコミカルで生き生きとしている。なるほど、レビュー演劇の改革者たるマットーリの見る目は確かだというところ。

 さて物語は運動音痴のデシーカがスキーをしたり、ちょっとした誤解から自転車競技に出場したりと、怪我をしたり、喧嘩をしたり、執事の助けを借りて、相手を出し抜いたりと、じつの楽しいドタバタコメディー。そうそう、デ・シーカは歌も歌うんだよね。最初はしっとりと、やがて覚醒してくると、嫌いだったはずのジャズのアレンジで歌い出す。それが彼女ために作曲したという『Dicevo al cuore(心に言ってたのさ)』。


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訳しておこう。

ぼくは知らなかった、わからなかった
愛とは何かなんてことを
ぼくの人生には太陽なんてなく
その最初の輝きもなかったのさ

きみは分かるかい、きみは感じるかい
ぼくのなかで何かが変わったてことを
この心臓の鼓動がなんなのか
きみは理解できるかい

心に言っていたんだよ 愛しちゃダメだって
心に言っていたんだよ 夢見ちゃダメだって
だって愛なんていうものは
虚栄にすぎないと思っていたから

でも君を見たあの日から
本当の愛がどういうものか分かった
それは本当に魅力的だよね、君がとても愛している
だから心の言うのさ、愛さなきゃだめだって

空を見ても、海を見ても
夢見ているようなのさ
そしてぼくは甘い夢の中で
そばにいてくれる君をずっと見ている

この魔法はいったいなんなのか知っているか
僕を離してくれないんだよ
ぼくの心の中は詩であふれている
あなたが詩なんだ

心に言っていたんだよ 愛しちゃダメだって
心に言っていたんだよ 夢見ちゃダメだって
だって愛なんていうものは
虚栄にすぎないと思っていたから

でも君を見たあの日から
本当の愛がどういうものか分かった
それは本当に魅力的だよね、君がとても愛している
だから心の言うのさ、愛さなきゃだめだって

イタリア語はこちら。

Io non sapevo, non conoscevo
che cosa fosse amor
nella mia vita senza sole,
né il primo raggio di splendor.

Puoi tu capire, puoi tu sentire
cos'è cambiato in me,
e questo palpito del cuore,
comprendi tu cos'è?

Dicevo al cuore "non amar",
dicevo al cuore "non sognar",
perchè credevo che l'amore
fosse solo vanità.

Ma da quel dì ch'io vidi te,
il vero amore so cos'è,
è un puro incanto, io t'amo tanto
e dico al cuore "devi amare".

Se guardo il cielo, se guardo il mare,
mi sembra di sognar
e nel mio sogno delizioso
ti vedo sempre accanto a me.

Sai tu che sia questa malia
che non mi lascia più?
Nel cuore ho tanta poesia,
la poesia sei tu!

Dicevo al cuore "non amar",
dicevo al cuore "non sognar",
perchè credevo che l'amore
fosse solo vanità.

Ma da quel dì ch'io vidi te,
il vero amore so cos'è,
è un puro incanto, io t'amo tanto
e dico al cuore "devi amare".

 ほとんど映画の内容を歌っているのだけれど、同じ歌をミリーも歌う。そこが面白い。主人公がふたりとも、演技だけじゃなくて歌えてしまう。そこがマットーリのザ・ブン劇団のすごいところ。そんな場所だからマニャーニも生き生きとしている。歌うことこそないものの、彼女のよさが発揮されている。だからデ・シーカも自分が監督をするとき彼女を思い出して、『金曜日のテレーサ』(1941)にレビュー歌手の役で起用するわけだ。

 ところで、この映画の最後がはちゃめちゃで楽しい。いとしのミリーが、金目当てで言い寄ったスペインの貴族と結婚しようとするその瞬間、デ・シーカ演じるバンティ青年が奪った観光バスを大暴走させたすえに教会にかけつけると、結婚式の出席者を残して、ミリーと逃げ出すことになる。あれ、これってどっかで見たよな。そう思ったら、みんなもそうだと思ったみたい。そうそう、マイク・ニコルズの『卒業』(1967)のラストでダスティン・ホフマンキャサリン・ロスを奪い去るシーンそのものではないか。

 本人に聞いてみないとわからないけれど、オマージュというよりは偶然の一致なのだろう。それでも、映画史に残る名シーンが、べつの作品の名シーンの反復だというは面白い。人は、同じことを映画的な面白さと感じるってことなのかもしれないよね。

 


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Dicevo Al Cuore

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『La cieca di Sorrento(ソレントの盲女)』(1934)短評

マニャーニ祭り。イタリア版DVDの到着を待ちながら、デビュー作ということで辛抱たまらず、このサイトにて視聴。24-38。Filmaks のリストになし。

1)原作者 F.マストリアーニ

 1934年の作品でタイトルは「ソレントの盲女」。原作はフランチェスコ・マストリアーニ(1819 - 1891)の同名小説(1852刊)。ナポリ生まれの作家。19世紀に普及した新聞の連載小説で人気で博す。その関心はナポリの下層階級に向けられ、叙述スタイルは絵のように美しく、心和ませるものだが、決して迎合的ではないという。ベネデット・クローチェによれば、「このジャンルのもっとも注目すべき作家」(il più notabile romanziere del genere)であり、文学に馴染みのない人々にまで広く読まれたという。イタリア大衆小説の走りだけれど、同時に、イタリアの南部文学の誕生に貢献し、ヴェリズム誕生の基礎を築いたという。

 ナポリのサン・フェルディナンド劇場にはでフランチェスコ・マストリアーニに捧げられたプレートが飾られている。

FRANCESCO MASTRIANI
FU L'INDIVIDUAZIONE DI QUESTO POPOLO NAPOLETANO
LAVORARE E SOGNARE SOFFRIRE PAZIENTEMENTE E MORIRE
S’INTENDEVANO L'UN L' ALTRO
EGLI AVEVA VISITATO L'ULTIMO TUGURIO E IL POPOLO
SI RICONOSCEVA IN LUI
IN ALTRO PAESE SAREBBE DIVENUTO RICCO
MA L'ITALIA POVERA COME LUI NON MERITA RIMPROVERO
G. BovIo

 訳しておこう。

フランチェスコ・マストリアーニは
ここにいるナポリの人民を体現する人だった
働き夢を見ること 辛抱強く耐えて死ぬこと
それぞれに折り合いをつけていた
最も貧しい家までを訪ねてゆく姿は
人民そのものに見えたのだ
他の国だったなら裕福になれただろう
しかし彼のように貧しいイタリアを責めることはできない

G.ボーヴィオ *1

 マストリアーニは貧しい中で執筆を続け、最後には半ば目も見えなくなり、借金を抱えて亡くなっていったという。イタリアにおけるジャッロあるいはノワールというジャンルの創始者でもあったが、そんなナポリの大衆作家が生前に見返りを得ることはなかった。それでもこの『ソレントの盲女』など広く読まれ、映画化も繰り返された。サイレントの時代から数えると1916年版、ここで取り上げるトーキーの初期の作品である1934年版、さらに戦後になって大衆的ネオレアリズモ(neorealismo d'appendice )時代における1953版、そしてカラー作品の1963年版と続く。

3)物語とその時代

 映画の始まりは1834年。それはナポリがまだ両シチリア王国だったころ、ある居酒屋の地下室で秘密めいた集会が開かれている。冒頭のカメラが捉えるのは炭(カルボーネ)がおこされている映像。なるほど集まったのはカルボナーリ党員たちというわけか。

 カルボナーリはナポリに起源をもつ。フランス革命の影響を受けて、自由を称揚し憲法の制定を訴えたのが始まりだ。ナポリは革命の街でもある。1799年にはパルテノペア共和国が3ヶ月だけの自由を謳歌*2。そしてウィーン体制(1814-1848)の反動。ナポリではブルボン王朝による復古的な治世への反発が強まり、農村ブルジョアジー、下層聖職者、開明的な官僚、そして士官クラスの軍人などが政治的な秘密結社カルボナーリを組織、自由主義的な改革をめざし、1820年に蜂起(ナポリ革命)するも、オーストリアの介入などで鎮圧される。

 それから14年たったカルボナーリたちを描き出すのが映画の冒頭。その集会を摘発しようとブルボンの憲兵隊が突入してくる。かろうじて逃げ出したカルボナーリたちだが、ちょうどそのころ近くのリオネーリ侯爵の屋敷に賊が入り夫人が殺される。現場を目撃した娘ベアトリーチェは恐怖のあまりに熱を出し、そのせいで失明してしまう。

 ところが憲兵たちが逮捕したのはカルボナーリを指揮者フェルディナンド・バルディエーリだった。彼は公爵の屋敷近くに署名入りのマフラーを落としてしまったのだ。殺しは否定してもアリバイはない。秘密の集会に参加していたとは言えない。仲間を売るよりも革命のための犠牲を選び、絞首刑となる。父を信じた息子カルロ・バルディエーレ、不正のはびこるナポリを離れ、自由の地イギリスで医学を学ぶ。

 リオネーリ侯爵婦人を殺したのは誰か。犯人は会計士のエルネスト・バジリオだった。犯行から帰った彼を待っていたのが愛人のアンナ。演じるのはアンナ・マニャーニ。映画初出演。オープニングで主演のドリア・パオラ(盲女ベアトリーチェ)に次いで2番目にクレジットされる。演じるのは裕福なドン・ジャコモの妻にして、その会計士エルネストと密通する女。登場した瞬間から眼を奪われるのは、大きく胸のはだけた衣装、大きく開いた瞳、その影のある眼差しだ。

 もしかすると浮気を疑ったのか、彼女は愛人エルネストを問い詰める。どこに行っていたの、また負けたのと畳み掛ける。なるほどギャンブルにも手をだす男だったのか。だとすれば、侯爵の邸宅に窃盗に入った理由は借金の埋め合わせなのだろう。アンナ/マニャーニの眼差しはすべてを見透かす。その人間の業と、その業から来る苦悩は、彼女の目から逃れることはできない。そんなふうに思わせるのは、それこそマニャーニの生い立ちも関係しているのではないか。

4)アンナ・マニャーニ、そのデビューまで

 アンナ・マニャーニは1908年3月7日、ローマのサラリア126通り、ポルタ・ピア(現在のノメンターノ地区)近くに生まれる。母親マリーナ・マニャーニは18歳でアンナを出産すると、その世話を母親に委ねる。こうしてアンナは、祖母と5人の叔母とひとりの叔父の済むローマのサン・テオドーロ通り(カンピドリオとパラティーノの丘に挟まれた通り)で育つことになる。

 アンアは父親を知らない。大人になって父の身元を探り、カラブリアに出自を持つデル・ドゥーチェが彼女の姓になるはずだったと知る。父親の名前はピエトロ・デル・ドゥーチェ、法学者で貴族の生まれだったおいう。しかし、アンナはそこで身元を探るのをやめたという。「ドゥーチェの娘」と呼ばれたくなかったからだと、笑いながら回想したというのだ。

 アンナの母のマリーナ・マニャーニは、娘を残してエジプトのアレクサンドリアに移住すると、そこで裕福なオーストリア人と出会って結婚する。おそらくはそれが理由で、アンナ・マニャーニはエジプト生まれで、ジプシーの血を引く女優だと信じられていた。なにしろジプシーの語源はエジプトなのだから。

 アンナの祖母は、孫娘を懸命に育てる。勉強させようと寄宿舎に入れるが、数ヶ月しか続かない。結局は家で勉強し、ピアノを練習し、ローマの名門サンタ・チェチリア音楽院に入学するまでになる。1923年、15歳のときアンナは母親を訪問するためにエジプトのアレクサンドリアに行く。しかし望んでいた愛情を知ることができず、親子の関係を作ることができない。関係を作ることができず、非常に痛みを伴う経験となってしまう。ローマに戻ったアンナは、パオロ・ストッパと出会い、音楽院に併設されていたエレノーラ・ドゥーゼ演劇学校に飛び込むことになる。

 1925年には劇団との契約にこぎつけるが、学校ではトップだったアンナも、プロの世界ではセリフをひとつだけもらえればよいのだった。やがて1930年代にはいると、映画がトーキーとなり、セリフをきちんと言える人材が求められるようになる。アンナも吹き替えの仕事などから、映画の世界に近づき、ついに映画デビューするのが、1934年のこの『ソレントの盲女』での殺人犯の愛人の役だったというわけだ。

5)物語の続き

 1834年に始まった物語は、その10年後の1844年となる。無実の罪で絞首刑となったカルボナーリの指導者の息子カルロが、イギリスで医学を修めた名医サイモンとして故郷に帰ると、あの悲劇の夜に盲目となったベアトリーチェの治療をすることになる。手術をすればまた見えるようになるという。

 しかしそのとき、あろうことかあの強盗にしてベアトリーチェの母を殺した会計士のエルネストが、リオネーロ公爵家の盲女ベアトリーチェと婚約していたのだ。ベアトリーチェは、目が見なくても次第にサイモンことカルロに惹かれてゆく。それはカルロも同じ。しかし、その父は娘の母を殺したという濡れ衣で絞首刑となっている。だから自分の正体を明かすわけにもゆかない。しかもベアトリーチェは婚約してもいる。

 手術は成功し、ベアトリーチェは目が見えるようになる。その目で探し求めるのはイギリス帰りの医者サイモン/カルロなのだが、彼は身を引こうとしている。そこに登場するのが、アンナ・マニャーニの演じる愛人アンナ。彼女はまだエルネストに未練があるのだが、その彼が自分が殺めた侯爵夫人の娘と結婚することが耐えられない。

 こうしてアンナ/マニャーニは、リオネーロ(Rionero)侯爵夫人殺しの証拠の品であるRの文字の刻まれた指輪を、エルネストとベアトリーチェの婚約の指輪にすり替える。そして婚約披露の舞踏会。このシーンが見事なのだけれど、そこで指輪が目にふれたとき、ベアトリーチェは自分の婚約者の眼差しが、母親殺しの犯人のそれであることに気が付く。そこにアンアがやってきてすべてを告白することになる。

 こうして、あの悲劇の夜の真実が明らかになったとき、もはや盲ではないベアトリーチェは、彼女に瞳に光を取り戻した医者の本名を知るが、ふたりの恋路を妨げるものはない。

 

 

 

 

 

*1: G. ボーヴィオGiovanni Bovio, 1837 –1903 )はナポリの哲学者。

*2:タヴィアーニ兄弟の『サンフェリーチェ/運命の愛』(2004) がこの共和国を描いている。

蘇ったフィルムたち:映画か、それとも動画か、はやり映画なのか!

 昨日はイタリア文化会館の「蘇ったフィルムたち チネマ・リトロバート映画祭:特別上映・レセプション」に参加してきました。この映画祭は知る人ぞ知る映画祭で、ぼくも名前だけは聞いていたのですが、今回はめでたくも京橋の日本の国立映画アーカイブでその一端を垣間見ることができるようになったのです(1/4-2/5)。詳細はこちら

 昨日の文化会館では、プログラム1の「サイレント短編集」(『サタン狂想曲』を除く)が上映されたのですが、これが実にすばらしかった。なにせ画面がみごとに修復されている。一緒に行ったナギちゃんの言葉を借りれば「パキパキ」している。たしかに「くっきりはっきり」。それを大きなスクリーンで見られるというのは、ちょっとした体験でした。

 映像だけではありません。解説がよかった。サイレント映画ですから音声はありません。普通の映画と見るときの作法が違う。どうしてもギャップが生じます。そのギャップを埋めてくれたのが、チネテーカ・ディ・ボローニャ財団のディレクター、ジャン・ルカ・ファリネッリさんの解説。これがすばらしい。必要な情報を短い言葉で伝えてくれるので、大いに想像力が刺激されませう。くわえて通訳の小池美納さんが日本語で意味をすばやく補足してくれます。映像におくれをとらないコンビネーションが、サイレントの短編の魅力を引き立ててくれました。

 ちなみに「チネマ・リトロバート」(Cinema Ritrovato)とは「見つかったチネマ」のことで、一度は失われたけれど、「再び見つけられた」(ritrovato)という意味。考えておきたいのは、「チネマ」(cinema)という言葉。イタリア語で「cinema」はふつう「映画」と訳しますが、一本の作品としての「映画」は「film」です。

 例えば「映画に行く」は「Vado al cinema」ですが、「映画を見に行く」だと「Vado a vedere un film」。イタリア語の日常会話では「cinema」は「映画館」で、「film」は個々の「映画」作品のこと、そう覚えておけばよいのです。

 だとすれば、この映画祭のタイトルが「蘇ったフィルムたち」というのも納得できます。「フィルムたち」とは一本一本の作品(film)のこと。さまざまな理由で失われていたその「フィルムたち」が、世界中のさまざまな場所で「再び見つけられ」(ritrovato)、それがチネテカ・ディ・ボローニャ財団の修復作業によって「蘇った」(ritrovato)。つまり「蘇ったフィルムたち」(i film ritrovati)。

 けれども「再び見つけられた/蘇った」のは個々の作品(film)だけではありません。作品とともにぼくたちが驚きを持って「発見する」のは、かつての映画のあり方そのもの。つまり「チネマ」(cinema)の発見でもあるのです。

 サイレント映画(cinema muto)は、いくつかの短編をまとめて上映していたといいます。そういうプログラムのあり方のなかで、個々の作品は、誰も見たことのない場所にカメラを持ち込んで、見たことのない風景や人々の姿をとらえ、さらには彩色や多重露出などの技術を駆使して、見るものをハッとささようとします。

 そのあたりをナギちゃんと話していたのですが、サイレント映画には現在の状況に重なるものがありますよね。たとえばSNSに見られる数々の動画(filmati)たち。それらはどこかサイレントの短編に似ています。テレビコマーシャルやSNSの動画たちは、なんとか人目を惹こうとします。それを「アトラクション的なもの」とするならば、それはかつてサイレントの映画たち(i film muti)が試みてきたものでもあります。

 そう考えると、動画と映画の境界が曖昧になってきますよね。おそらく、両者はどこかで白と黒にはっきり区分されるのではなく、曖昧なスペクトラムのように、白と黒の濃淡が徐々に変化しているようなものなのかもしれません。見ればみるほど、どこで区別をすればよいのかわからなくなってくる。同じではない。違うものだ。違うものだけど、どこかで連なっている。

 ナギちゃんに言わせると、単なる動画と映画は違うはずだといいます。けれども、その違いがよくわからない。自分が短編を撮るときは、それを探っている、そう言うのです。そのあたりの気持ちはよくわかります。たしかに動画と映画は違う。ではどこまでが映画で、どこからが動画なのかというのは非常に難しい。

 たぶんそれって、人間と動物の違いに似ているのかもしれません。人間も動物なのだけれど、人間と動物は違う。では、どこに線が引けるのか。考えれば考えるほどわからなくなってくる。わからないけれど、人間はつねに動物との違いの線をみつけつづける。その営みを、アガンベンは「人類学的機械」と呼びました。だから、映画と動画の間にも、「映画学的な機械」の営みがあるのかもしれません。

 そうそう、備忘のために記しておくと、レセプションの会場では岡田温司せんせいとお話をさせてもらえたのがうれしかった。お洒落で、気さくお人柄に接することのできたのは僥倖。チネマという「インターテキスト」を読み取ってゆくその手つきには、いつも大いに触発されてきたました。

 お話をしながら、つい挑発的に、映画をつくる人間に触れられない理由をおたずねしてしまったのですが、作家主義に取り込まれる危険性に十二分に自覚的でいらっしゃった。納得すると同時に、それでもテキストの背後にいる人間についてどう語るかという思いが強くなってきたのです。

 

 ではいかに見た作品を列挙しておきます。解説はフライヤーより抜粋。

('24-10) スタッキー、クランクの回転
Stucky: Giri di Manovella
1900(伊)
(1分・DCP・無声・白黒)
撮影:ジャンカルロ・スタッキー

ヴェネツィアの「製粉王」の息子でゴーモンの小型キャメラを手にしたジャンカルロ・スタッキー(1881-1941)が、自身のクランクを回す動きを真似る二人の少女を捉えた魅惑的なホームムービー。

*これは映画じゃないのだろうか。キャメラを回す少女たちの姿は、動画にすぎないのだろうか。くっきりと修復された映像には、映画が立ち上がるところが記録されているようにも思う。だとすれば映画なのか。動画が映画に向かおうとする「あわい」の1分。

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('24-11) 花の妖精
La Fee aur Fleurs
1905(仏:パテ) 
(2分・DCP・無声・ステンシルカラー)
監督:ガストン・ヴェル

『花の妖精』では、ルイ15世の愛妾ジャンヌ=アントワネット・ポワソンに扮した女性が、手彩色を施された色鮮やかな花の中から登場する。

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('24-12) シチリアの荷馬車作り
Fabrication des Charrettes Siciliennes
1912(14: /15)
(4分・DCP・無声・染色)

シチリアの荷馬車作り』は、極彩色と派手な装節で知られるシチリア伝統の荷馬車の制作工程を記録している。

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('24-13) ボローニャの史跡巡り
Bologna Monumentale
1912(伊:ラティウム
(5分・DCP・無声・白黒)

ボローニャの史跡巡り』では、世界遺産のポルティコ群(柱廊玄関)など、現在もその姿を留める歴史的建造物が紹介される。

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('24-14) 赤とピンクのカーネーションを持つ女性
Donna con Garofani Rossi e Rosa
1912頃(伊)
撮影:ルカ・コメリ
(1分・DCP・無声・キネマカラー)

『赤とピンクのカーネーションを持つ女性」は、最初期のカラーシステムであるキネマカラーのテストフィルム。

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('24-15) 骸骨
Lo Scheletro
製作年不詳(伊)
(1分・DCP・無声・染色)

『骸骨』は、肉体を失い骸骨となった男の自己愛を消に表現した初期映画。

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('24-16) アルメニア、文明の揺りかご アララト山周辺の悲劇
Armenia, the Cradle of Humanity under the Shadow of Mount Ararat
1919-1923(不詳)
(3分・DCP・無声・白黒)

アルメニア、文明の揺りかご アララト周辺の悲劇」は、アルメニア・トルコ戦争(1920)前後に撮影された歴史的な記録映像。

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('24-17) トントリーニの悲しみ
Tontolini è Triste
1911(伊:チネス)
出演:フェルディナン・ギョーム
(7分・DCP・無声・白黒)

『トントリーニの悲しみ』では、イタリア無声映画喜劇王フェルディナン・ギョーム扮するトントリーニが、失恋の慰めに見た映画の中で自身の分身(ポリドール)と出会う。フェデリコ・フェリーニは「カビリアの夜』(1957)や「甘い生活」(1960)で彼を起用し、往年の喜劇スターに敬意を表した。

*これはおもしろかったな。医者から悲しみ処方をもらったトントリーニは、舞台では楽しめない。当時の舞台の主流は悲劇だから。サーカスに行けば道化たちが喧嘩を始める。じつはサーカスはギョームの故郷みたいなもの。彼はサーカス育ちなのだ。そのあたりの、なんというか自己言及性がすでにこの時代にあったわけ。そして、最後に映画を見にゆけば、スクリーンには自分自身が登場するという趣向。まさにメタチネマ。フェリーニの『8½』がメタチネマだといって驚いているようじゃ、まだまだ映画を知らないってことか。そう、これが映画。これは動画じゃない。映画だよな。

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('24-18) オランダの頭中とその種類
Coiffures et Types de Hollande
1910(仏:パテ)
(4分・DCP・無音・ステンシルカラー)

『オランダの頭巾とその種類』は、オランダの伝統的な帽子をかぶった女性達が、色鮮やかな衣装や装飾品によってひときわ輝いている。


('24-19) テムズ河畔 オックマフォードからウィンザーまで
Les Bords de la Tamise d'Oxford a Windsor
1914(仏:エクレクティック・フィルム)
(5分・DCP・無声・ステンシルカラー)

『テムズ河畔オックスフォードからウィンザーまで」は、船上のキャメラが捉えた緑豊かなテムズ河畔の光景が目を惹く。

 

('24-20) バーテルス姉妹
Le Sorelle Bartels
1910(伊:チネス)

(5分・DCP・無声・白黒)

『バーテルス姉妹」』では、バーテルス姉妹が繰り広げる優雅なアクロバット芸が目を楽しませてくれる。

 

('24-21)  お花で、さようなら!
Buona Sera, Fiori!
1909(伊:アンプロジオ)
出演:マリー・クレオ・タルラリー
(1分・DCP・無声・白黒)

本短高集を締め括る「お花で、さようなら!では、コマ撮りアニメーションによって花々が「BUONA SERA」の文字を形作る。

 

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