雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ダンテのソネット "Tanto gentile e tanto onesta pare" 訳してみた

f:id:hgkmsn:20191201155724j:plain

Twitterにこんな記事が流れて来た。

一瞬にしてダンテの時代と現代が結びつく。ベアトリーチェを通して愛を称揚するダンテの原像と、嫉妬深い愛しか知らない現代人の眼鏡を通した見えるダンテ。そのギャップこそが、このマンガを笑うための要諦なのだろう。國司さんのツイートは、その日本語訳とイタリア語を対比を通して、現代から古典への扉を開いてくれるのではないだろうか。
難しい話ではない。いわば落語の「千早振る」のように百人一首の珍解釈で笑ってもらおうというものであり、日本の受験生が古文を引用して作った4コマ漫画のようなものなのだ。それはそうなのだけれど、やはり肝心なのは本家の百人一首であり古文の原文であり、その解釈であることはいうまでもない。

f:id:hgkmsn:20191202103106p:plain
 

ところがぼくは、このダンテの古典を素材にしたマンガの、その最後の部分「他人に挨拶しただけだ!」(Altrui saluta!)という部分が気になってしまった。

それが、ダンテの詩の引用であることは想像がつく。そして、その意味がおそらく、これだけのことをしてやったのに、あのベア(ベアトリーチェ)がしてくれたことといえば、「他人に挨拶しただけ」だという怒りであることは察しがつく。そもそも、ベアトリーチェをベアと呼んでいることからして、まるで自分の恋人のような言い方だから、その恋人が「他人に挨拶する」というのは、なんだか自分をないがしろにされ、まるで浮気でもされたかのようではないか。じっさい、上の漫画を最後のコマのダンテは、よく見れば目から涙を流しているではないか。

しかし、それは落語でいえば在原業平の有名な一首「ちはやふる」の意味をたずねられた御隠居さまが、知らないと言って沽券に関わるというので、即興で頓珍漢な解釈を披露して、「むかし、千早という花魁が、いいよって来た相撲取りの竜田川をふったことがあってな、だから、ちはやふる、つまり千早が振るというわけじゃ」などとやるのだけど、そのめちゃくちゃ解釈をわらうためには「ちはやふる」は枕詞だという知識が必要なわけなのだ。

うえのダンテとベアトリーチェの漫画も、似たような珍解釈であることにはかわりがない。問題はこの一節が本当はどういう意味なのかということだ。

恥ずかしながら、ぼくはこの一節の出典をさっと言えるほど教養がないのだけれど、こういうお笑いは大好きなのだ。なにしろあの在原業平の一首だって、恥ずかしながら、落語の「千早振る」を通して知ったぐらいなのだから、もうここは開き直るしかない。

というわけで、さっそく、どこからの引用なのか、ちょっとググってみると、すぐにヒットしたのが『新生』の26章のソネット。いやはや便利な時代になったものだ。このネットの注釈を読むと、このソネットは清新体の詩の代表的なものだと考えられてるようだ。

なるほど、これならイタリアの高校で古典を学んだものなら誰でも、ぼくらが「源氏」や「平家物語」の一節を覚えたように、きっと暗唱した経験があるはずだ。

そうおもいながら、上の注釈を読み進めてゆくと、例の現代語で「他人に挨拶する」という意味にとれる「altrui saluta」という表現にゆきあたる。注釈を読めば、現代語では「他人」という代名詞になる「altrui」は、どうやらダンテの用法では非人称的な意味になり、「他人」という意味ではなく、ただよ「誰か、人に」と解釈すべきものだというのだ。

だとすれば、ダンテのこの一節は、ベアトリーチェが道ゆく人に挨拶・会釈しながら歩いているという、ただそれだけの意味であって、けっして浮気への嫉妬のような感情に読んではならない。なにしろ、このソネットは全体として、ただひたすらベアトリーチェの優美さを通して、「愛 amore」を称揚しようとする内容。その「愛 amore 」はやがて、地獄から煉獄をへて、ついにはベアトリーチェの昇った天国へといたる『新曲』の世界に発展してゆくことになる。

なるほどね。たしかに清新体の中心的なテーマは「愛」だった。『神曲』の最後だって、星々を動かす力として、いわば世界の核心に働くものとして「愛」を描きだしていたではないか。

では、この清新体という文体の代表的なものといわれるソネットは、いったいどんなことが歌われているのだろうか。そんな好奇心にかられ、ほとんど個人的ななぐさめとして、以下にこのソネットを訳してみようと思う。

ただ、ダンテの『新生』の日本語訳が手元にない。イタリア語の原文とイタリア語の注釈を見ながら、高校生の古典の授業の予習をするような気分で日本語訳に挑戦だ。とんでもない間違いもあるだろう。そのあたりはご指導ご鞭撻のほどよろしく。

ところで、ネットをみるとこのソネットを、ちゃんと朗読してくれている動画もあるではないですか。たとえばこれなんか。いやあ、いい時代になったものだ。うれしいよね。

www.youtube.com

以下、拙訳です。ご笑覧。

あまりに高貴で、あまりに気品ある姿なものだから

わたしの心の女(ひと)に会釈を向けられた誰もが

舌を震わせて黙ってしまい

まともに目を向けられなくなる

 

Tanto gentile e tanto onesta pare*1 
la donna mia*2 quand’ella altrui saluta,
ch’ogne lingua deven tremando muta,
e li occhi no l’ardiscon di guardare. 

 

その女(ひと)が、まわりから称えられるのを聞きながら 

優雅に慎ましさをまとって歩みゆけば

その姿は、まるで被造物のひとつが降臨し

天上から地上に奇跡を示すかのようだ

 

Ella si va, sentendosi laudare,
benignamente d’umiltà vestuta;
e par che sia una cosa venuta
da cielo in terra a miracol mostrare.

 

かくも優美な現れのゆえに、その前に立てば誰もが

目から心に甘美なものが届くのを感じるのだが
その感覚は味わった者にしか理解できないものだから

まるで、その唇から発せられる

優しく愛に満ちた精霊が

そこやかしこの魂に、恋こがれよと告げ回るかのようなのだ

 

Mostrasi sì piacente a chi la mira,
che dà per li occhi una dolcezza al core,
che ‘ntender non la può chi no la prova;
e par che de la sua labbia si mova
uno spirito soave pien d’amore,
che va dicendo a l’anima: Sospira*3. 

 

新生 (河出文庫)

新生 (河出文庫)

 
新生 (岩波文庫)

新生 (岩波文庫)

 
NHK落語名人選100 92 二代目 三遊亭小遊三 「千早振る」「たいこ腹」

NHK落語名人選100 92 二代目 三遊亭小遊三 「千早振る」「たいこ腹」

 

 

 

*1:gentile は「魂の高貴さ」で onesta は「外面や行為における高貴さ」のこと。

*2:donna mia は「心の主人 la padrona del mio cuore」の意

*3:sospirare は「悲しみ、嘆き、憧れ、熱望、待望、精神的な苦悩などが理由で、ため息をつく」という意味。ここでは「愛 amore」への強い待望と憧れから来る「ため息」ということなのだろうか。ちなみに、平川祐弘訳では「そっとお嘆き」となっているようだ

長崎の教皇と「死に神」の舞い降りた場所

 

f:id:hgkmsn:20191124150415j:plain

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52550690U9A121C1ACYZ00/

今朝、教皇フランシスコが長崎を訪問したニュースを見る。アルゼンチン生まれの教皇母語スペイン語で、核廃絶を訴えた。

長崎は雨、雨がっぱの参列者。気になったのはその場所。あの平和公園ではない。その手前にあるこじんまりとした爆心地公演だ。平和公園にゆけば、もっと大きなスペースがあり、多くの人をまえにスピーチができたのかもしれない。しかし、そうはしなかった。むしろ小さな爆心地公園を選んだのには理由があるはずだ。

長崎にはぼくも訪れたことがある。中学の修学旅行だ。平和公園には行った。そこには例の北村西望(1884 - 1987)の平和記念像がある。台座を含めて高さ13.6メートルの巨大な男性像だが、観光気分だったからだろうか、ぼくにはなぜか印象がない。奈良の大仏を初めて見た時よりも印象が薄いし、同じ旅行で訪れた広島の原爆ドームで受けたショックとは比べようがない。

f:id:hgkmsn:20191124135314j:plain

https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/130/

そんな像がある平和公園だが、ぼくはずっとそこが爆心地なのだろうと思っていた。広島の原爆ドームを考えると印象のない爆心地... ところが実際の爆心地は別のところに、きちんと公園となって残っていた。そこをフランシスコ教皇は訪ねたわけだが、ぼくには修学旅行で訪ねた記憶がない。

だとすれば、平和公園のあの有名な記念碑はなんだったのか。そこにはらまれる問題を知ったのはごく最近のこと。彫刻の歴史をかじっていた娘から教えもらった気鋭の研究者、小田原のどか氏のこの記事が、そのあたりことを鋭く指摘してくれている。

10plus1.jp

ここでは、平和記念像の彫刻家が、かつては「勇壮な男性像かつ戦意高揚を意図した作品」*1を多く手がけた人であり、たとえば「山県有朋元帥騎馬像」のような作品を作っていることを思い出しておこう。 個人的なかつての戦争協力を告発するためではない。の記念碑の背後に不気味に連続するものがあることを、ぼくらはつい忘れてしまう、その戒めのためだ。

f:id:hgkmsn:20050503111503j:plain

https://bronzerider2.jimdo.com/騎馬像-equestrians/中国/山県有朋/

そんなこともあって、ぼくは教皇は長崎を訪れないかもしれないと思っていた。だから今回の訪問はちょっとしたニュースだった。しかも、あの平和公園ではなく、爆心地公園の記念碑の前でスピーチを行ったのだ。

その記念碑は《原子爆弾落下中心地碑》(1956)という。これは「建築家の松雪好修によるもので、原爆の焼影の角度によって形態が決められている」ものらしい。そこにある「落下」の文字は、彼地から飛んできて「投下」された原爆のことだが、ぼくにはオバマ大統領の広島の演説の一節を想起させる。

空から死神が舞い降り、世界は一変しました。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。*2

f:id:hgkmsn:20151201155535j:plain

http://dubleve.jp/2015/12/01/長崎|原子爆弾落下中心地碑|浦上天主堂遺壁|/

まさに「死に神」の舞い降りるところを指し示す建築学的な形象なのだが、この松雪好修による記念碑は長い間忘れられていて「設計の意図なども不明」だったらしい。そして「1990年代にこれを撤去し、被爆50周年記念事業として新たに富永直樹《母子像》(1997)を建立するという計画」が発表されることになる。

この富永直樹(1913-2006)とは、平和記念像の北村西望の愛弟子であり、やはり長崎の生まれの世界的彫刻家。彫刻だけではなく、工業デザインのさきがけとしても知られ、たとえば《国産四号電話機》(1950年)などを作った人だという。世にいう黒電話だ。そのデザインは嫌いではない。昔の家にもあったし、映画などで見かけるたびに、懐かしい空気が感じられる、時代をマークするデザインだ。

f:id:hgkmsn:20191124132509j:plain

http://www.chinoshiminkan.jp/museum/2014/0419/index.htm

しかし、その《母子像》のほうはどうなのか。

松雪好修による記念碑を撤去し、新たな記念事業としてのその建立を計画したのは、平和記念碑と同じく長崎市のイニシアチブだったというが、この計画に市民から強い反対運動が起きることとなる。細かい経緯は、小田原さんの記事を見ていただきたいが、結局のところ、爆心地の記念碑の撤去こそなくなったが、《母子像》は同じ公園のかたすみに建立されることで落ち着いたようだ*3

f:id:hgkmsn:20191124131436j:plain

https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019111200008.html?page=3

ぼくは直接見ていないが、実際に見てきた娘は、この《母子像》には「とんでもないもの」という印象を持ったという。たしかに写真でも見ても、「亡骸にも見えるみどり児を抱きかかえ、バラの花がちりばめられた華美なドレスをまとった女性という造形」はおどろおどろしく、明らかに場違い。なにしろキリシタンの長崎なのだ。イコンとしての「母子像」を敬愛してきた人たちが、このバラのドレスの母子像をどう感じるか、想像するのがそれほど難しいことには思えない。

いずれにせよ、教皇フランシスコは、たとえそんな母子像が同じ場所の片隅にあるにせよ、むしろ「空から死に神が舞い降りた」場所を建築学的に示す記念の石柱を選んだ。そしてこの建築学的な記念碑の前に立つと、そこにも、せかいのどの場所にも、あの「死に神」がふたたび舞い降りることがないようにと、この雨の中を祈り、その祈りの言葉を世界に伝えようとしたというわけだ。

なにしろ、この列島では今、いたるところに「死に神」と戯れようとする輩が出没している。かつて「死に神」が舞い降り、多くの生命が損なわれ、傷ついたその場所は、もし教皇が訪ねなければ、いったい誰が思い出したというのか。

なにしろ、一本の石柱よりも、あの巨大な像のほうがわかりやすいのだ。記憶がなくても、勉強していなくても、その前に立って見上げることで、それなりの気分を味わえる。おどろおどろしい母子像を見上げて、楳図かずおの漫画みたいだなと笑えばよい。巨大で空虚な笑顔を見て安心し、神聖を冒涜すらできない表層的な母子像に驚いて見せるような「平和」、そこに「死に神」たちの餌場はないと、誰が言い切れるのだろうか。

少なくとも教皇フランシスコの核廃絶の訴えは、どこか時代錯誤に響きながらも、かつて「死に神」の舞い降りた場所を示してくれた。それは、あれが再び舞い降りる恐怖をもはや忘れかけていると、ぼくたちに思い出させてくれている。

デビィッド・ボウイのイタリア語:Ragazzo solo, ragazza sola (1970) 訳してみた

f:id:hgkmsn:20191103215050j:plain

 

11月2日に朝カル横浜で「ベルナルド・ベルトルッチとは誰だったのか」というお話をしてきました。

この日は奇しくも、ルキノ・ヴィスコンティの誕生日なのですが、本人はこの日付を不吉なものと感じていたらしい。というのも、11月2日はイタリアで「死者の日」と呼ばれているからです。そんな不吉な日に亡くなったのがピエル=パオロ・パゾリーニヴィスコンティはともかく、パゾリーニのほうはベルトルッチと大いに関係のある人物。この「呪われた詩人」の導きでベルトルッチは映画の道に進んでゆくのですから。

そんなセミナーのために、今回、ほぼ同時代で追いかけていたベルトルッチという人の作品を、もういちど初めから見直してみました。いろいろな発見があったのですが、そのなかのひとつが、ボウイがイタリア語で歌った「Ragazzo solo, ragazza sola 」という曲なのです。

この曲は、実は1969年の「スペース・オディティ」のイタリア語版です。イタリアでの販売が思わしくないので、テコ入れのためにイタリア語の歌詞をボウイ本人が歌ったようです。しかし、オリジナルが「Ground Control to Major Tom」という有名な出だしとともに、宇宙に飛び出したトム少佐と管制塔とのシュールなやりとりを歌ったものだとすれば、イタリア語版の「Ragazzo solo, ragazza sola 」の歌詞は宇宙を歌ったものには聞こえません。なにしろ管制塔とトム少佐の代わりは「孤独な少年、孤独な少女」であり、宇宙に関するものといえば「天使」が登場するくらいでしょうか。

ところが、この曲はイタリアでずいぶんヒットしたようです。当然、ベルナルド・ベルトルッチも聞いていたのでしょう。そして遺作となった『孤独な天使たち』(2012年)のなかで、日に印象的に使って見せてくれた。ぼくは、その曲が聞こえてきた場面で、おもわず思いました。知っている曲なのに、はじめて聞くようだと。

ぼくはエンドクレジットで、これがボウイの有名な曲のイタリア語版だと知り、本人が歌っていたことを確認したのですが、同時に、日本語のタイトルが「孤独な天使たち」となっていることにも合点がゆきました。なにしろ原題は「Io e te (ぼくとあなた)」。「天使」は、ボウイのこのイタリア語版の歌詞から来ているのでしょう。

ベルトルッチの映画では、「Io e te」は15歳のロレンツォと、20代なかばのオリヴィアの話です。ふたりは母親の違う弟と姉。事情があって、ずっと会っていなかったのに、地下の密室に隠れて数日間をともに過ごすことになります。弟が、スキーにゆくと嘘をついて友人や家族から離れてひとりで引き籠るために見つけた地下室に、事情があって姉がやってきてしまうのです。

 

最初は対立していた弟と姉ですが、やがて少しずつ、お互いを発見してゆきます。そして互いに抱えている苦しみを知ってゆき、それを乗り越えてゆくことになるのですが、まさにその瞬間に流れる曲が、デヴィッド・ボウイの「Ragazzo solo, ragazza sola 」なのです。

ぼくはこのシーンに鳥肌が立ちました。ベルトルッチの最初デビュー作『殺し』のラストのタンゴのシーンから始まり、『暗殺のオペラ』の村祭りのダンス、『暗殺の森』のドミニク・サンダステファニア・サンドレッリのダンス、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』の泥酔したマーロン・ブランドマリア・シュナイダーのダンスなどが、走馬灯のように蘇ってたからです。

そうなのです。ダンスはベルトルッチの紋章のようなもの。だとしたら、この遺作における若いふたりのダンスは、残念ながらこの監督の最後のダンスシーンとなりましたが、じつのところそれは、終わりのダンスのようでいて、終わったところから始めるためのダンスなのではなかったでしょうか。

だとするならば、ボウイとベルトルッチのそれぞれが、ある時期、チベット仏教にひかれたことを思い出しておくべきなのでしょう。とりわけ、輪廻転生で知られるチベット仏教にとって、死は不吉なものではなく、ただ別の生への始まりにほかなりません。

ボウイの歌で、宇宙に飛び出したトム少佐が見つめているのは、虚無なのですが、その虚無こそが、仏教的な始まりだと考えられるのかもしれません。じっさい、ボウイにとってこの宇宙の虚無を歌う奇妙な歌は、そのキャリアの始まりとなるわけです。

いっぽう、イタリア語の歌詞もまた、そんな虚無を歌っているように思えます。恋人に振られた少年が、その目の中で、天使が飛ばないことを繰り返すとき、飛ばないことそのものから、何かが生まれてくるようには感じられないでしょうか。

実際、この映画のロレンツォとオリヴィアは、この曲を抱き合って踊ったあとで、それぞれの人生に踏み出してゆきます。そのダンスはエロス・ダンスではありません。暗い地下室のタナトスとの、すなわち死とのダンスなのですが、それはその向こう側へと歩き出すためのものにほかならないのではないでしょうか。

追記 2022/4/23 

その部分の映像があったので貼っておきますね。

www.youtube.com

 

そんなボウイの歌う "Ragazzo solo, ragazza sola" 、映画では日本語字幕がきちんと訳してくれているのですが、ぼくなりに訳してみることにしました。ご笑覧。

www.youtube.com

ひとりぼっちくん ひとりぼっちさん

Ragazzo solo ragazza sola 

ぼくの頭が飛び立った
ただひとつだけの思い
残されたぼくは眠る街を歩いてる

La mia mente ha preso il volo*1
Un pensiero uno solo
Io cammino mentre dorme la città

夜にその瞳は
夜の白い灯火
ふと声がかけられる 誰だろう? 

I suoi occhi nella notte
Fanali bianchi nella notte
Una voce che mi parla chi sarà?

ひとりぼっちくん どこにゆくの
どうしてそんなに苦しいの?
愛する人を失くしたのだね
でもね 街は愛に溢れてる

Dimmi ragazzo solo dove vai
Perché tanto dolore?
Hai perduto senza dubbio un grande amore
Ma di amori è tutta piena la città

ひとりぼっちさん ちがうよ
今回はそっちが間違えてる
愛する人を失くしただけじゃない
昨夜は 一緒に 全て失ったんだ

No ragazza sola, no no no*2
Stavolta sei in errore
Non ho perso solamente un grande amore
Ieri sera ho perso tutto con lei

でもあの人の
色は生命の色
そして青い空の色
あんなひとには もうめぐりあえない けっして

Ma lei
I colori della vita
Dei cieli blu
Una come lei non la troverò mai più

ひとりぼっちくん これからどこにゆくの
夜の広い海を泳ぐなら
わたしが手を貸してあげてもいい
ありがとう でも今夜のぼくは死にたい気持ち

Ora ragazzo solo dove andrai
La notte è un grande mare
Se ti serve la mia mano per nuotare
Grazie ma stasera io vorrei morire

だってほら ぼくの目の中で
天使が 天使がいるのに
もう飛ばない もう飛ばない
もう飛ばない

Perché sai negli occhi miei
C'è un angelo, un angelo
Che ormai non vola più che ormai non vola più
Che ormai non vola più

それはあの人
その色は生命の色
青い空の色
あんなひとには もうめぐりあえない けっして

C'è lei
I colori della vita
Dei cieli blu
Una come lei non la troverò mai più

 

追記:

イタリアの同僚たちはこの歌のことを知らなかった。興味深かったのは、ボウイのイタリア語がすごく耳障りだという反応。英語のオリジナルは素敵なのに、イタリア語は全然だめだというのがおもしろい。ぼくまあ、オリジナル方がよいと思うけれど、ボウイのイタリア語は、それなりに味があると思ったけどね。
でも、そういえば、映画のなかでボウイの歌声には、オリヴィア/テアが言葉を重ねながら歌っているんだよね。彼女がボウイと合唱しているようでもある。だから、映画ではぜんぜん違和感がなかったのかもしれない。

実は同じ曲が映画のラストでも流れるのだけれど、こちらはオリジナルの Space Oddity で、はっきりとボウイの歌声が聞こえてくる。知っているから、ああ、オリジナルだと思うのだけど、この曲を初めて聞いたイタリア人の同僚たちは、イタリア語版とオリジナルが、同じ曲とは思えないと言っていた。
うん、そういうものかもしれないな。言語が変わると、同じ曲をうたっても、すっかり違う曲に聞こえてしまうんだ。

 

孤独な天使たち (字幕版)

孤独な天使たち (字幕版)

 

 

孤独な天使たち スペシャル・プライス [Blu-ray]

孤独な天使たち スペシャル・プライス [Blu-ray]

 
Ragazzo Solo, Ragazza Sola (2015 Remaster)

Ragazzo Solo, Ragazza Sola (2015 Remaster)

 

 

*1: "la mia mente" の訳が難しい。「ぼくの心」とやれば簡単なのだけど、mente は「心」ではなくてむしろ「頭」のなかの知的な活動のことを言う。prendere il volo はふつう飛行機に乗って飛び立つこと。もちろん抽象的に「飛び立つ」の意味でもよいのだけれど、具体的に「飛び立ったのは」、おそらく、「ぼく」が別れた彼女のことなのではないだろうか。この部分、最初は「頭の中の僕が飛行機に乗って飛び立った」とやたのだけど、見直して、少し直訳調に「ぼくの頭」とすることにした。mente とは結局の人が考えるときの頭のことなのだし、その「頭」が飛び立つというのは、なんだかクスリでもやっているような感じになる。そのようがボウイの歌詞らしいかもしれない。いずれにせよ、ここで「ぼく」は、別れた彼女のことですっかり「頭」がどうにかなってしまっているというわけ。もちろん、ここはボウイのトム少佐のことが連想されているのかもしれない。ロケットにのって宇宙に飛び出したトム少佐は、自分を振って飛行機に乗って飛び去った彼女に対応するのではないだろうか。

*2: この ragazza sola とは誰のことなのか?初めて会った相手ではない。おそらくはこの孤独な少年の知り合いで、彼女もまた孤独な少女なのだろう。けれども、ふたりの関係がこの歌だけではわからない。そこでベルトルッチが持ち出してきたのが、ロレンツォとオリヴィアという腹違いの姉弟なのだ。ふたりの間にはエロス的な関係はない。それでも、強い絆が生まれることになる。それはきっと、地球の管制官と宇宙のトム少佐のような、生命に関わる強い関係なのだ。そしてこの束の間の会話にどこか死の匂いが漂うところを、というのも、ここで話しかけてくる「ragazza sola」は、どうしても「死に神」のように思えるからだ。ところが、ベルトルッチは、この「死に神」を、もうひとりの孤独な少女として描き出す。そうすることで、死を追い払い、生への道を開こうとしたのだ。それこそが、このベルトルッチの遺作が文字通り残してくれたメッセージにほかならない。曰く、扉を開けて、現実の世界に出よ、そして生きよ、と。