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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

「あまちゃん」とウニの海の大いなるループ

生食 業務用 お寿司屋さん仕様の ムラサキウニ 大きさ無選別 [訳あり]

 
あまちゃん」もいよいよ来週で終わりだ!
 
もちろんそんなことはわかっていた。けれども「最終週」という文字を見た瞬間、わかっていたことを確認しただけなのに、なぜかぐっとこみ上げてくるものがある。
 
そうなのだ、「あまちゃん」は、わかっていることを再確認するドラマなのだ。なにしろ来週の「おらたち、熱いよね」で何が起るかなんてもはや自明のこと。それなのに期待が高まるのは、そこで何が起るかを知りたいからではない。何が起るかわかったうえで、「やっぱり、そうなんだよね」と言う機会をどれだけ持つことが出来るかに、ぼくたち「あまちゃん」ファンの期待は集まっているのである。それはほとんど、あの松尾スズキのようではないか。あの喫茶あいどるのマスターもまた、アイドルグループの女の子の誰かに熱をあげては、そのいつもながらのふるまいを確認するたびに、「熱いよね」と興奮していたではないか。
 
だから、「おらたち、いつでも夢を」の週の最終回のセリフで印象に残るのは、やはり春子(小泉今日子)の「またひとり飛べない鳥が北三陸に逃げていった!」だ。これは、まだコンサートで歌う準備ができたかどうか定かではない鈴鹿ひろ美が、何も言わずにさっさと北三陸に「前入り」していたことを知ったときのセリフなのだが、よく考えてみれば、それは水口のことでもあり、安部ちゃんのことでもあり、種市のことでもあるだけではない。「飛べない鳥」とは、なんといってもかつての春子自分自身のことであり、娘のアキのことにほかならないのだ。
 
こうして、「またひとり」「またひとり」と北三陸に集結してゆけば、「それを(再び)作ればヤツ(ら)が来る」はずの海女カフェでのコンサート、さらには復旧した三陸鉄道での「お座敷列車」へと物語が進んでゆくはずだ。「物語は登場人物がその先どうなるか見えたときに終えるべきだ」という言葉が正しいなら、この朝ドラはすでに終わっていてもおかしくない。それでもまだ最終週に期待が高まるのはなぜか。無頼寿司の大将はイージーライダーさながらの姿でウニ丼をかきこんで涙をみせ、忠兵衛(蟹江)も戻って来て鈴鹿ひろ美とウニ丼の取り合いをした。すでにGMTもやって来たし、今日は荒巻も顔を見せた。それでもまだ、、帰るべき人がまだ全員は帰っていない。もちろん、残るは春子と正宗(尾美としのり)というわけだ。
 
こうして、来週までには「あまちゃん」の主要な登場人物のすべてが再登場することになるのだろう。そしてぼくたちが「ああ、あの人も帰って来た」と言える人々のすべて見届け、そのすべての登場人物からいつものセリフが発せられるのを聞き届けるとき、この物語は「終わり」という振り出しに戻ることになる。
 
そんな「あまちゃん」の特徴を、映画評論家の町山さんは「伏線を拾いまくる」ところにあると言う。なるほどクドカンは、いたるところに「伏線」となるものを散種しては拾いまくっている。今や国民語となった「じぇじぇじぇ」という驚きの表現の執拗な反復からはじまり、「かっけー」や「おかめーなく」だけではない。冒頭で笑いを誘った「モータリゼーション」や「第三セクター」という言葉などは、あの地震津波の後で、車が津波に流されてしまった北三陸で、「第三セクターの意地をみせるべ」と繰り返されれば、まさに拍手ものだったではないか。
 
そして「アイドル」という言葉。それは足立ユイの「アイドルになりたい!」という一言から始まるだが、この言葉を発した当のユイだけを取り残し、その一方で天野家の夏ぱっぱ、春子、そして秋までが、3代続けて北三陸の「アイドル」であったことを明らかにしてゆく。そして今週、そんな「アイドル」をめざし、挫折し、諦め切れない足立ユイがとうとう復活した。まずは「腹黒い毒舌のユイ」として、そして来週いよいよ地元のアイドルとして、ぼくたちが彼女の姿をもう一度確認するとき、おそらくほとんどの伏線は拾われたことになる。
 
こうして「あまちゃん」というドラマは今まさにその全貌を現そうとしている。第1部の「故郷編」ではアキたちが海女カフェを立ち上げるところまでを描き出し、第2部「の東京編」でなんとかアイドルになるまでのアキを描き出した物語は、あの3/11という未曾有の災厄を経て、第1部の反復に向かう。それは散種された伏線を拾いきり、振り出しに戻ることを目指すドラマだったのだ。
 
もちろん、簡単に振り出しに戻ることはできない。海女カフェを再建して、ユイが再びアイドルを目指すというだけなら、アキがさかな君と出演していた劇中劇『捜して壊そう』の「逆回転」と同じではないか。それは、モノが壊れるところをスローモーションで撮影しておいて、それを逆再生することで、まるで壊れたモノが元に戻ったかのように見せかけるときの魔法の言葉。逆再生による「逆回転」は、もちろんそれは子供だましの魔法であり、海女カフェの再建と足立ユイの立ち直りは、ユイ本人が言うように「無理だよ、これは現実だから《逆回転》はできないよ」というのが実情なのである。
 
たしかに3/11は多くの人の命を奪ってしまった。地震津波に続く原発事故で広範な大地が汚染されてしまった。たしかに現実は「逆回転」なんて不可能なのだ。クドカンの脚本もまた、「あたりまえに昨日と同じ明日が来るわけじゃない」というセリフのように、そのことを十分にわきまえている。ドラマのなかでこそ誰一人亡くならなかったが、登場人物の口からは「亡くなった人もいるからね」という言葉が聞かれるし、漁を再開しても放射能汚染の「風評被害」があるからままならないという不平も盛り込まれている。子どもだましの魔法が通じないこともまた、ドラマのなかで何度も言及されているのである。
 
それでもクドカンの脚本は、クドいほどに伏線を拾いまくりながら、そんな「逆回転」をめざそうとしているかにみえる。たとえば子どもだましでもアキの「逆回転」にも子どもたちを笑顔にするような小さな「驚き」があったように、クドカンは、半年という長期にわたる朝ドラのなかで、なんとか「逆回転」のようなものができないかと、じっくりと準備してきたようにみえる。そしてそれは今、仕込んでおいた逆再生もすでに始まり、あと一週間ですべてが巻き戻されるところにまで来たというわけだ。
 
そうなのだ。クドカンの物語は、第1部の海女カフェができるまでの物語を「逆回転」させようとしているのだ。しかし、それはただの「逆回転」ではない。あの劇中劇の「逆回転」のように、小さな「驚き」とともに。そして、たんなる子どもだましではないような「驚き」がもたらされるように。
 
その「驚き」がどういうものになるのかは、実はクドカンの脚本にはすでに示されているのではないだろうか。あの夏ばっぱが、遠洋漁業に出かけた忠兵衛(蟹江敬三)の写真を仏壇に飾っていたことを思い出して欲しい。夏ばっぱは、夫の忠兵衛を死者として扱いながら、死者であるはずの忠兵衛が帰って来るなり、いそいそと仮の遺影をはずし、若い娘のように顔を紅潮させていたではないか。それは繰り返される忠兵衛の帰郷を、うんざりするのではなく、むしろ「紅潮」という小さな「驚き」をもって迎えるために、繰り返される儀式だったのではなかったか。そして、毎年その儀式を繰り返すことで、どれほど年月がたとうと、ふたりの絆はいつも再生されていたのではなかったか。
 
この夏ばっぱの儀式は、明らかに、故郷の村々で行われている毎年一度の「お盆」を反映している。それは、もはや帰ることのない死者たちの魂を、一度は迎えるためのハレの儀式だ。それは共同体に流れる時間をゆるやかにループさせ、分断された過去と現在を結びつける。時間がつねに現在から過去を分断してゆくものだとすれば、それにもかからわず、そこには密かな連続性が保たれていることを小さな「驚き」とともに確認するのがお盆なのだ。そしてその「驚き」とともに確認されるのが、今という時間のなかに流れ込んでくる過去なのである。それは、単なる物理的で直線的な時間を越える何ものかへの畏敬の念をもたらすことになる。そして、ぼくたちの故郷というものは、まさにそんな畏敬の念によってその共同性を保ってきたのである。
 
そんな故郷の村に対置されるのが東京という都会なのだろう。常に何ものかを目指すことが問われる都会だからこそ、アキはアイドルをめざし、種市先輩にしても板前をめざしていたのだ。そこでは「成長」こそが問題となる。そして、「成長」とは過去との決別にほかならない。「成長」のための時間は一直線に流れ、過去は切り離しながら、現在はひたすら未来へと向かう。しかし、ひたすら未来へと向かう都会的な時間が、あの災厄のような出来事で分断されてしまったときには、どうなってしまうのだろうか。途切れたつながりは途切れたまま、忘れられたものは忘れられたまま、去って行った人は去ったままにとどまってしまう。それが、「あたりまえに昨日と同じ明日が来るわけじゃない」という都会的な現実なのである。
 
そしてどうやら、今の東京は、あくまでもそんな現実を生きようとしているように見える。あくまでも「明日」のことを考え、「成長」にこだわり続けているようだ。なるほど、それもひとつの生き方なのだろう。たしかに、いつまでも「昨日」のことにこだわり、「失われた時を求めて」追放された楽園への思いに捕われてしまうなら、たしかにそこに「成長」はない。その口からはただ、ため息とともに「ああ、あのころはよかった」という言葉がもれる。それはまさに「逆回転」。そんな後ろ向きの人生でどうするんだという叱責が飛んで来ることになる。
 
しかし、である。ぼくたちは、あの災厄を経験してもなお、平然と「明日」だけを考え、「成長」に向かって進むことができるのだろうか。現実というのは、「あたりまえに昨日と同じ明日が来るわけじゃない」と開き直れるのだろうか。そして、なによりも、なぎ倒された家並みを見て、寸断された道路や鉄道を見て、家族に死者たち出した人々や、汚染された大地に留まる住民に、そんなセリフを口することが、はたしてできるだろうか。
 
だからこそ、われらがクドカンは、われらが天野アキに「成長なんてどうでもいい」と叫ばせたのだろう。そして彼女に、東京での「明日」と「成長」を捨てさせると、被災地となった北三陸に向かわせる。そして、後ろ向きにではなくやり方で、過去に向き合う術があることを示そうとするのだ。その脚本が伏線を拾いまくったのも、まさにそのためなのだろう。伏線を拾うということは、過去のなにかを反芻することだ。「反芻」と言ったのは、ただ過去を思い出したり、反復するだけではないからだ。伏線として拾われた過去は、物語の現在に流れ込みながら、笑いや涙や感動を誘い、それを「反芻」するものの滋養となってゆく。そこでは直線的な時間が歪み、過去は現在へと流れ込み、あらたな流れを生み出してゆくのである。
 
この「反芻」という営みがなければ、ぼくたちの過去の出来事はどこまでも過去にとどまり、やがて忘却の淵に落とされてしまう。けれども古今東西の芸術は、そんな忘却の淵にある過去を拾い上げなが、様々な物語を立ち上げて来た。だから芸術家とは放浪の僧侶に似ている。旅の道すがら、いかにもそれらしい場所にさしかかると、忘却の淵から聞こえてくるかすかな亡者たちの声に、耳を傾けるのだ。そもそもアキにもそんなところがあったではないか。北三陸は自分の故郷ではない。それはあくまでも母の故郷であり、そこを訪れたのは母親の気まぐれで連れてこられたのだ。そこで彼女は海に落とされる。あのウニたちのいる北三陸の海こそは、そうした亡者たちの声を聴く場所だったというわけだ。
 
ところでウニが何を食べているかご存知だろうか。ウニが食べるのは海藻やデトリタスだと言われている。デトリタスとは、「生物遺体や生物由来の物質の破片や微生物の遺体、あるいはそれらの排泄物を起源とする微細な有機物粒子のことであり、通常はその表面や内部に繁殖した微生物群集を伴う」ものだと言う(http://ja.wikipedia.org/wiki/デトリタス)。そうなのだ。ウニが食べるものは過去に生きものであったものが、その生を終え、その身体が分解されたものなのだ。デトリタスとは過去に生きたものの現在の姿なのだ。それをウニが食べることで、過去は現在を生きるものの命へと流れ込んでゆく。そんなウニの海における大いなるループを、ぼくは「あまちゃん」の物語が再現しているように思ってしまったのだが、どうだろうか。
 
おっと、少しばかり妄想がすぎたかもしれない。
 
いずれにせよぼくは、そんな妄想とともに来週からの最後週を大いに楽しみにしているのである。