雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

映画のリアルとイリュージョン

Bella Addormentata [Italian Edition]

 

 誰かがマルコ・ベロッキオの映画のことを「幻覚的なリアリズム」と読んで/呼んでいた。

 

 なるほど、そうかもしれない。でも、あれは幻覚なのだろうか。むしろ、ぼくにはとてもリアルなものに見えたのだけど、それを幻覚と言ってしまうのは、すこしばかりイージーな気がする。


 それにしてもリアルってなんだろう。考え直すのはリアルって言葉だ。

 

 イタリア語で考えて見ると、リアルという形容詞は「レアーレ 」(reale) だ。これは「レス・アーレ 」(res -ale)と分解できる。平たく言えばそれは「レス的なもの」ということ。ラテン語の「レス」〔res〕 は「もの」という意味。これはヴェーダ語の〔rayas〕やアヴェルター語の〔rayo〕にまで遡れることができる言葉であって、そこでは「財、富」という意味を持っていたらしい。

 

 どうやら「レス」とは、それによって僕らが生きるうえで、「財産」とか「富かさ」と考えられるような「もの」に由来するものらしいのだ。そして、そんな「レス」=「もの」に関わることが「レアーレ」。

 

 だからリアリティ(イタリア語ではレアルタ realtà)は、語源的に言えば、「どういう条件ならレス的であるのか」ということであり、どうすればぼくらは豊かに生きられるのかという意味で生きる条件のことを言っていることになり、そこから派生した動詞リアライズ(イタリア語ではレアリッツァーレ realizzare )は、そもそも、そうした条件を具体化することとして「実現する」であり、フランス語経由で英語に入ったとき少し意味が変わり、そうういう事態に「気がつく」ということになったらしい。

 

 こうしてぼくらは、レアーレなものを自覚して、そこから豊かに生きようとするのだけど、まさにその瞬間にあのイリュージョン、あるいは「幻覚」にとらえられてしまうことになる。

 

 イリュージョンは伊語で「イルジオーネ」(illusione)で、これは「誤った知覚、偽りの希望」という意味だけど、これは動詞 illudere (あざ笑う、だます)の過去分詞から派生したもの。そこからさらに遡れば ludere (遊ぶ)を経る。

 

 この動詞「遊ぶ」(ludere)は名詞「遊び」(ludo)に並列し、それは gioco/giuoco (遊び)に通じる。その語源のラテン語 iucus は「言葉の冗談」の意だが、元来は「儀礼における祝詞」のこと。この意味は古ウンブリア語 iuku (祈り)、サンスクリット語の yacati (懇願する)、ウェールズ語 iaith (言語)に連なる。

 こうしてレアーレに生きようとして、すなわち豊かに生きようとしたぼくらは、まさにそのための祈りのことばにとらえられてしまうと、なんとかふりほどこうとしながらも、ついにはレアーレとはほど遠い状態に宙吊りにされてしまうわけだ。それがイルジオーネ(偽りの希望に生きる状態)であり、そうした状態への自覚がデルジオーネ(失望)ということなのかもしれない。

 

 リアリズムは、そんなイルジオーネとデルジオーネをレアーレを媒介にして反復する。幻惑しておいて、すべてが幻惑であることを暴露するのだが、そのすべてを映画というイルジオーネ/デルジオーネの装置を通して「遊び」のなかにさらけ出すのが、映画なのかもしれない。

 

 追記:

 以上のようなことを、今日少し映画のクラスで話したのだけど、具体的な例としては、受講生のみなさんが見ていた『夜よ、こんにちは』のラストの、アルド・モーロ解放のイメージを挙げて説明した。

 ご存知のように、モーロ元首相は旅団に処刑されるのだが、そのモーロ演じるロベルト・ヘルリツカがローマに降り注ぐ朝日のなかを軽やかに歩くシーンは、どうかんがえても史実ではない。しかし、それは幻覚あるいはイルジオーネなのか、あやまった希望を信じさせる映像なのか、そう問われれば、ぼくは、とんでもない、まったく逆だと答えるだろう。

 イルジオーネを抱いていたのは、むしろ旅団のキアラ(マヤ・サンサ)のほうではないか。その誤った理想、イデオロギーあるいは、イルジオーネの果てに、露わになるのはデルジオーネではなく、むしろそうあったならどれほどよかっただろうと思わせる、あの軽やかなヘルリツカの闊歩するイメージ。

 あのとき、もし違うことをしていたら、どうなっていただろうというのは、たしかにファンタジアではあるけれども、イルジオーネではなく、むしろ、その具体的なファンタジアを糧にして、それによって明日にむかうための、ひとつの「レアーレなるもの」なのではないだろうか。

 そういう意味で、ベロッキオの作品は、つねに見えないもの、ありえないものを主題にしながらも、つねに「レアーレ」なもの、つまりぼくらの生を前に進めてくれる「なにものか」(レス res )をつかもうとしてきたのではないだろうか。

 そういう意味で、彼の映画は「幻覚的リアリズム」に見えながら、その実、リアリズムの徹底だといえるのかもしれない。

 今日は、そんな話をしてきたので、備忘のため、ここに記すことにする。

 

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