雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

加藤典洋『死に神に突き飛ばされる』

 3.11――死に神に突き飛ばされる
 読了。感動。よい本というのは、これってぼくが言いたかったことだよね、感じていたことだよねと思わせるものだけど、この本はずばりそれ。しかも、じぶんの思っていたことの向こう側まで突き抜けてくれた感じがする。

村上春樹の短編を読む』や『テクストから遠く離れて』では、小説の読み手として、そして地に足の着いた批評家としての確かな力を感じさせてくれ、『可能性としての戦後以後』で歴史を語らせてもすごいじゃないと思わせてくれた加藤典洋。その3・11論なのだから、買って来てその日のうちに読み終えてしまった。

死に神に突き飛ばされる」とは、自分たちの世代はもはや死神の対象ではないということ(筆者は '死に神' という表記だけど、ぼくは '死神' としておきます)。死神は自分たちの世代を突き飛ばして、未来の子どもたちのほうに向かっているではないか、そんな絶望的な表明。そしてぼくも、この言葉を胸に刻んでおこうと思う。なにせ死神につかまっても仕方のない歳なのだ。このごろは少しずつだけど、いつか死ぬんだろうなと思うし、そう思うことがそれほど怖くはなくなってきた(ような気がする)。けれども、もし死神が子どもにつかみかかっているところを見るなんてことがあれば、飛び上がってしまうと思う。想像するだけでぞっとする。それだけは勘弁してくれ、そう思ったからこそ、あの3月15日、管首相がテレビで国民に向かって話し始めた時、子どもたちの春休みを前倒しさせると、すぐに東京を離れて岡山の実家に帰ったのだ。あのときのぼくも、きっと死神が子どもたちに襲いかかるのが怖かったのだと思う。家族を持つということは、そういうことなのだろう。加えて、常々原発はダメだと口にしておきながら、なにもせずにいた自分と、自分たちの世代にも、今回のことには責任があると感じざるをえない。自分にも責任があると感じるところから始めなければ、なにも始まらないのだ。しかしである。いざというときは「ごめんなさい」と謝って、命を差し出すくらいの覚悟があったとしても、死神から「そんなものはいらんから、おまえの子どもたちをよこせ、おまえたちの未来をよこせ」と言われて突き飛ばされたとしたら、どれほど絶望的か。そんな絶望感にかき立てられたのが、この本なのだ。

 興味深かったのは、アトムが原爆の死者たちの「祈念」を、ゴジラはやはり死者たちの「怨念」を体現しているというところ。アトムの「祈念」というのは、原爆を落とした罪が未だ告発されず、当然、断罪も謝罪もない状態で、広島・長崎の死者たちと生き残りの人々が、その見捨てられて状況のなかで、せめて核エネルギーが平和利用されることを祈るほかないという意味。だってアトムは、原子力の平和利用の象徴なのだから。一方のゴジラはわかりやすい。南の島からやって来るのは、例の第五福竜丸があったからだけれど、そこは太平洋戦争で多くの戦死者の霊が眠る場所でもある。ゴジラは、そんな場所にたまる「怨念」のかたまりというわけだ。そのアトムとゴジラ、つまり「祈念」と「怨念」を、著者は対話させようとする。その架空の対話が記されたページ、思わず息をのんでしまった、ほんとに。

 じつは、3・11の直後、ぼくはイタリアのラジオのインタビューで、そのゴジラとアトムの話をしていたのだ。そこに日本人の心情が現れているとも話していた。それにしても祈念と怨念とは!著者の説得力ある議論に納得。ウィキペディアゴジラフリークと書かれていた加藤だけど、「さよならゴジラたちー戦後から遠く離れてー」もぜひ読んでみたいぞ。

 全体として、この人の特徴である地に足の着いた議論が続く。他人の意見にバランスよく耳を傾けながら、決して感情的にならず、最後には自分の感覚に忠実であろうとする著者の態度に好感。議論の圧巻は、やはり核燃料サイクルの意味を問いただすところだろう。それが核保有への公然たる道であり、佐藤栄作非核三原則の背後で、日本は平和利用という隠れ蓑のなかで、しっかり核の技術的保有を進めて来たのであり、それは「技術抑止」というタームで説明されるような、外交戦略上、公然の政策であったという指摘は、ぼくも声を大にして繰り返したい。あなたも声を大にして繰り返してください。これは、クラス全員で復唱すべき指摘だと思う。

 もちろん、この指摘は著者がひとりですっぱ抜いたものではない。すでに調べた人がいたのだ。そんなこと少し調べりゃ分かるだろうに、誰も口にしないでここまできたのは、みんな無能だったからか、あるいはみんなが共犯者だったから、ああ、なんで自分で調べなかったのだろう。そんな著者の嘆き声が聞こえてきそうな文章に、おもわず感情移入。核武装を公然と口にした石原さんは、たしかに本人自覚のとおり「暴走老人」だけど、あの言葉に誰もが黙り込んだところを見ると、黙り込んだメディアのあいだでは公然の秘密だったのね。

 そんなメディア批判の章を、著者は長くなるからとカットしておいて、あとで註のなかに復活させている。なんだか、複雑な事情があるのだろうけれど、複雑な事情があることを刻み込んでいるのだから、ご愛嬌だ。もはや大手のメディアはダメだなのかもしれない。そんなふうに著者同様に思ったから、ぼくもあれ以来新聞とるのをやめてしまった。ネットの世界のほうがずっとましだという著者には、ほんとうに実感から同意する。もちろん新聞はなくならないと思うし、なくなっちゃならないと思う。けどそれは、もっと規模の小さな、小回りのきく、政官学財の複合体の外で自立した新聞。なんといっても顔の見えるような、署名記事がきちんと書けるような記者がいる新聞。そんな新聞でないなら、きっとぼくは買わないと思う。