雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

『海と大陸』再訪

海と大陸 [DVD]

 

先日、早稲田大学で「映画で開くイタリア」と題して90分話してきた。最初は漠然とイタリア映画とその背後にある歴史や文化の話をしようと思っていた。リソルジメントとかレジスタンスとか、言葉を学ぶ学生たちが知っておいた方がよい話題を、あれやこれやの映画のなかから話してみようと考えていたのだ。

ところがどうも、このところの「イワシ運動」が気になってしかたがない。調べているうちに、ふと『海と大陸』(2011年)のあの名シーンを思い出した。そのシーンについては、2014年に『Musica Vita Italia vol.4』( p.82-83) に書いたことがある。難民たちの姿、政治への不信、そして今のイワシ運動と、すっとつながったように思えたのだ。

そこで今回は、昔書いた記事に少し訂正を加えて再録させていただこうと思う。ちなみに、このフランス版の予告編では、劇中で流れる音楽とともに、そのシーンが使われている。

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では、以下にかつてのコラムを再録します。ご笑覧

 

イタリア映画の備忘録(4)

『海と大陸 TERRAFERMA』(2011年/伊仏合作)

 

 青い空と青い海。ふたつの青のあいだに浮かぶ小船からは、たくさんの人間が宙に溢れ出し、白い飛沫をあげながら暗い海へ吸い込まれてゆく。一見リアルだが、よく見ればシュール。どこかで見たことがあると思わせるものの、よく見れば何かが違う。どこか変なのだ。

 そんな『海と大陸』のイタリア版ポスターを見たとき、ぼくは難民ボートを思い出していた。ベルリンの壁が崩壊し、ヨーロッパ共同体が立ち上がってこのかた、イタリアでは地中海を越えてやって来る難民が増加してきた。今やニュースや新聞が彼らのことを伝えない日はない。つい先日もランペドゥーサ島沖で500人もの難民を乗せた船の火災沈没事故が報じられたばかりではないか。

 しかしである。『海と大陸』のポスターは、ニュース映像で見慣れたあの難民ボートを思わせながら、よくできた騙し絵のように、似て非なるものをとらえている。海に飛び込んでゆく人々の姿は、よく見ると妙に垢抜けしていて、難民のようでありながら明らかに違う何ものかの姿なのだ。

 そもそもこの映画、そのオープニングから騙し絵のようだ。真っ黒なスクリーンの中央に、まるで暗闇の海の水平線に見える遠い灯りのように浮かび上がるのは、作品タイトル TERRAFERMA 。文字通り訳せば"動かない大地 terra-ferma"だが、それはまるで、波に揺られ続けた旅人が、ようやく目にすることのできた"陸地 terraferma"のようも見える。そんなタイトル文字が闇に消えれば、次の瞬間、カメラは水中にあって、どこまでも広がる空のような海面を見上げている。かすかな陽光にゆらめく波は雲のようだ。その雲=波を切り裂くように現れた船影が、くごもった音とともに何かを投げ入れながら進み、やがて頭上を通り過ぎたころ、カメラの前には投げ込まれた漁網がゆっくりと広がってゆく。それはまるで、視線の主を閉じ込めようとするかのように、スクリーンを覆いつくしてゆく。

 一転、カモメが飛び交う海。カメラはそこに、漁網を引き上げる主人公のフィリッポ(フィリッポ・プチッロ)の姿をとらえる。祖父の漁師エルネスト(ミンモ・クティッキォ)の仕事を手伝っているのだが、その父は3年前に亡くなっておりやはり漁師であったという。だとすれば、あの水中の視線は主は亡き父のものだったのだろうか。

 そんなことを思わせながら、この物語は島の漁業が立ち行かない状態であることを描き出してゆく。水揚げされる魚は微々たるもので、フィリッポの叔父ニーノ(ジュゼッペ・フィオレッロ)などは、多くの漁民と同じように、観光業に転身していた。魚が獲れなくなっても、島の美しく透き通った海は、イタリア本土から大勢のヴァカンス客を引き寄せてくれるというわけだ。

 フィリッポの母ジュリエッタ(ドナテッラ・フィノッキアーロ)もまた、自宅をペンションに改装して観光客に貸し出そうとしていた。未亡人となった彼女は今、島の暮らしに見切りをつけるつもりなのだ。うまく夏の間に少しでも稼ぐことができたなら、亡き夫の漁船も売り払って、息子の将来のために、この島を出よう。そう考えていたのである。

 ある日のこと。漁に出たエルネストとフィリッポは、沖合でアフリカからの難民船に遭遇する。助けを求めて海に飛び込んだ何人かを救助するが、島まで連れてくると男たちは逃げ去ってしまう。残されたのは身重の女サラ(ティムニット.T)とその息子だけ。そんな親子を老エルネストは自宅にかくまうことにする。海で救った命を歓待するのが習わしなのだ。たとえそれが不法入国の幇助で、違法行為と咎められようと、昔ながらの漁師ならば、古くからの掟を優先させるというわけだ。

 しかし、時はすでに夏。ヴァカンス・シーズンはもう始まっていた。昼間のビーチは観光客にあふれ、フィリッポもまた、賑わいを見せる叔父ニーノの店の手伝いに駆り出されることになる。その店で、ひとりの観光客がこうたずねてきた。「犯罪者たちが上陸したって本当なんですかね」。「犯罪者たち」とは、もちろんエルネストとフィリッポが助けた難民のこと。しかし、難民の存在は、ニーノにとって不都合きわまりない。「死にぞこないの犯罪者たちが目に入ると観光客が嫌がる」からだ。ニーノはこの観光客に答える。「なにをバカなこと言っているのですか」。そしてすぐにマイクを握ると、「犯罪者たち」のことなど忘れて欲しいとばかり、ビーチのヴァカンス客たちに呼びかける。「さあ楽しい島巡りのクルーズが出発しますよ」。

 こうして、あの小舟が青く透き通る海を進んでゆく。甲板には水着の男女がひしめきあい、サンバのリズムにあわせて身体をくねらせている。ダンスをリードするのは船首に立ったニーノ。そこにはフィリッポと、その母のペンションに泊まる若者たちの姿も見える。しかし、この夏のヴァカンスらしい陽気なシーンには、あのポスターのような現実からずれてゆくところがある。そんなシュールな感覚へと誘うものこそ、このシーンで使われている『Maracaibo』という曲なのだ。それはイタリアでは誰もが知る1980年の大ヒット曲(歌うのはル・コロンボ)。しかし、陽気なリズムとはうらはらに、その歌詞は衝撃的だ。

 歌の始まりはこんなストーリーだ。カリブ海にのぞむベネズエラの町マラカイボ。そこにザザという美しい女がいた。バラクーダという酒場でヌードダンサーをしていたが、その正体はキューバを相手にピストルやマシンガンを売りさばく武器商人なのだ。そんなザザの恋人の名はフィデル(歌詞ではムゲルだが、これは当時のレコード会社の要請で書き換えられたもの)。キューバフィデルといえば、もちろんあのフィデル・カストロのこと。ところがこの革命家は、朝から晩まで山に籠りっぱなし(もちろん革命軍の訓練で大忙しなのだ)。寂しくなったザザ、ついペドロという若者と浮気してしまう…。

 ポスターに描かれたシーンで用いられるのは、この歌の後半部分。そこで武器商人のザザは、ニトロのつまった箱の上で浮気しているところを、山から帰ったフィデルに見つかってしまう。逆上したフィデルに拳銃で撃たれるのだが、かろうじて難を逃れると、小さなヨットでカリブの海へと逃げ出してゆく。あのヴァカンス客を満載したクルーザーのシーンで、それはこんなふうに歌われている。

 

Maracaibo (マラカイボ)
mare forza nove (海は大荒れ)
fuggire sì ma dove, Zaza. (逃げ出すザザ、でも何処へ?) 

L'albero spezzato una pinna nera (マストは折れ、現れる黒い背ビレ)
nella notte scura come una bandiera (夜の闇で、どこかの国旗のよう)
morde il pescecane nella pelle bruna (褐色の肌に噛みつくサメ)
una zanna bianca come la luna.(月のような白い牙を見せて)

 

 おわかりだろうか。穏やかで青く輝く海のシーンだが、歌詞のほうでは「暗い夜 nella notte scura」の「大荒れの海 mare forza nove *1 」だ。しかも、スクリーンの平和な島巡りのシーンとはうらはらに、歌詞には恐ろしいサメが登場し、船にのった褐色の肌に、その「白い牙 una zanna bianca」でかみつこうとするのだ。それは、まるで闇夜の「月のように come la luna」のように、不気味に白光りしているというわけだ。

 この最後の言葉が絶叫へと高まってゆくなか、ニーノのクルーザーで踊る男女たちは、次々と海へとダイブしてゆく。しかもそれは、スローモーションによって弛緩した時間のなかでのシュールなダイブだ。しかし、次の瞬間ぼくたちはまたしても海中にいて水面を見上げている。カメラがとらえるのは黒い船影とその回りで点々と広がる白い気泡。そしてあの"マラカイボ"の絶叫が、ゆっくりとフェードアウトしてゆくのだ。

 それにしても、地中海に飛び込む者たちを海の底から見上げていたのは誰だったのか。そしてまた、物語の最後にして突然に、狂おしく波を切る漁船を空の彼方から見下ろす視線が登場するのだが、それは果たして誰のものなのか。そんな謎に答えることこそは、この見事な寓話を見終わった者ひとりひとりに与えられた永遠の課題なのかもしれない。少なくとも、ぼくはそう思う。

 

授業ではラファエッラ・カラーだと言ったとおもうけど、正しくはル・コロンボ(Maria Luisa Colombo 1952-)。彼女が歌う『マラカイボ』はこれだ。

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ちなみにラッファエッラ・カッラも歌っている(踊っているだけかも)。

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海と大陸(字幕版)

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*1: mare forza 9 は海況の「風浪階級」で9度は最大

ルーチョ・ダッラ『Come è profondo il mare』訳してみた

Come E Profondo Il Mare Legacy Edition [Analog]

 

この歌は前から知っていた。一度聞いたら耳にこびりつくベースライン。ダッラの独特でここちよい歌声、軽やかなイタリア語の響き。

けれども、その意味を考えたことがなかった。なんだか海が深いとか歌ってるなと思ってはいたけれど、きっかけがなかったのだ。

ところが、このところイタリアから急速に広がっている「イワシ運動」のことを追いかけているうちに、この歌が運動のテーマソングのひとつになっていることを知った。なるほど、後半部分の「魚たち」の部分は、「イワシ」のコンセプトにぴったりではないか。

よくわからないところもあるけれど、ともかく歌詞を日本語においてみた。それからこのビデオも発見。なかなか歌詞の意味に沿った、みごとな映像を見ることができる

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 では以下、拙訳です。

ご笑覧。 

Siamo noi, siamo in tanti

Ci nascondiamo di notte

Per paura degli automobilisti

Dei linotipisti

Siamo i gatti neri

Siamo i pessimisti

Siamo i cattivi pensieri

E non abbiamo da mangiare

Com’è profondo il mare

Com’è profondo il mare

 

Babbo, che eri un gran cacciatore

Di quaglie e di fagiani

Caccia via queste mosche

Che non mi fanno dormire

Che mi fanno arrabbiare

Com’è profondo il mare

Com’è profondo il mare

ぼくらは、おおぜいで

夜に隠れている

ドライバーが怖くて

ライノタイピストも怖いから

ぼくらは黒猫

ぼくらはペシミスト

ぼくらは悪い思考

それに食べ物がない

なんて海は深いんだろう

なんて海は深いんだろう

 

とうちゃん、立派な漁師だったよな

ウズラやキジを狩ってたのだから

このハエを追い払ってくれないか

ぼくを寝かせてくれやしない

腹が立ってしかたがない

なんて海は深いんだろう

なんて海は深いんだろう

E’ inutile

Non c’è più lavoro

Non c’è più decoro

Dio o chi per lui

Sta cercando di dividerci

Di farci del male

Di farci annegare

Com’è profondo il mare

Com’è profondo il mare

 

Con la forza di un ricatto

L’uomo diventò qualcuno

Resuscitò anche i morti

Spalancò prigioni

Bloccò sei treni

Con relativi vagoni

Innalzò per un attimo il povero

Ad un ruolo difficile da mantenere

Poi lo lasciò cadere

A piangere e a urlare

Solo in mezzo al mare

Com’è profondo il mare

無駄だよ

仕事はない

品位もない

神が、あるいは神を信じる者が

ぼくら分断しようとしている

ぼくらに悪さしようとしている

ぼくらを窒息させようとしている

なんて海は深いんだろう

なんて海は深いんだろう

 

力づくでゆすりたおして

そいつは男になった

死者たちも蘇らせた

監獄も解放した

列車を6両ブロックした

それぞれの客車もいっしょに

貧乏をしばし持ち上げたけど

それは耐えられない役割だったから

諦めさせれたのだが

貧乏は泣くわ叫ぶわで

海の只中をただひとり

なんて海は深いんだろう

Poi da solo l’urlo

Diventò un tamburo

E il povero come un lampo

Nel cielo sicuro

Cominciò una guerra

Per conquistare

Quello scherzo di terra

Che il suo grande cuore

Doveva coltivare

Com’è profondo il mare

Com’è profondo il mare

 

Ma la terra

Gli fu portata via

Compresa quella rimasta addosso

Fu scaraventato

In un palazzo, in un fosso

Non ricordo bene

Poi una storia di catene

Bastonate

E chirurgia sperimentale

Com’è profondo il mare

Com’è profondo il mare

やがて叫びだけが

太鼓になった

貧乏は暗い空の

ひとつの光のように

戦争を始めた

征服しようとしたのは

あのわずかばかりの土地

貧乏はその大きな心で

耕さなければならなかったから

なんて海は深いんだろう

なんて海は深いんだろう

 

でもその土地は

奪い去られてしまった

背負っているものも含めて

吹き飛ばされた貧乏は

どこかの建物へ、どこかの溝へと

よくは覚えてないけど

それからの物語は 鎖につながれ

棍棒でなぐられ

あげく外科手術の実験台

なんて海は深いんだろう

なんて海は深いんだろう

Intanto un mistico

Forse un’aviatore

Inventò la commozione

E rimise d’accordo tutti

I belli con i brutti

Con qualche danno per i brutti

Che si videro consegnare

Un pezzo di specchio

Così da potersi guardare

Com’è profondo il mare

Com’è profondo il mare

 

Frattanto i pesci

Dai quali discendiamo tutti

Assistettero curiosi

Al dramma collettivo

Di questo mondo

Che a loro indubbiamente

Doveva sembrar cattivo

E cominciarono a pensare

Nel loro grande mare

Com’è profondo il mare

Nel loro grande mare

Com’è profondo il mare

その間、どこかの神秘主義者か

もしかすると飛行士が

人々を熱狂させると

みんなを説得してしまう

美しい人々と醜い人々が一緒になるち

醜い人々はちょっとショックを受ける

なにしろ手渡された

ちいさな鏡で

自分の姿をみるはめになったから

なんて海は深いんだ

なんて海は深いんだ

 

その間サカナたちは

ぼくらみんなその子孫なのだけど

興味深げに

集合的なドラマを眺めている

ドラマの世界は

彼らのとって疑いなく

悪しき世界に見えたはず

そして魚たちは考え始めた

じぶんたちの大きな海のなか

なんて海は深いのだろう

じぶんたちの大きな海のなか

なんて海は深いのだろう

E’ chiaro

Che il pensiero dà fastidio

Anche se chi pensa

E’ muto come un pesce

Anzi un pesce

E come pesce è difficile da bloccare

Perché lo protegge il mare

Com’è profondo il mare

 

Certo

Chi comanda

Non è disposto a fare distinzioni poetiche

Il pensiero come l’oceano

Non lo puoi bloccare

Non lo puoi recintare

Così stanno bruciando il mare

Così stanno uccidendo il mare

Così stanno umiliando il mare

Così stanno piegando il mare

明らかなのさ

考えることは誰かを煩わしがらせる

たとえ考える者が静かな魚のようでも

いやむしろ魚なのだ

魚だから

取り押さえることが難しい

海に守られているから

なんて海は深いのだろう

 

もちろん

命令する者が

詩的な区別をすることはない

考えることは海のようなもの

止められやしない

囲い込めやしない

だから海が焼かれている

だから海が殺されている

だから海が辱められている

だから海が跪かされている

 

 

 

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パゾリーニ「俗世の詩、1962年6月21日」を訳してみた

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のんびりした日曜日、風呂から上がってさあ寝ようというとき、FBの投稿でふと目に飛び込んできたパゾリーニの詩。冒頭の「1日中修道士のように働いて、夜は野良猫のように彷徨って愛をもとめる」という部分にハッとしてしまう。

ここにはパゾリーニその人がいる、そう思ったのだ。それから続く文を読み出せば、どんどん時間が過ぎてゆく。面白いからではない。謎めいたフレーズが続くものだから、その意味をつかもうともがいているうちに、寝る時間がどんどん遠いていったのだ。

それでも、その夜のうちになんとか日本語に落とし込んだのだが、翌日も気になってしかたがない。イタリア人の同僚に助けを求めたり、ネットや手元にあった本を調べてゆくと、少しずつ詩行の意味が立ち上がって来た。

どうやらぼくが惹きつけられたのは、1964年にガルザンティ社から出版された詩集『バラのかたちをした詩』(Poesia in forma di rosa) のなかの「俗世の詩」(Poesie mondane )の一節だった。「 俗世の詩」は、それぞれに日記のように日付が記された一群の自由詩のこと。

そんな詩群の最後にあるのが「1962年6月21日」だ。そこでパゾリーニは自らの詩や文学についての考え方、そして自らの眼差しの向け方、そして自らの理念のありかたを披露してくれているようなのだ。大袈裟に言えば、ほんの数行のうちにパゾリーニの政治と文学についての考え方と、人生の生き方そのものが、閉じ込めらているとまで言われているではないか。*1

 そんな詩は、ぼくには一見、散文のように見えた。しかし、最初に目にしたものは、改行を省略して投稿されたものだった。だから散文に見えたというのもある。それでも詩にとって、改行とは言葉とおなじくらい大切なもの。じっさい手元にあった詩集を開き、そこに印刷された詩行を確認してみると、実にたくみに改行されている。

 

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(Pier Paolo Pasolini, Poesie, 2001, Garzanti)
そんな改行にあわせて、ぼくは自分の訳文を改行してみた。するとどうだろう。しだいにパゾリーニの詩のリズム感がつかめてくるではないか。

 改行することで、リズムが生まれ、そこに詩が立ち上がってくる驚き。ああなるほど、そういうとか。そんな思いを読書の師匠である鈴木さんに伝えると、俳句にも「多行式俳句」なるものがあって、たとえば髙柳重信の「身をそらす虹の/絶巓(ぜってん)/処刑台」や「船焼き捨てし/船長は/泳ぐかな」などがあると教えてもらった。

そんな改行の力だけではない。パゾリーニのこの詩の場合には、詩行の一文一文が、読みの角度が少し変わると、まるで万華鏡のように意味を変えてゆくのもまた魅力なのだ。

たとえば「リンチに従事する者たち」(gli addetti al linciaggio)という表現。それはおそらく、パゾリーニ自身に対する「私刑」に関わった者たちのことなのだろう。具体的にはわからないが、すくなくともパゾリーニの人生は、故郷を追われた時からスキャンダルに満ちている。本人ただ「愛を求めた」にすぎないのだろうけれど、それは「私刑」の対象になってきた。ところがパゾリーニ本人は、このリンチ=私刑に関わる者たちを凝視する「目は、どこかのイメージの目」(con l'occhio / d'un immagine)なのだ。

これはつまり、パゾリーニはそこでリンチを受けながらも、それらをどこか別のところにあるイメージの目によって、それも単数の目(l'occhio)で見つめているということなのだろうか。じつに不思議な感覚を伝えるこの目は、どこかあの「末期の目」(@芥川龍之介)と交感するものがある。

そして最後の一文がまたすごい。「受け身でいる」(passivo)でいるのはパゾリーニ自身なのだろう。その彼は、自らに起こる苦悩を受けとりながら(ここで思い出すべきはもちろんキリストの受苦 passione di Cristo) 、そのすべての上を「飛びながら、すべてを見る小鳥」(un uccellino che vede / tutto, volando)に、その様子を例えるている。

こときわたしたちは、飛んでいるのが小鳥なのか、それともパゾリーニなのか、それとももしかすると、わたしたち自身なのか、一瞬分からなくなってしまう。少なくともぼくは、自分がその小鳥=パゾリーニとして空を飛んでいるところを想像してしまった。そのとき、「胸に抱えて、空を飛ぶ良心」(si porta in cuore / nel volo in cielo la coscienza )へと、パゾリーニの詩行は改行によって注意を向ける。そして、この「良心」あるいは「意識」(coscienza)には、「容赦することがない」(che non perdona)という関係節が続く。

この「良心が、容赦しない」(la coscienza / che non perdona)とはどういうことなのか。辞書をひもとおいて動詞 perdonare を見てみれば、ふだんは多動詞である「許す」という意味のほかに、自動詞の用法が飛び込んでくる。主に否定形で「命を救う、容赦する」の意味で使われるとかり、「死は誰にも免れられない La morte non perdona a nessuno」や「それは不治の病だ È la malattia che non perdona』、さらには「付け入る隙を与えない部隊 la squadra che non perdona」などの例文が挙げられている。ならばパゾリーニの小鳥がその胸に抱える「良心」(coscienza)とは、必ず訪れる「死」や不治の「病」や常勝の「部隊」のように、誰をも逃さず、許さず、反撃の機会を与えずに常に打ちのめす、そんな激烈な「良心」なのだろうか。

そんな最後の一文の激しさに駆られ、日本語にしてみたものを以下に挙げておくことにする。とてもパゾリーニの詩文には届かないけれど、今の僕なりの理解のためにやってみることにした。おそらく、まだまだ直せるところもあるだろうし、誤解しているところもあるだろう。

でもまあ、拙訳を引き出しにしまっておくよりはましかもしれない。もしかすると誰かの役にたつかもしれない、厚かましくもそう思いながら…

ではご笑覧。
 

1962年6月21日

昼間はずっと修道士のように働き

夜には野良猫のように愛を求めて

彷徨う…  教皇庁に請願して

いつか聖人にしてもらおう。

なにしろ事実を曲げる欺瞞には

穏便に応じるのだ。リンチに従事する者たちを

見つめるのはどこかのイメージの目だ。

自分自身が抹殺されるところは、科学者の

冷静な勇気をもって観察する。憎しみを

抱いているように見えても、詩を書くとき

その言葉はふさわしい愛に満ちている。

不誠実を、なにか運命的な現象としてまるで

自分はその対象ではないかのように研究する。

若いファシストたちを哀れに思い、

年配の連中のことは、悪のとりうる

最も恐ろしいかたちとみなして、

ただ理性の暴力だけで立ち向かおう。

小鳥のように受け身でいて、飛びながら

すべてを目にしはするけれど、

空の上まで心に抱いてきた良心は

容赦することがない。

21 giugno 1962

Lavoro tutto il giorno come un monaco

e la notte in giro, come un gattaccio

in cerca d'amore... Farò proposta

alla Curia d'esser fatto santo.

Rispondo infatti alla mistificazione

con la mitezza. Guardo con l’occhio

d’un'immagine gli addetti al linciaggio.

Osservo me stesso massacrato col sereno

coraggio d'uno scienziato. Sembro

provare odio, e invece scrivo

dei versi pieni di puntuale amore.

Studio la perfidia come un fenomeno

fatale, quasi non ne fossi oggetto.

Ho pietà per i giovani fascisti,

e ai vecchi, che considero forme

del più orribile male, oppongo

solo la violenza della ragione.

Passivo come un uccello che vede

tutto, volando, e si porta in cuore

nel volo in cielo la coscienza

che non perdona.

 

 四方田さんの力作にも当たってみたけれど、残念ながらこの詩群「Poesie mondane」は訳出されていなかった。

パゾリーニ詩集

パゾリーニ詩集

 

『バラの形をした詩』の2015年版。ちょっと欲しくなってきた。

Poesia in forma di rosa

Poesia in forma di rosa

  • 作者:P. Paolo Pasolini
  • 出版社/メーカー: Garzanti Libri
  • 発売日: 2015/05/01
  • メディア: ペーパーバック