憲法記念日の今日、朝からカフカの『審判』に出てくる寓話、「法の前にて」について考えた。
ポイントは3つ。
1つは、その門が開いてるということ。空いている門に入れないのはそこに門番がいて「今は入れない」という。田舎から来た男はそれを信じて入れる時を待つのだが、「今」は永遠に続くかのようだ。
2つめ。田舎から来た男は、ついにその一生を門の前で待ってすごすのだが、いよいよその最期のときが近くなか、門の向こうにふと光を見る。そして門番にこうたずねるのだ。「この長い年月のあいだ、どうしてわたしのほかにだれも、中に入れてくださいと言ってこなかったのです?」
門番の答えはこうだ。「ここにはほかの誰も入れない。この入口はおまえのためだけにできていたのだからな」。しかし、その入口を通ることのできる「今」は、ついに訪れることがない。
3つめ。結局この田舎から来た男は、門番が最後にこう言うのを聞くことになる。「さあ、もうおれは行くことにする。門を閉めるぞ」。こうして男は、ついに門のなかに入ることがない。開け放しになった門とは法のことだが、男のためだけにできていたその法の門は、最後に閉じられることになる。
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カッチャーリとデリダは、このカフカの寓話をこう解釈する。田舎からやって来た男を門前で釘付けにしてしまった法の力の秘密はほかでもない門がすでに開いているという点にあるという。《何ものも守らない門番によって守られ、開いたままになっている門、それも無に向かって開いたままになっている門によって守られて、守るともなくみずからを守っている》点にこそ法の力の秘密はあるというわけだ。
さすがに、するどい指摘だ。法の門は開いている。ところが開いていることで法の門には入場できない。閉ざされているのなら、鍵を探し出して開く希望がある。しかし開かれたには、門を開く希望がない。
カフカの門は、ぼくらが生きる時代が「法の極端にして乗り越え不可能な形式が意味をともなわないで効力を維持している状態にある」という寓話なのかもしれない。しかし、カフカの寓話にそうした時代認識を剔抉するに終わるものではない。そんな指摘をするのがヨーロッパ思想界の鬼っ子、アガンベンだ。
アガンベンは、カッチャーリもデリダも問わなかった3つ目のポイントの解釈に挑む。すなわち、ほかでもない門番の「門を閉めるぞ」という言葉だ。難しい議論を省くなら、カフカが描いた田舎の男は、その一生をかけて門番に門を閉めさせることに成功したのではないだろうか、というのである。門が閉まるなら、門を開く可能性が開かれる。それはロバにのって到来するキリストであり、閉められた門こそは、逆説的に、救世主のイエルサレムへの入城を助ける。
カフカの寓話「法の前に」は、一方で法の〈開いている門〉の効力を説く。それは、すでに開かれてあることで、ぼくたちはそのなかに入ることができないし、たとえ入ろうとしても、その前に一生とどめおかれるものだ。
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法とはイタリア語でいえば “legge” だが、これは “leggere” 「読む」に通じる。「読む」とは「書記システムを解釈し言葉やフレーズを解読すること」だが、その本来の意味は「集める」(cogliere)あるいは「選ぶ」(scegliere)であったという。
法の門とは、したがって、言葉やフレーズが書き込まれた書物のことでもある。そして、書物(あるいは聖書)は、いつの間にかぼくたちの生を深いところで捕らえて召喚し、自由な動きを禁止すると、どこでもない場所に追放する。それがおそらくは法の門前なのだ。
ぼくたちは、言葉を集めたり(cogliere)、言葉を選んだりする(scegliere)なかで、自分から主体的に言葉を読んでいる leggere と思ってきた。しかし、「読む」という営みのなかでぼくらは、いつのまにか「読むこと」のなかへ召喚され、そこに拘束されてゆく。それが「法」(legge)というものなのだろう。
ようするに、ぼくらはいま、いかなるときも法を前にしている。いや、前にするというよりは、法はいつのまにか、ぼくらの生きる営みそのものになってしまったのだ。カフカの寓話は、法そのものになってしまった生の営みを、今一度、法から救い出して、その前に立たせようとする。
法の前にたつとき、ぼくたちははじめて、法の門がぼくたち一人一人のために開いている姿を見ることができる。その中に入ることもできず、それでも立ち去ることなく、その前に一生たたずむことができれば、それが自分だけのものであることに気づくことができるのだ。しかし、ほとんど誰もがそれぞれに法の前に立たされながらも、そのことに気づくことは稀だ。ほかのすべてを読む leggere ことができるとき、読むことだけは読むことができない。「読み/法」(legge)だけは、どこまでも「読むこと」(leggere)から隠されているのだ。
「法」(legge) とはまさに、いつでも読めるように開かれながら、だれにたしても読むことを阻むような形で、その門を開いているのである。開かれることによって法がその力のありかを隠し持つのならば、その門が閉ざされるとき、その力の在処は暴かれ、その効能を失うことになるだろうか。そうだとすれば、それはいったいどういう事態なのか。
おそらくカフカは、法が生きることに重なる時代にあって、生きることを法に重ねようとしたのだろう。それは開かれた門の前に立ちながら、その門が閉ざされるのを忍耐強く待つことを通して、到来するなにものかへの希望を開く、とういうことなのかもしれない。
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