エンニオ・モリコーネがついにオスカー受賞した。
2007年にはすでに功労賞をもらっている。ふつうなら功労賞はキャリアの最後にもらうもの。ところがモリコーネは「これが出発点だよ」とコメントしていた。そして、今、おん年87歳にして、新作をもっての堂々の初オスカーとなったというわけ。功労賞のオスカーを出発点として、音楽賞のオスカーを獲得したわけだ。すごいよね。拍手。
まあ、さすがに今回はアカデミー会員もまずいと思ったのだろうね。そして、まずいと思わせたのはタランティーノのマエストロへのリスペクト。モリコーネのほうは、タランティーノの作品はあんまりすきじゃないようなことも言ってたことがある。けれども、あそこまでリスペクトされたら心も動いたのだろう。それが今回の受賞にむすびついたんじゃないのだろうか。
少しご無沙汰していたブログだけど、せっかくの機会なので、少し前に書いたモリコーネについて記事を掲載しようと思う。事情があってそのままお蔵入りしていたもの。ご笑覧。
ぼくらはパンのみにて生きるわけではない。たしかに夢や希望のない人生なんて考えたくはない。だからといって夢や希望だけでは生きられないではないか。霞を食べて生きることはできないのだ。やがて大人になり、ぼくらは食べるために何をすべきか考え始める。そして思う。夢や希望や愛だけを語っていたときは青臭かった、あれは戯言だったのかもしれない、もっと現実を見なければ、と。
しかし、そんなほろ苦い諦念に居直ってしまうことが、はたして大人になるということなのだろうか。機会があってエンニオ・モリコーネのことを調べたとき、ぼくはその答えのひとつを見つけたような気がした。世界的な映画音楽作家のモリコーネだが、しばしば各地の音楽院の学生たちに、こんな言葉を繰り返したという。
(わたしの作曲する音楽を)サウンド・トラック colonna sonora とは呼ばないでほしい。正確に定義するならそれは「映画のための音楽」Mucisa per il Cinema なのです。サウンド・トラックは、音楽のほかに、効果音や騒音から成り立つもので、それらは後からトラックに収録され合成されるもの。わたしが作曲しているのは「映画のための音楽」なのです。
「サウンド・トラック」と「映画のための音楽」。映画音楽という意味ではどちらも同じだが、モリコーネは自分の作品があくまでも「映画のための音楽」だという。たしかに、モリコーネが言うように、サウンド・トラックとはフィルムの端にあり、音楽だけでなくセリフや効果音も録音されている音声トラックのこと。それは音楽だけから成り立っているわけではない。モリコーネは自分が作っているのはあくまでも、そのトラックのなかの音楽だけなのだというのである。
ここには、モリコーネの映画への敬意を読み取ることができるのかもしれない。彼は、こんなことも言っている。
よい映画はたとえ音楽がひどいものでも成立します。しかし、よい音楽がひどい映画をよくすることはできないのです。映画には独自の力があります。音楽はなにかを加えることができるだけなのです。セルジョ・レオーネの映画の多くは、音楽がなくても大丈夫のはずです。トルナトーレの映画のいくつかについても、同じことが言えるでしょう。
しかし、これはモリコーネの謙遜というものだろう。あの「コヨーテの遠吠え」のない『続・夕陽のガンマン』(1966年)が想像できるだろうか。もしもセルジョ・レオーネのこの作品にモリコーネの音楽がなければ、マカロニ・ウエスタンから代表作のひとつが消えるだけではない。映画史からひとつの傑作が消えていたかもしれないのだ。そのオープニングタイトルの「アエアエアー」というコヨーテの旋律を思い出しておこう。文字通り執拗に繰り返されるこのオスティナートに、不安を掻き立てるように4拍目をふたつ重ねるドラムが続き、銃声が響き、男性コーラスが唸り、フェンダー・ストラトキャスターの深みのある電子音が画面を切り裂くように掻き鳴らされる。ここでぼくたちは、目の前のスクリーンの底が割れ、見たことのない南北戦争時代のアメリカの、愚かしくもユーモアにあふれ、非情なのに人間的な世界が立ち上がってくるように感じていたのではなかっただろうか。
そして、ジュゼッペ・トルナトーレの『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989年)にモリコーネのメインテーマがなければどうだろうか。シチリアの抜けるような空と潮風とレモンの香りとともに流れるてくるあの美しいメロディー。その物悲しさのなかに明るさを探るように響いてくるヴァイオリンの調べは、失われたものへのノスタルジーと、それでも救われるものへの希望のようなものを感じさせてくれたではないか。だからこそぼくたちは、この作品の背後にある映画のひとつの時代の終わりと、そこから立ち上がる再生の物語に没入してゆくことができたのではなかったのだろうか。
もちろんモリコーネの言うように、どんなにすばらしい音楽を持ってきても、ダメな映画を良くすることはできないのかもしれない。けれども音楽は、なにかを加えるだけではなく、スクリーンの底を抜き、そこに思いがけない深みを開いてみせる。映像だけでそんなことは不可能だ。なぜそれが音楽には可能なのか。それはおそらくは、あの異才パゾリーニの言うように、音楽がスクリーンの外からやってくるものだからなのだろう。音楽には独自の身体と奥行きがある。それが映像に深みを与え、スクリーンと人生との境界線を錯綜させるというのである。
そうだとすれば、モリコーネが自分の音楽がサウンドトラックではなく、あくまでも「映画のための音楽」だという意味が、よりはっきりしてくるのではないだろうか。そこには映画の独自性への敬意とともに、音楽の独自性への自負もあるのだ。この自負心から、モリコーネはこんな言葉を口にするのだ。
本当に音楽であるような音楽があってはじめて、映画は、映画作品のためにオリジナルに創造されたサウンドを積極的に利用することができるのです。
あまり知られていないことかもしれないが、エンニオ・モリコーネは、ただ映画音楽を書くだけの作曲家ではない。そもそもは現代音楽の作曲家であり、トランペッター奏者でもあるのだ。父のマリオ・モリコーネは、どんな音楽でも奏者したジャズ・トランペッターだったという。そんな父から音楽の手ほどきを受け、アメリカ兵のためのクラブでの演奏もしたというエンニオは、やがてローマのサンタ・チェチーリア音楽院で本格的に作曲を学ぶ。そして、自らの情熱をささげようとしたのが「絶対音楽」Musica assoluta だというのである。
「絶対音楽」とは、たとえば映画のための音楽のように、他のなにかのために作られる音楽ではなく、ただ音楽のための音楽だという。この「絶対音楽」は、したがって、音楽家による自由な自己表現を目指す。伝統的な作曲法を捨て、親しみやすい旋律を拒絶し、それぞれの楽器の可能性をさぐりながら、和声やスケールの縛りから自由であろうとする。たとえばそこでは、ひとつひとつの音が他の音よりも優位に立つことがないような、モリコーネに言わせれば「音の民主主義」が理想とされるのだ。
しかし、民主主義がぼくたちひとりひとりの政治的な成熟を求めるように、「音の民主主義」においてもまた、それを聴こうとする者ひとりひとりの音楽的な成熟が要請されることになる。作曲家や演奏者が、どれだけ音楽的な成熟をめざしたとしても、それを理解してくれる者がいなければ、どうしてもその広がりはかぎられてしまう。早い話、コンサートをひらいても聴衆が入らないし、演奏されなければ楽譜を書いても売れない。たとえモリコーネが名門サンタ・チェチリア音楽院で学ぶ優秀な作曲家でも、「絶対音楽」を書いているだけでは、とても食べてゆけなかったのである。
モリコーネは、それでも音楽で自分を表現しようとする。オーケストラのための協奏曲なども作曲するのだが、報酬は微々たるものだ。即興音楽グループの《ヌォーヴァ・コンソナンツァ》にトランペッターとして参加し、音楽の可能性を広げる努力を続けてはいた。しかし同時に彼は、まさにパンのために、ポピュラー音楽のアレンジを手がけ、テレビ番組のための音楽を書く。音楽院の教授に隠しての内職だったという。けれども、そこでモリコーネは、ただ言われるままに美しい旋律を書いていたわけではない。それが大切なことをわきまえながらも、可能な限り実験的な要素を取り入れ、音楽的実験を行おうとしたのである。そうすることで、やがて彼のアレンジは評判を呼び、映画の仕事が回ってくることになる。当時は映画の黄金時代。作曲し、スタジオでオーケストラを指揮すれば、じぶんだけではなく、仲間の音楽家のためにもなるではないか。
こうして「絶対音楽」という音楽のための音楽を目指したモリコーネは、映画のための音楽を手がけてゆくことになる。「絶対音楽」は霞のようなもの。それだけでは食べてはゆけなかったのだ。この点だけを見れば、それは情熱あふれる若き音楽家にとって不幸なことだったのかもしれない。しかしその不幸は、なによりも映画界にとっての幸運であった。モリコーネがいなければ、数々の映画がぼくたちを感動させたような作品になることなく終わったはずだからだ。
そんなモリコーネにぼくは、あるべき大人の魅力を見ずにはいられない。音楽の夢を追いながらも、それだけでは食えないと知るや、パンのために譲れるところは譲る。だからといって諦念にとらわれることはなく、むしろ譲歩のなかに可能性を見出してゆく。地に足をつけながら、どこまでも高みをめざすモリコーネに、映画ファンとして大いなる敬意を表したいと思うのである。
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