雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ハリウッドさながらのイスラム

気の滅入るニュースが続いているが、少し前にイタリアの友人から興味深い記事を教えてもらっていたことを思い出した。それがこれ。
 


L'islam hollywoodiano - Il Post

 
この記事は、今、僕たちが目の当たりにしている映像(イスラム国が後藤さんと湯川さんの殺害を警告し身代金を要求しているする映像だ)を、少し違った角度から捉えるためにも、とても有効な見解だと思う。
 
ぼくが興味深いと思ったのはこういうことだ。ぼくたちはイスラム教についてもイスラム国についても多くを知らない。ところが、なぜかイスラム原理主義が起こしている事件には既視感がある。そんな感覚を、この「ハリウッドさながらのイスラム」という記事はうまく説明してくれているのではないだろうか。
 
この分析が正しいかどうか、もうすこし考えなければならないところもある。けれども、なんでもかんでも「文明の衝突」のようなスキームで説明した気になってしまうのは危険だ。もちろん、もっとイスラム文化とその世界にはたらく道理を学ばなければならないということもある。しかし、じつは今ぼくたちが目撃しているのは「ハリウッド的なもの」、つまり西欧的なもの(これにはぼくたち日本もすっかり組みしているわけだ)が臨界に達しているという事態なのかもしれないのだ。
 
おそらくそうした事態を経済の側面から見て行くと、「21世紀の資本」という考え方ができるのだろう。けれどもそれは同時に、「21世紀のイメージ論」という方向でも考えて行くべきものなのかもしれないのだ。
 
そんなイメージ論についてのキーワードは、私見ではおそらく「感染」なのだと思う。そして西欧的イメージの激しい感染力の背後には、成長の限界に達しようとする世界における資本の運動が対応しているのだと思う。
 
では、そんなことを考えさせられた記事を、以下にざっと訳出しておく。
 
ハリウッドさながらのイスラム
(ジャコモ・パーピ)

その子供にイスラム的なものはない。カーハートのカタログから出てきたようではないか。ジップ付きの黒いトレーナーを着て迷彩色のカーゴパンツを履いている。髪型だって完璧だ。そんな小さな処刑人は、跪かされた哀れなふたりの男のうなじに、ピストルを向けてる。まるで、われわれの息子の同級生のひとりが(それも金持ちの同級生だ)、プレーステーションから現実の世界に出てきたようではないか*1


映像が本物なら、これもまたイスラム国が西欧のイメージを模倣しながら作り上げた宣伝映像ということになる。アメリカのTVドラマ『ホームランド』の予告編さながらに、グワンタナモのオレンジ色の囚人服を着せられた人質が首を切られる映像の延長にあるのだ。イスラムテロリズムへの西欧文化の影響は目新しいものではない。9.11 のようなテロは『タワーリング・インフェルノ』という映画がなければ思いもよらなかっただろう。テロリズムの文化的モデルはハリウッドの破壊的なスペクタクル映画なのだ。問題は、そんな映画に罪があるということでも、そんな映画をつくったことに自責の念を感じることでもない。文化的ヘゲモニーが問題なのだ。

シャルリ・エブド襲撃テロにしても同じ。そのモデルはじつに素朴で、まったく新奇性がない。モデルとなったのはアメリカでの学校での銃乱射事件。コシャー食品を扱うユダヤ系の商店の立てこもり事件は『狼たちの午後』。《分子的テロリズム*2という表現が使われている。即興的で誰でも無限に複製でき、複製したものに、ひとつの組織がほかでもない自分たちのロゴをはりつけるというわけだ。しかし、これ自体もまた西洋的なモデル。スターバックスのような、フランチャイズ型のテロリズムなのである。

イスラム・テロリストの行動にオリジナルなところはほとんどない。殉教というものがあるが、これはイスラム原理主義者の実践において殺してもらうということであり、キリスト教文化においては信じるもののために殺されるということだ。子供を使うこともある。ボコハラムによって人間爆弾として使用された10歳の女の子たちや、イスラム国の小さな処刑人だ。しかし、子供たちを屠殺の肉のように使用することで、支持者を得ようと考えるのは難しい。

西洋に挑戦しながらも、イスラム原理主義は破滅させたい敵方のイメージの代替物を作り出すことができず、ただ敵方のイメージを再生産しているにすぎないのだ。

憎しみの起源には、こうした文化的服従からくるフラストレーションがあるのかもしれない。

シャルリエブド事件の後で、ヨーロッパはあまり安全ではなくなるだろう。誰であれ、いつ襲撃されるかもしれず、いつ襲撃する側に回るかわからないのだ。しかし、西欧のイスラム化が話題になるとき、忘れられているのはイスラムの西欧化もまた進行しているということだ。マラケシュの旧市街(メディナ)にはハッピーアワーがあるし、ドバイにはディスコがあり人工スキー場がある。

ヨーロッパで生まれ育った若者がファナティズムへと回帰することが語られるとき、忘れてならないのはこういうことだ。ひとりの若い女性がヴェールをかぶろうと決意するなら、その一方には、脱ぐことを選ぶ何千にもの女性がいる。ひとりの女学生がヨーロッパかぶれの服装を咎められパキスタン人の父親に殺されるなら、その一方には、何百人のパキスタン人の父親が娘の服装をしかたなく許容している。ひとりの若者が熱狂してシリアに旅立つなら、一方には何百人の若者たちがヨーロッパで学校に通い、本を読み、音楽を聴き、テレビを見て、考え、生きているのだ。

惨劇や恐怖にもかからず、これからもなお血が流されようとも、イスラム原理主義は文化的に敗北している。なぜなら原理主義を愛することは、イスラムの伝統的な価値観からくるものではなく、それはむしろ世俗的な欲望のひとつなのだ。

テロリストたちは、ジョン・レノンを殺したマーク・チャップマンや、「タクシー・ドライバー」や、目立とうとして大学で大量殺人に走る哀れな連中に似ている。

シェリフ・クワシはラッパーの成れの果て。

イギリス人ジョンもラッパー。

彼らがセンセーショナルなことを起こしたのは、彼らの天国が有名になるにも見出せるからなのだ。

 

 

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*1:この映像についてはここを参照のこと。

Nuovo video shock Isis, bambino spara ai prigionieri - Medio Oriente - ANSA.it 

*2:司令部がなく、中核的な戦略がない。領域を動く細胞を通して政治的文化的な言及があるだけのテロのこと。この図がわかりやすい。


Islamisti: lo schema strategico del TERRORISMO MOLECOLARE « POLITICHE SOCIALI e SERVIZI