雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

チャーリー・ブラウンの嘆き

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例によってFBの話題から。

 

フランスで起こった「週刊シャルリー」社への襲撃事件をめぐるさまざまな投稿のなかで、ぼくがハッとしたのが上の画像です。

 

ぼくがこのチャーリー・ブラウンの風刺画を示唆的だと思うのは、頭を抱えているチャーリーが嘆いているように見えるからです。もちろんふつうに考えれば、世界中で「Je suis Charlie (わたしもシャルリー )」というメッセージが流れるなか(フランス語でいうシャルリーは英語ではチャーリーですよね)、同じ名前のチャーリー・ブラウンもまたあの襲撃事件を嘆きながら、そのメッセージへの連帯を表明していると解釈できるのでしょう。

 

けれども、すこし穿つ見方をすれば、自分以外の「チャーリー」が次々と現れてきた状況を嘆いているとも取れるのではないでしょうか。世界中に「チャーリー」が溢れてゆく状況を、もう少し引いて考えれば、「わたしもチャーリー」という画一的な領域がみえてきます。そして、その領域が領域である限り、限界の外部もまた浮かび上がってきます。

 

そもそも、チャーリー・ブラウンは、大人の世界に入る前にありながら大人の世界を反映するような立ち位置をとることによって、その風刺の機能を発揮してきた漫画の登場人物です。それは、アガンベン流に言えば infanzia と呼べるものでしょう。言語を話す者 fante がいまだ言語を話さない in-fante (幼児)の状態にあるとは、世界の閾に立っているということです。それは、あくまでも外部と内部のギリギリの立ち位置にあるということなのですが、それが今や、すっかり内部に取り込まれてしまったのが「わたしもチャーリー」が覆い尽くした状態です。

 

風刺の画の外部にあるものは、「拳の掟 Faustrecht」が支配する世界です。それを、力の強いものが生き残るような、つまり復讐と武力闘争が繰り返されるような、いわば中世的な世界と呼んでみましょう。そうした拳によって正義が決まるような世界で、はたして風刺は、はたしてペンは力を持つことができるのでしょうか?

 

上のチャーリの嘆きは、そうした無力感も含めた嘆きにように思えてならないのです。

 

思い出しておかなけれならないのは、ヨーロッパにおける「大いなる戦争(第1次世界大戦)」とその世界的な展開としての「第2次世界大戦」における風刺画やペンの働きでしょう。帝国主義的な植民地獲得闘争という「拳の掟」が支配していたとき、風刺画とペンは、それぞれの国民国家の内部において外部の敵を敵として表象する役割を果たしてきましたよね。それは、ナチスファシズムや皇国の芸術を考えれば容易に理解できますよ。そこにおいて、芸術は、風刺もふくめて(すべてではないにしても、多くの部分が)政治化されてきました。あるいはベンヤミンに言わせれば、政治が耽美主義化していったわけです。チャーリーの嘆きを、この政治の手段となった芸術(耽美主義、美学、あるいは感性的となり政治に絡みとられた芸術)への嘆きととらえることも、もしかするとできるのかもしれません。

 

しかし、チャーリーの嘆きが「耽美主義化する政治」に向けられたものだと言うためには、もう少し複雑な経緯を考えなければなりません。

 

風刺はそもそも政治と近い関係にあります。しかし政治を風刺するために、風刺画という技術(Kunst 芸術)は、しばしば感性的なもの、美学的なもの、あるいは耽美主義的なもの(Ästetik)に頼るわけですね。その部分が、かつての全体主義、あるい「耽美主義化する政治 die Ästhetisierung der Politik」によって逆手に取られ、見事なまでに政治の手段として取り込まれてしまったわけです。政治を風刺するという働きは、諸刃の剣として、いつ政治の手段となってもおかしくないところがあるわけです。だからこそベンヤミンは、ここで「芸術の政治化 der Politisierung der Kunst」を対置させます。今フランスで、"Je suis Charlie "という運動が世界的に広まっているのは、そうした方向で解釈できると思います。それは、風刺はあくまでも政治を監視する重要な役割を果たすべき芸術(Kunst)だという認識の上に成り立つものです。そしてだからこそ、FBの友人が言うようにフランスでは「風刺画の社会的地位が高く、影響力が大きい」のでしょうし、日本のことを考えれば、まだまだこの認識が浸透していないと考えることもできるかもしれません。

 

ところが、まさにそれだからこそ、チャーリーが嘆いているのは、今回の「週刊シャルリー」襲撃事件、あるいは表現の自由への悲惨な暴力だけではなく、こうした攻撃に抗対しようとする "Je suis Charlie "の運動ひろがりの危うさでもあるとは考えられないでしょうか。

 

今回の攻撃は、たしかに表現の自由への攻撃であり、表現の自由が保障されるべき民主主義への攻撃です。しかし、それは民主主義的な国家における共有認識ではあっても、その外においても共有されるとは限りません。表現の自由と結びついた民主主義は、あくまでも国民国家において称揚され保障される価値にすぎないかもしれないのです。

 

だとすれば、チャーリーの嘆きはかなり深いものになります。なぜならチャーリーは、あくまでも子どもとして大人の世界の外部に立ち、世界を外部から風刺してきたにもかからわず、今やその世界の内部に取り込まれてしまったことを知ってしまったと考えられるからです。

 

そんなチャーリーの嘆きがマークしているのは、おそらく次のような不安なのでしょう。ぼくたちには、一見、 “Je suis Charlie”運動は「芸術の政治化」(ベンヤミン)のように見えるけれども、気がつかないうちに、再び「耽美主義化する政治」へ通じる岐路に立っているのかもしれない。それは、芸術(Kunst) がかつての危うい道へと回帰し、再び「耽美主義化する政治」にとりこまれてしまうかもしれない。そして、回帰する「耽美主義化する政治」は、かつてファシズムやナチズムや皇国の軍事主義が称揚した「拳の掟 Faustrecht」を蘇らせ、野蛮な時代へとつきすすんでゆくのではないか。

 

この不安に打ち勝つためにすべきとは、密かに感性的、美学的、耽美的なものへと回帰しようとするものを嗅ぎ出し、析出し、表象し、それをこれまで以上に強かで洗練されたかたちでの「芸術の政治化」を進めてゆくことでしかないのかもしれません。

 

「芸術の政治化」という文脈で「チャーリーの嘆き」を捉え返すならば、そこには「わたしはチャーリーではないかもしれない」という回路を確保することが要請されているのかもしれません。「わたしはチャーリーであり、チャーリーではない」という閾を開くことこそが、おそらくはぼくたちが進むべき、あるいは立ち止まるべき場所なのかもしれない、ぼくはそう思うのです。

 

 

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