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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

殉教の子どもたちと動物の尊厳

読書 映画 イタリア語
先日、『イスタンブールの赤 Rosso Istanbul』という小説(あるいは随筆?)を発表したフェルザン・オズペテク。トルコ生まれにしてイタリア映画を代表する監督である彼が、とても興味深いフレーズをツイートをしていたので、ここで紹介してみたい。

Ci sarebbero meno bambini martiri se ci fossero meno animali torturati.

                                                                                -- Marguerite Yourcenar -- 
このイタリア語のフレーズには、フランスの女性の小説家マルグリット・ユルスナールの名前が添えられているが、難しい単語があるわけではなく、仮定文の構造さえ知っていれば意味をとることができる。ところが、読み取ったはずの意味を吟味しようとすると、何が言いたいのかわからなくなってしまうのだ。
 
ほんとうならば、ここでフランス語の原文に当たらなければならないのだろうが、それは手元にない。あったとしても、フランス語はぼくには少々手強い。ともかくイタリア語の訳文を利用して、そこからこの一文の意味をなんとかつかまえてみようと思う。そこで、まずはそのまま日本語にしてみることにしよう。こんなふうに訳せるのではないだろうか。

殉教の子どもたちは減ってゆくことだろう、もしも虐待される動物が減ってゆくならば。

「殉教の子どもたち bambini martiri 」という表現は、いまだに世界各地で続いている戦争の犠牲となった子どもたちのことだ。死んでいった子どももいれば、親や兄弟を失った者もいる。家を失った者もいれば、故郷を追われた者もいるだろう。さまざまな不幸のなかで過酷な苦しみにみまわれた子どもたちが「殉教者 martire」に例えられている。ユルスナールは、苦しみを背負わされた子どもたちが大勢入る現実から出発し、子どもたちの苦しみがなくなるような仮定を提示しているわけだ。
 
しかしである。「もしも、虐待される動物が減ってゆくなら」、子どもたちも苦しまなくてもすむと言われても、すぐには理解できない。少なくともぼくには当惑だけが残る。とはいえ、それはどこか気にかかるものを伴う当惑だ。そこでちょっと調べてみれば、なんとこの言葉には続きがあるではないか。Wikiquote で見つけた全文にはこうあった。
 
Ci sarebbero meno bambini martiri,  
se ci fossero meno animali torturati, 
meno vagoni piombati che trasportano alla morte le vittime di qualsiasi dittatura, 
se non avessimo fatto l'abitudine ai furgoni 
dove le bestie agonizzano senza cibo e senz'acqua dirette al macello.
 
  ともかく訳してみよう。こんな感じになるだろうか。
殉教の子どもたちは減ってゆくだろう、
もしも、虐待される動物たちの数が減るならば、
あらゆる独裁の犠牲になるものたちを死地へ運ぶ
あの封印された貨車の本数が減るならば、
もしも、飢えと乾きに苦しむ獣たちを載せて屠殺場へ向かうトラックに
わたしたちが慣れてしまうことがなかったならば。

 

おわかりのように se に導かれる仮定節(「もしも、虐待される動物の数が減るならば」)には、もうひとつの文が並記され、さらにもうひとつ se の仮定文が続いているのだ。
 
そこで、まずはオズペテクのツィートでカットされたところから見てみよう。「虐待される動物 animali torturati 」に続く「封印された貨車 vagoni piombati 」の部分である。そこでは「殉教の子どもたち」が減るためには、「虐待された動物」が減ることにならんで、「封印された貨車」の本数が減らなければならないと記されている。
 
それにしても「封印された貨車」とは何のことなのか。「vagoni piombati 」という言葉で画像検索をかけてみれば、具体的なイメージを見ることができる。どうやらそれは、第二次世界大戦のさなか各地のユダヤ人たちを強制収容所に運んだ列車のことらしい。そもそも piombato という形容詞は、大切な荷物などが勝手に開封されないように「鉛で封印された」状態にすることだ。それがユダヤ人を移送する貨車(彼らは客車ではなく家畜運搬用の貨車に詰め込まれたという)を形容するとき、彼らを「外界から厳しく遮断された車両に閉じ込める」ことを意味している。
 
注意すべきは、貨車に載せられ、あのガス室を思わせる「死地= la morte 」へと運ばれるものたちのことを、ユルスナールが「あらゆる独裁の犠牲となるものたち le vittime di qualsiasi dittatura 」と書いていることだ。「あらゆる独裁」というのだから、それはナチスの独裁だけではない。時代を超え、場所を超えて、ぼくたち人間が生み出してきた「あらゆる独裁」のことなのだ。そして人間の身勝手な独裁の犠牲となるのは、人間だけではない。「動物たち」もまた犠牲となってきたのだ。したがって、ここで言われる「犠牲になるものたち」とは、人間も動物も含んでいると考えられるのではないだろうか。
 
ユルスナールの言葉が「子どもたち bambini 」から「動物たち  animali 」へと飛躍していたことを確認しておこう。その「動物たち」に並記される「犠牲になるものたち  le vittime 」とは、明らかにユダヤ人のようなナチスの犠牲者を思わせながら、同時に、人間の独裁によって「虐待された動物たち」へと開かれている。それはもはや人間でもなければ動物でもないような存在なのだ。ユルスナールの「犠牲になるものたち」とは、人間のようでありながら動物でもあり、動物のようでありながら人間でもある存在だ。彼女の言葉に働いているのは、人間を動物からたえず区分しようとしてきたあの「人類学的機械 la macchina antropologica 」(アガンベン)を機能不全に追い込むような戦略にほかならない。
 
だからこそ、最後の se に導かれる仮定節のなかに「獣たち le bestie 」が登場するのは不思議ではない。そしてこの「獣たち」もまた両義的な存在だ。それがたとえ「屠殺場へと向かう dirette al macello 」ものであったとしても、ぼくたちはもはや、そこに豚や牛のような家畜の姿だけを思い浮かべるわけにはゆかない。この「獣たち」においてはもはや、人間を動物から切り離す力は無効化され、ただ「飢えと乾きに苦しんでる agonizzano senza cibi e senz’acqua 」ものとしての、動物でもなければ人間でもないような「なにものか」の姿が立ち現れているのである。
 
 そんな「獣たち le bestie 」(あるいは「生きもの」)を載せたトラックが、わたしたちの目前を現れる。最初は、その「飢えと乾きに苦しむ」何ものかの姿に、わたしたちの心は動揺していたはずだ。少なくとも、ユルスナールはそういう前提から出発している。そうでなければ「〜に慣れる fare l’abitudine a… 」という表現は使えない。けれどもわたしたちは、そのトラックを何度も目撃しているうちに、「(それに)慣れれてしまう abbiamo fatto l’abitudine a... 」。しかし、そんな現実を転倒させてみせるのが、この仮定節(「もしもわたしたちが慣れてしまうことがなかったならば se non avessimo fatto l’abitudine a... 」)なのである。
 
こうしてユルスナールは、人間と動物の境界をとりはらい、ぼくたちが慣れ親しんできた世界を転倒させると、ぼくたちの神経を逆なでするような風景を立ち上げてみせてくれる。それにしても、ぼくたちは、そこにいったい何を読み取ればよいのだろうか。
 
おそらくそれは、「人間が」とか「動物が」とかに限定されることのない命ある何ものかが、不条理にも、「飢えと乾きに苦しんでいる」という事態なのだろう。そして、そう考えることでぼくたちは、最初の疑問に立ち返ることができる。あの「殉教の子どもたち」のことだ。
 
殉教とは、ある信仰や理想を掲げたがゆえに不条理な迫害に苦しみに耐え忍び、ついには自らの命まで犠牲にすることをいう。ユダヤ人がユダヤ人であるというだけで不条理な迫害にさらされ、家畜たちが家畜であるというだけで飢えと乾きを強いられ、ついには死に場所へと連れてゆかれて来こともまた、ある意味で殉教の苦しみなのだ。その苦しみを前にわたしたちは何もできなかったし、見てみぬふりをしてきただけではなかったのか。だからこそ、ぼくたちの子どもたちに、彼らがまだ子どもであるというそれだけの理由で不条理な苦しみがもたらされ、ついには死へと至らしめるような事態になってもなお、何もできないままでいるのではないだろうか。だかからこそ、もしも、そうではなかったならばという切迫した想像力が、ユルスナールをしてこの仮定文を書かしめたのではないのだろうか。
 
 だとすれば、ぼくたちには一体どうすればよかったのだろうか。ぼくたちに何が欠けていたのだろうか。それを知るヒントを、ぼくは別の個所でユルスナールの言葉に見つけたように感じている。そこにはこう書かれている。
 
Mangiare carne è digerire le agonie di altri esseri viventi. Gli animali hanno propri diritti e dignità come te stesso.
肉を食べることは他の生き物の苦しみを消化することだ。動物たちはあなた自身と同じように権利と尊厳を持っている。

 

どうだろうか。もはやぼくたちは、この言葉を偏狭なベジタリアン宣言ととらえることはできないはずだ。ユルスナールは肉を食べるなと言っているのではない。「生きているもの esseri viventi 」にはすべからく、その権利と尊厳を認める必要がある、そう言っているのである。
 
ぼくたちが生きるためには「生きているもの」をいただくしかない。ぼくたちは、おのれの命を、おのれ以外のなにものかの生命によってしかつなぐことができない。生きるためには食べねばならず、それは「他の生きものの苦しみを消化すること」にほかならない。だとすれば、ぼくたちにできることはなんなのだろうか。
 
おそらく要請されているのは、命あるものにかせられた不条理な苦しみに敏感であることなのだ。だからこそ、その「苦しみ」への感度を鈍らせ、まるで当然のことのように思い込ませるような、「子ども」と「おとな」や、「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」や、「動物」と「人間」などの区分を無効化するような戦略を立てなければならない。これは遠大な戦略にならざるをえない。なぜなら、区分する力の背景には、歴史上絶え間なく動き続けてきたあの「人類学的機械」の働きがあるからだ。
 
だからこそ、ぼくたちは慎重に、少しずつ、諦めることなく、この「人類学的機械」へのレジスタンスを続けてゆかなければならない。もし手を緩めれば、ぼくたちの子どもたちは、いつのまにか、どこかで知らないところで、あの殉教の苦しみを背負わされてしまうのだろう。もしうまくやれたならば、少しでも子どもたちをあの苦しみから救いだしてやれるのかもしれない。そのときぼくたちは、ぼくたち自身の未来を、少しだけ救うことになるはずだ。
  
* * * * * 

 

それにしても、ユルスナールの言葉のこの深さ。その深さを測ることは、おそらくオズペテクの深さを測ることに通じるにちがいない。

 

Rosso Istanbul

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開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

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