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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

宮崎駿『風立ちぬ』

映画

風立ちぬ (ジス・イズ・アニメーション)

 

宮崎駿の『風立ちぬ』を見た。

 

感想を書いておこうと思ってしばらくいろいろ考えていたのだけど、考えれば考えるほど書くべきことが広がってゆき、調べることが増えてゆく。この映画にはそんな広がりがある。そんな広がりのある映画を別の言葉で言えば傑作ということになるのだろう。

 

それが傑作であればあるほど、これからこの映画を通してさまざまな発見が報告されるはずだから、それは大いに楽しみなのだけれど、ぼくがここで備忘のために記しておきたいことは、今のところ、この作品が死者たちをめぐる物語であることだ。

 

内田樹は、この映画に「失われた時代」を見たという。たしかに映像には時代の空気が生き生きと描き出されている。そこには暮らしたことのない街並があり、もう見かけることのない風景がある。そのあたりは「トトロ」と同じなのだが、ここにはもっと強力なものがはたらいているのではないか。それはきっと、死者たちの存在感なのではないかと思う。

 

死者たちとは誰のことか。

 

『風立ちぬ』には、実在の人物のモデルがある。ざっと挙げてみると、まずは主人公で航空技術者の堀越二郎(1903-1982)。その二郎が夢のなかで会話を交わすイタリアの航空技術者 Giovanni Caproni (1886-1957)。それから映画の二郎には、小説家の堀辰雄(1904-1953)が重ねられており、さらに二郎がはじめて菜穂子と会ったときに交わす印象的な詩片〔 “Le vent se lève !” (菜穂子) “Il faut tenter de vivre!” (二郎)〕の作者 Paul Valéry (1871- 1945) がいる。

 

この4人の死者たちは、20世紀の前半という時代にあって、それぞれの分野で、それぞれの道を切り開いてきた人々だ。 そしてなんといっても、彼らは広い意味での artista(芸術家=技術者)だ。宮崎の最新作は、そんな芸術家=技術者たちを「失われた時代」のなかに蘇らせると、その時代の制約のなかで彼らの眼差しや息づかいを伝えてくれる。その「眼差し」と「息づかい」にこそ、ぼくたちがはっとさせられるのだと思う。

 

そうなのだ。ぼくたちは、映画を観るときも、小説を読むときも、詩を口にするときも、その向こうにある「まなざし」や「息づかい」にはっとさせられるのではないだろうか。ふつうならそこには、視線や息の届かないほどの距離があり、あるいは相手がもはや息をしていないこともある。けれども、目の前の作品を触れるとき、それがよくできていればいるほど、そこに「眼差し」や「息づかい」が生々しく感じられるのであり、それこそが(少なくともぼくにとっての)傑作なのだ。

 

もちろん宮崎の『風立ちぬ』にもそれがある。そして、この作品が焦点を絞るのは、堀越二郎の「眼差し」や「息づかい」だけではなく、その飛行機の開発なのである。飛行機を開発するということは、おそらく詩や小説を書くのと同じように(そしてアニメ映画を作るのと同じように)、目標と意志と確実に一歩一歩を進めてゆく脚力が必要になる。それがなければ前には進めないものを、一言でいえば「方法」と言うことができると思う。

 

日本語で「方法」と言ってしまうと、少し判りにくいかもしれない。方法をイタリア語では metodo という。語源辞典を見てみれば、これはギリシャ語の méthodos (探求、調査)に由来し、これはさらに metà (越えること)と hodós (道)から出来た語として、「さらに先へと運んでくれる歩み」という意味であったらしい。

 

そんな méthodos としての「方法」こそは、生き生きした「眼差し」や「息づかい」とともに、この宮崎の最新作が描き出そうとするものだ。この映画がこれまでのジブリ映画と少し趣を異にするところがあるとすれば、それは、ここではもはや「物語」が語られるのではなく、「方法」が描かれているというところにあるのだろう。この映画は「物語の映画」ではなく「方法の映画」なのだ。

 

それは確かに飛行機を作る技術者堀越二郎の「方法」ではあるのだが、同時にそれはこの主人公に重ねられた堀辰雄の「方法」であり、この小説家の同時代人で海の向こうの詩人ヴァレリーと、イタリアの技術者カプローニの「方法」でもある。

 

ただし、彼らはもはや死者なのだ。死者たちが蘇ることはなく、その「眼差し」も「息づかい」も失われてしまった。それでもぼくたちは、そんな彼らの遺したもののうえに生きている。それを「方法」と呼ぶならば、それは先の見えない今を生きるぼくたちが、それでも前に進もうとする「方法」を助けてくれないわけがないではないか。

 

ここまで書いてきて、堀辰雄がその『風立ちぬ』のエピローグに引用したリルケの詩「レクイエム」と共鳴しているように強く感じた。なにしろリルケ(1875-1926)も、かの死者たちと同時代人なのだ。その共鳴のキーがどのあたりにあるのか探るためにも、以下に堀辰雄がその小説に引いた部分を記しておこうと思う。

 

まずは、ぼくの拙訳を。次に堀辰雄の訳文、次にドイツ語の原文、さらにぼくが参考にしたイタリア語訳と英訳を挙げておく。

 

1)拙訳

 

ぼくには死人がいる、いままで立ち去るにまかせてきたけれど、

驚いたことに、みんなとても満足そうで、

とても安らいで死んでいて、とても快活で、

聞いていた話とはだいぶんちがっていた。なのにおまえだけは

帰って来た。ぼくに触れ、つきまとい、なにかに衝き当たって

音を立て、自らの存在を開示しようとする。ああ、取り上げないでおくれ、

ぼくがゆっくりと学んでいるものを。正しいのはぼくだ、おまえは道を外れている、

なにものかへの郷愁に掻き立てられているだけなのだ。

ぼくたちは、そのなにものかを変えてしまうのだよ。

だからそんなものここにはない、ぼくたちが心の中で

ぼくたちの存在の外へと映し出しているだけだ、

それがなにかわかった瞬間にね。

 

***

 

帰って来ないでほしい。なんとか我慢して死者たちの間に

死んでいておくれ。死んでいたってやることはたくさんある。

それでもやはり、助けてもらえればありがたい、気の散らないていどでいいから、

はるか遠く離れたものが時には助けてくれるように… ぼくの心のなかで。 

 

2)堀辰雄

 

私は死者達を持つてゐる、そして彼等を立ち去るが儘にさせてあるが、

彼等が噂とは似つかず、非常に確信的で、

死んでゐる事にもすぐ慣れ、頗る快活であるらしいのに

驚いている位だ。只お前――お前だけは帰つて

来た。お前は私を掠め、まはりをさ迷ひ、何物かに

衝き当る、そしてそれがお前のために音を立てて、

お前を裏切るのだ。おお、私が手間をかけて学んで得た物を

私から取除けて呉れるな。正しいのは私で、お前が間違つてゐるのだ、

もしかお前が誰かの事物に郷愁を催してゐるのだったら。

我々はその事物を目の前にしてゐても、

それは此処に在るのではない。我々がそれを知覚すると同時に

その事物を我々の存在から反映させてゐるきりなのだ。

 

***

 

帰つて入らつしやるな。さうしてもしお前に我慢できたら、

死者達の間に死んでお出(いで)。死者にもたんと仕事はある。

けれども私に助力はしておくれ、お前の気を散らさない程度で、

屡々遠くのものが私に助力をしてくれるやうに――私の裡で。

(http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/files/4803_14204.html)

 

 

3)リルケのドイツ語原文。

 

Ich habe Tote, und ich ließ sie hin

und war erstaunt, sie so getrost zu sehn,

so rasch zuhaus im Totsein, so gerecht,

so anders als ihr Ruf. Nur du, du kehrst

zurück; du streifst mich, du gehst um, du willst

an etwas stoßen, daß es klingt von dir

und dich verrät. O nimm mir nicht, was ich

langsam erlern. Ich habe recht; du irrst

wenn du gerührt zu irgend einem Ding

ein Heimweh hast. Wir wandeln dieses um;

es ist nicht hier, wir spiegeln es herein

aus unserm Sein, sobald wir es erkennen.

 

***

 

Komm nicht zurück. Wenn du´s erträgst, so sei

tot bei den Toten. Tote sind beschäftigt.

Doch hilf mir so, daß es dich nicht zerstreut,

wie mir das Fernste manchmal hilft: in mir.

(http://lapoesiaelospirito.wordpress.com/2008/08/15/rainer-maria-rilke-requiem-per-unamica/)

 

 

4)イタリア語訳

 

Ho morti, e li ho lasciati andare

e stupivo a vederli così in pace,

così presto accasati nella morte, così giusti,

così diversi dalla loro fama. Solo tu torni

indietro; mi sfiori, ti aggiri, vuoi

cozzare in qualcosa che risuoni di te  

e ti riveli. Oh, non prendermi quel che

lentamente imparo. Io ho ragione; sei in errore

se hai, commossa, nostalgia di

cose. Noi trasformiamo queste;

non sono qui, le riflettiamo in noi

dal nostro essere appena le riconosciamo.

 

***

Non tornare. Se lo sopporti, sii

morta tra i morti. I morti hanno molto da fare.

Ma aiutami lo stesso senza dover distrarti,

come mi aiuta a volte quello ch’è più lontano: in me.

(http://lapoesiaelospirito.wordpress.com/2008/08/15/rainer-maria-rilke-requiem-per-unamica/)

 

5)英訳。

 

I have my dead and I have let them go 

and was amazed to see them so contented, 

so at home in being dead, so cheerful, 

so unlike their reputation. Only you return; 

brush past me, loiter, try to knock 

against something, so that the sound reveals 

your presence. Oh don’t take from me 

what I am slowly learning. I’m sure 

you have gone astray if you are moved to homesickness 

for anything in this dimension. We transform these Things; 

they aren’t real, they are only the reflections 

upon the polished surface of our being. 

 

 ***

Do not return. If you can bear to, 

stay dead with the dead. The dead have 

their own tasks. But help me, if you can without distraction, 

as what is farthest sometimes helps: in me.

(http://www.paratheatrical.com/requiemtext.html)

 

註:

リルケが書いた「女友だちへのレクイエム」は、友人であり画家のパウラ・モーダーゾーン=ベッカーに捧げられたもの。彼女は最初の子どもを産んで18日後に突然死亡した。リルケは、パウラの訃報を聞いたほぼ一年後に、パリのHotel Biron で2夜にわたり眠らずに、この詩を記す。

 

風立ちぬ

風立ちぬ