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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

R.ジョンソン『ルーパー』

映画

 
 気になっている映画だったもので、日曜日に池袋で見てきた。
 
 なるほど、映画評論家の町山さんが言っていた「その手があったか!」というのが分かった。
 
 誰かが「けっこう感動的ですよ」と言うのも分かった。
 
  でも、なんだか既視感がある。どこで見たっけ。そうだクリストファー・ノーランの『ダークナイト・ライジング』(2012)だ。それから、ザック・スナイダーの『エンジェル・ウォーズ』(2011)もそんな感じだった。もしかすると『アヴェンジャーズ』(2012)も、同じところを狙っていたのか。これって、もしかすると最近の流行?
 
 ルーパーは、無理矢理にループを作る者かな。無理に作られたものは、どこかで破綻するわけだけど、破綻しても新たなループが作られてゆく…。それってどこか歴史学の循環史観に似ている気がする。あのヴィーコの有名な Corsi e risocri とか、それを思いっきりペシミスティックにしたニーチェの永劫回帰とか。
 
 今の時代って、そういうペシミズムがあるのかもしれない。どうしようもない循環(ループ)のなかに閉じ込められているという閉塞感があるのかもしれない。それを、どうにかして打ち破りたいのだけれど、どう考えても不可能だという状況。それが現代なのだろうか。
 
 でもさ、そうだとすれば「その手」を使ってしまっていいのかな。むしろ、よく考えれば「その手」は、すでに一度使われてしまったよね。あれは一度きりの出来事として、救済を担保するものじゃないの。繰り返したら、それこそループになってしまう。実際それは、もう何度も使われて、ループになってるじゃないかと思うのは、ぼくだけか?
 
 やはりアメリカ的な映画なんだよな。よくできていて隙がない。けれども思い出すのは、クリアレーゼの言葉だ。すでにご紹介したようにイタリア人監督で、NY大学映画学部で学んだ人なのだけど、アメリカの映画作りで気に入らないことは、「何度もミーティングを重ねて、徹底的に話し合い、すべてのシーンに分かりやすく説明をしようとすること」だという。『海と大陸』の監督は、映画のすべてのシーンを合理的に説明することには抵抗があるという。観客が最低限の想像力を働かせる余地がなければ、映画はつまらなくなるというのだ。なるほど、彼の作品はそんな映画だったし、もしかすると、アメリカ映画に慣れている観客は、劇場から出てくるとき怒ってしまうかもしれない。わけがわからないって、ね。
 
 けれどもなかには、見終わってから「あれってどういうことだったんだろう」とか、「よくわからなかったけれど、なんだか面白かった」なんて思わせる映画があってもよいのではないだろうか。見終わったあとで、すべてに納得できてしまうと、それで終わり。それじゃ、つまらなくないですかね?
 
 そうなのだ、『ルーパー』はなんだか全てをきれいに説明してくれている。どこか、優秀なセールスマンの口上みたい。隙がない、淀みがない。メッセージもはっきりしている。それはたしかに泣かせるメッセージだし、政治的に正しいメッセージだと思う。だから損することはない。
 
「買いですよ、お客さん」
 
「はい、買いました。おもしろかったです。「その手があったか!」って思いましたし、皆さんにもお勧めしますです、はい」
 
 うーん、でもぼくはウシ年生まれだからか、食べたものを反芻したいのよね。「あれはなんだったのだろう」なんて、何度も噛みしめたいのよね。残念ながら、それだけが少し足りなかった。おしいなあ…いや、悪い映画じゃございません。ぜったいに、あっと驚ける映画だし、いろいろ考えさせられる作品ではあるのです。
 
 でもぼくが考えたくなったのは、この映画のことというよりも、その背後にある、何だか不気味なペシミズム。もしかすると『ルーパー』もまた、「ぼくたちが現代的ペシミズムにうまく慣れ親しむようにさせようとする流れにあるものなのだろうか」なんて考えてしまうのだ。
 
 けれども、そのどこか不気味なペシミズムの姿を、ぼくにはうまく説明できる言葉が、残念ながら、まだないのである。