雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

クリアレーゼ『海と大陸』(2)

 クリアレーゼはメッセージを持つ映画は撮りたくない言う。しかし同時に、観客が想像力を働かせる余地のある映画を撮りたいとも言う。おそらく彼は、映画によって物語を起動させたいのだと思う。うまく物語がうまく動きだせば、あとはぼくたちが想像力を働かせて、そこに何かを読み取ることができる。誤解してはいけない、クリアレーゼは、メッセージを押し付けたくないと言っているだけで、そこにメッセージを読み取ってはならないとは言っていない。

 

 というわけでぼくは、彼の映画にメッセージを(勝手に)読み取った。それを、不思議なことに村上春樹の「エルサレム・スピーチ」が、それを代弁しているようだと言った。不思議だというのは、時間的には村上春樹が先だつからだ。まるで予言のようだが、よく考えてみれば、こんなふうに言えば不思議ではないのかもしれない。村上のスピーチもクリアレーゼの映画も、なにか普遍的なものに触れているのだ、と。

 

 村上春樹のあのスピーチは、「壁と卵」の話で有名だ。けれども「卵と壁」が、どんなふうにクリアレーゼの『海と大陸』と関係するのか(あるいはしないのか)。もちろんその判断は、これから映画をご覧になる方が各自していただくしかないが、ぼくとしては、そうだと言ってしまった以上、少し説明してみたいと思う。しかし、その説明をするためにも、少し遠回りをさせていただきたい。

 

 まずは映画のタイトルの確認だ。邦題は『海と大陸』。わるくない。むしろ内容にふさわしいタイトルだと思う。けれどもそれは、ご多分に漏れず、少しだけれどオリジナル・タイトルと違う。原題に「海 mare 」という単語はない。ただ Terraferma という。

 

  Terraferma とは何か。もちろん「大陸」のことでもあるが、それだけではない。そこでこの言葉について少し考えてみたい。というのも、それが「壁と卵」の話をするための近道だと思うからだ。イタリア語になじみのない人には、ややこしいかもしれないが、しばしのご辛抱を。

 

 Terraferma の組成は〔 terra + ferma〕となる。まずは名詞 terra の意味。これは元々「水」に対する「乾いた場所」のことで、その意味は「陸地 terreno 」から「故郷 paese 」、さらには「地球 globo terrestre 」にまで及ぶ(そういえば、読んでないのだが、『地球(テラ)へ…』というマンガがあった。あのテラが terra だ)。この terra に続く ferma は形容詞 fermo の女性形。意味は「動かない・揺るぎがない」。つまり terraferma とは「揺るぎない大地」ということになる。しかし、そもそも「大地」はふつう動かないし、揺るがないものだ。それを何故わざわざ「動かない・揺るがない」という必要があるのだろうか。

 

 おそらく Terraferma は、ただの terra ではない。それは何か「動くもの・揺らぐもの movente 」に対して、「揺るぎがない」ことが強調されるような terra なのだ。では terra に対して「動くもの・揺らぐもの」とは何か。おそらくそれは「海」なのだろう。海は「穏やか sereno 」だったり、「荒れた mosso 」ものだったり、様々な表情の「動き・揺らぎ」をみせる。しかし突然の「動き・揺らぎ」は海に生きる者にとって生死の分け目となってしまう。だから彼らは、船を降り陸に上がること(上陸)を sbarcare sulla terraferma 。文字通りには「船から ‘揺るがない大地’ へと降りる」。危険な海から陸にあがるときの安心感が、まさにこの「揺るがない大地 la terraferma 」という言葉に込められているのだろう。

 

 おそらくクリアレーゼもそう考えている。映画の冒頭、 “Terraferma” が現れるところを確認してほしい。その白い文字は、まず漆黒の背景に最初小さな点として姿をみせる。それはゆらゆらと広がり、ゆっくりと輪郭を見せながら、こちらに近づいてくる。まるで暗い海を漂いゆく者が、遠くの灯火へと向かってゆくときのようだ。灯火のものとには「揺るがない大地」がある。それは海をゆくものを安心させる。しかしこの光は、Terraferma の文字としてくっきり浮かび上がった次の瞬間、まるで幻だったかのように消え去ってしまう。 そこに残る暗闇、それこそはクリアレーゼが物語を起動させる場所にほかならない。

 

 消えてしまった Terraferma をめぐる物語、それがクリアレーゼの映画なのだと思った瞬間、ぼくはあのヴィスコンティの名作を思い出した。シチリアの漁民たちを描いた『揺れる大地 (la terra trema) 』(1948年)である。そのタイトルにも「海」がなく「大地」(la terra)があるだけ。しかもそれは「揺れる」(trema)というのだ。

 

 じつのところ、クリアレーゼの作品を見るまで考えたことがなかったのだが、おそらくヴィスコンティの漁民たちにとっても、「大地」は時に荒れ狂う不安定な「海」に対置されるような、「揺るぎない大地 terraferma 」のことだったのだ。ところが、そこでの生活は仲買業者の搾取で苦しくなるばかり。だから主人公ウントーニ(シチリア方言 ‘ntoni はイタリア語でいえば Antonio だ)は、仲買人に反抗し、警察に逮捕されてしまう。やがて釈放されるものの、船を嵐で失い、恋人にも棄てられ、家族もバラバラとなってゆく。漁師が安心していられるはずの「地 la terra が揺らいでいる。それはまさに「大地が揺れる」( La terra trema)ということにほかならない。

 

 ここでようやく、あの「卵と壁」の話にをすることができる。念のため村上春樹の言葉を思い出しておこう。彼はこう言っていた。

 

 高く堅牢な壁とそれにぶつかって砕ける卵の間で、私はどんな場合にも卵の側につきます。壁がどれほど正しくても、卵がどれほど間違っていても私は卵の見方です。

内田樹『もういちど村上春樹にご用心』p.47)

 

 しかし、そもそも「脆い卵」が自分からわざわざ「高く堅牢な壁」にぶつかることはない。ぶつかって砕けるのは「大地が揺れる」ときなのだ。そのとき、主人公ウントーニは、まるで「脆い卵」のように、警察や仲買人たちの「高くて堅牢な壁」とぶつかり砕けそうになる。そんなウントーニを見つめるヴィスコンティは、村上春樹のスピーチに先立つこと60年、すでに「卵」の側に立とうとしていたのである。

 

 クリアレーゼの作品もまた、そんなヴィスコンティの衣鉢を継ぎ、あの「卵」の側に立とうとする(少なくともぼくはそう見ている)。そのヴィスコンティは、「揺るぎない大地」が「揺れる」なかで、その物語を起動させた。しかし、すでに見たようにクリアレーゼは、「大地 Terraferma 」を闇の中に消し去ってしまうことで、その物語を始めようというのだ。消えてしまった Terraferma は、そこにはない。どこか別の場所にあるかもしれないが、どこまでも不在のものとして物語を駆動するのだ。

 

 どういうことか。『海と大陸』の舞台は「大陸 Terraferma」ではなく、最初から最後まで「海」なのだ。たしかに漁民たちは登場するし、漁村もある。しかしその場所はあくまでも海のなかの「島」(isola)なのであって、「大陸=イタリア本土」(Terraferma)ではない(そもそも terraferma は「島 isola 」の対義語でもある)。もちろんその「島」は、海にでる漁民にとっての安住の地であり、そういう意味で「揺るぎない大地」(Terraferma )であったかもしれない。しかし、今という時代にあって、それはもう消えつつある。

 

 たとえばクリアレーゼの漁民たちを見よ。彼らが釣り上げようとするのは、もはや魚ではない。ほとんど獲れなくなってしまった魚のかわりに狙うのは、「イタリア本土」(Terraferma)からの観光客だ。漁民たちの多くは、自らの住居をペンションとして貸し出し、漁船をクルージング船に作りかえ、楽園としての「島」を売り出す観光事業者となっている。もちろんその楽園はかりそめのもの。秋になれば海岸から人影は消え、収入はなく、残るのは打ち寄せる波、吹きすさぶ風、そして海。その海から魚が揚がらなければ食べられない。そうなると彼らの居る場所は「揺るぎない大地」(Terraferma)ではなくなってしまう。だから、まだ若い者たちは、今いるところではなく、海の向こうの「イタリア本土」(Terraferma)に未来を見るのだ。

 

 したがって、「揺るぎない大地/イタリア本土/大陸」から遠くはなれた場所が「島」であり、まさに「海」なのだ。「海」は、人に遠い場所にあるはずの未来を見せる。だからこそ、もうひとつの「大陸 Terraferma 」であるアフリカからの難民さえも引き寄せてしまうのだ。こうして漁民たちの前に、海の向こうからの、あふれるように人を乗せた小舟が現れる。それは、イタリアのTVに何度も流された映像だ。飢えて、乾き、水平線の向こうをじっと見つめる瞳、絶望と希望に引き裂かれたその瞳。ぼくたちは、クリアレーゼの映画で、そんな瞳とも向き合うことになる。

 

 ぼくたちは、瞳に向き合う時、人は誰でも「卵」のように脆い存在であることを知る。だからこそ、誰もが「揺るがない大地」を求めるのだけれど、気がついたときには、あの「高くて堅牢な壁」が出来上がってしまっている。しかもそれは「システム」として自律している。ときにそれは、ぼくたち前に立ちふさがる。それは、ぼくたちが立つ「大地」が揺れるときであり、「揺るがない大地」が不在の、そこから遠く離れた周辺に出てしまったときだ。たとえば、それはまさに「海」なのだ。そこに立ちふさがる壁の姿は見えないかもしれない。しかし、だからこそ壁はその高さと強度を上げる。その壁には名前がある。国境という名前だ。

 

 そこに Terraferma はない。見えるとしても、遠くの灯台の灯火のようか弱く、無理に近づけば激しく拒絶されることになる。しかし、だからこそ、その灯火に駆動される物語は、その不在のなかに失われた大地の回復を激しく希求するのだろう。

 


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