雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

3月9日横浜、朝カル「アンナ・マニャーニ:芸に生き、愛に生き」(1)

 先週の土曜日、横浜の朝日カルチャーセンターで話してきました。横浜では「イタリア映画の魅力を探る、懐かしの俳優たち」と題して、ジーナ・ロッロブリージダ、クラウディア・カルディナーレシルヴァーナ・マンガノと取り上げてきましたが、今回はその4回めアンナ・マニャーニ。備忘のため、以下に概要を記しておきます。

1)芸に生き愛に生き

 今回のタイトル「芸に生き愛に生き」(Vissi d'arte, vissi d'amore)は、プッチーニの『トスカ』の有名なアリアですが、日本では「歌に生き恋に生き」として知られるもの。イタリア語のアルテ(arte)は、「技術」から「芸術」となり、そこから「歌」や「芸事」、そして「演技」も意味するもの。アンナ・マニャーニは歌も見事ですが、なによりも舞台の上やカメラの前での圧倒的な存在感がある女優さん。65歳で早逝しますが、直前まで仕事を続け、フランコ・ゼフィレッリに言わせれば「60代になって若い頃と変わらない人だった。もしかすると運命が彼女が老けることを嫌って、変わらない姿で連れていってしまったのかもしれない」と語っているほど。

 そして「愛に生きた」(vissi d'amore)。トスカではこの「amore」を「恋」と訳しますが、アンナ・マニャーニの場合はもう少し広く「愛」のほうがよいかもしれません。「恋」とは、ないものを「乞う」ことですが、「愛」ならば「乞う」を含めて「大切にする」まで含みます。アンナの場合は、恋多き女であると同時に、ひとり息子のルーカを大切に育てようとする母でもある。その意味では「愛に生きた」というのがぴったりの気がします。

2)イタリア映画の象徴

 アンナ・マニャーニという名前は、イタリア映画にとっての象徴的な存在です。パゾリーニの言葉を引用しましょう。

Quasi un emblema, ormai, l'urlo della Magnani
sotto le ciocche disordinatamente assolute,
risuona nelle disperate panoramiche,
e nelle occhiaie vive e mute
si addensa il senso della tragedia.
È lì che si dissolve e si mutila
il presente, e assorda il canto degli aedi.
*1 

 ここでパゾリーニが念頭に置いているのは、ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市ローマ』(1945)のちょうど半ば、マニャーニ演じるピーナが「フランチェスコ」と恋人の名前を呼びながら、ローマの街中名を走り出すシーン。翌日には彼と結婚するはずで、お腹にはその子供がいる。ところがドイツ軍のパルチザン狩りでフランチェスコは捕まり、連行されてゆく。その姿を見たマニャーニが叫びながら走り出す。機銃を抱えたドイツ兵たち。何もすることができずただ見つめるしかない住民たち。

 パゾリーニの言葉を訳してみましょう。

今ではもう、ほとんど象徴なのだ、マニャーニの叫びが
無秩序に絶対的な髪のふさをゆらし
絶望の景色に響き渡ると
生きながら死んだ眼差しのもと
悲劇がその意味を深めゆく。
まさにその場所で、現在は溶解して切り裂かれ
詩人たちの歌が耳をつんざく。

 すごい詩です。象徴というのは「emblema」。紋章などの寓意的な形象のことですが、そもそもは古ギリシャ語 émblema (内側に入れられたもの)。あのシーンに含意されるのが、イタリア映画だけではなく、その戦後社会にとっての特殊な点であったということであり、その意味をピーナを演じたマニャーニが担っているというわけです。まずはその振り乱した髪は、「髪のフサ」(le chicche)が複数形になっていることから想像できます。そして「絶望の景色」とは、ドイツ占領下のローマのことなのでしょう。占領下で生きる人々は「生きながら死んだ目」をしている。その目の前で、マニャーニは撃たれて倒れるわけです。だからそこの場所は、1943年9月8日の休戦協定のラジオ放送からときから、翌年6月5日の解放のまで、「現在が溶解し引き裂かれ」た占領下のローマ。「耳をつんざく」のは「機関銃の音」。それが「詩人たち」と言い換えられている。そのすべてを寓意的に含みもつエンブレムが、アンナ・マニャーニの肉体だったと、パゾリーニは歌っているわけです。

 興味深いのは、ちょうどパゾリーニのこの一節をふくむ詩集『私の時代の宗教』(La religione del mio tempo)が出版される1961年4月12日、 ソ連が「ボストーク1号」の打ち上げに成功、ユーリ・ガガーリン少佐(1934~1968)が地球に向けたメッセージのなかで、アンナ・マニャーニの名前を出していることです。有名なのは「地球は青かった」ですが、彼はイタリア映画の『無防備年ローマ』や『婦人代議士アンジェリーナ』が大好きで、だから地上に向けてこんな挨拶を送っていたというのです。

人々の友愛に、芸術世界に、そしてアンナ・マニャーニに挨拶を送ります。

Saluto la fraternità degli uomini, il mondo delle arti, Anna Magnani.

il messaggiero 紙より

 もうひとつ、アンナ・マニャーニをイタリア映画の象徴的な存在にしたものに、1955年のアカデミー主演女優賞の受賞があります。映画はバート・ランカスターと共演した『バラの刺青』。これはテネシー・ウィリアムズの同名戯曲の映画化で、マニャーニはシチリア移民のセラフィーナを英語で演じてアカデミー賞に輝くのですが、これは英語を母語としない俳優としては初めての受賞。のちにソフィア・ローレンが『ふたりの女』で同じ賞を受賞しますが、これはイタリア語による演技。少し意味合いが違うわけです。

3)出自からデビューへ

 アンナのデビュー作は1934年の『La cieca di Sorrento』(ソレントの盲女)。続いて、『Tempo massimo』(制限時間)と続きます。

hgkmsn.hatenablog.com

 

hgkmsn.hatenablog.com

 1930年代の冒頭、映画界は技術革新の波がおしよせていました。トーキー映画の誕生です。それまでのスターたちは、もはやカメラの前で微笑んでいるだけではすみません。セリフを語り、できれば歌も歌えると良い。実際、画面から声がでるのなら歌を歌えればなおよいわけですから、アンナ・マニャーニはじつにピッタリだったわけです。

 なにしろアンナは16歳でローマのサンタ・チェチリア音楽院に入ってピアノを学び、18歳のときに併設されていたエレノーラ・ドゥーゼ演劇学校に転入、本格的な舞台の勉強に打ち込むと、1927年に19歳でプロの劇団と契約して仕事を始めます。しかし本格的な芝居では端役しかもらうことができず、やがて歌って踊り即興芝居もある軽喜劇の世界に移ります。1931年には軽喜劇の劇団と契約し、劇団長アントニオ・ガンドゥシオに認められ(愛人となったとも言われています)、主役をまかされるようになったというのです。

 観客から拍手喝采をうけることは、アンナにとっては大いなる喜びでした。それは彼女の出自にも関係します。彼女は両親の愛を知ることなしに育ったのです。アンナ・マニャーニの評伝を記したが、その出自について調査しています。というのも、しばしばマニャーニはエジプト生まれだと誤って伝えられてきたからです。その出自の部分を訳出しておきます。

 アンナの母親であるマリーナは、ラヴェンナに生まれたフェルディナンド・マニャーニとその妻ジョバンナ・カサディオの娘だ。ふたりは若くして結婚した。市裁判所の案内人の仕事のおかげで、かろうじて家族を養えるようになったからだ。結婚の最初の7年間に生まれたのがマリア、マリーナ、ヴェーネレ(リナと呼ばれることになる)そしてドリーナ(すぐにドーラと呼ばれる)。フェルディナンドはチェゼーナに移動になり、そこでオルガが生まれる。カターニアではただ1人の男の子ロマーノが日の目をみる。ラクイラでは末っ子のイタリアが生まれる。1905年7月1日、一家がフォルリーから引越してきたときのローマは、まだ田舎町が大きくなったていどの場所だったが拡大しつつあり、なかでも碁盤の目のように広がるプラーティ・ディ・カステッロ地区(現在のプラーティ地区)は開発が進んでいた。そこはヴァチカンと最高裁判所の入ったパラッツォ・デッラ・ジュスティーツィア(正義の宮殿)に挟まれた地区なのだが、そのローマ人から「醜い宮殿」と呼ばれる裁判所が、フェルディナンドの職場であり、ヴァチカンの壁にほどちかいカンディア通りに、マニャーニの一家は引っ越してきた。引っ越しを重ねたフェルディナンドだったが、ここで定年まで仕事を続けることになる。妻ジョバンナは腕の良いお針子さんで、その仕事で家計を助けた。やがて娘たちもお針子を始める。若いころは誰もそんな仕事をしたのだが、なかでもひとりずばぬけていたのがオルガだった。彼女は何年も後にエジプトのアレクサンドリアに引っ越し、アトリエを開いて有名になる。

 家族の中で最も落ち着かないのはマリーナだ。気が強く、なにごとにも我慢がきかない。ローマに来てから2年後には、結婚してから子どもを持つという決まりごとを破る。まだ20歳で結婚もせずに妊娠する。彼女は、サラリア通り126番にある施設「アジーロ・マテルノ」で出産。この施設は、わずか5年前に「未婚、未成年または若い母親をリハビリし、仕事や家族に戻すために、維持し、世話をし、支援する」目的で生まれた慈善団体だ。1908年3月12日に、マリーナは3月7日午後1時30分に娘が誕生したことを届け出ると、子供の名前にアンナ・マリアを選ぶ。出生証明書に記載されているように、父親については「婚姻関係のない男性であり、認知をさまたげるような親戚関係にはない」(non coniugato, non parente né affine con lei nei gradi che ostano al riconoscimento”)とされている。その数ヶ月後、彼女はエジプトのアレクサンドリアに出発すると、多くのイタリア人が住んでいるエル・アタリン地区に住むことになる。

アンナの父が認知のために現れることはない。数多くのインタビューで彼女がわずかに明かしたことしかわかっていない。「何度言えばわかるの。わたしは道で拾われたわけじゃない。高校だって行ったし、8年間もピアノを学ためにサンタ・チェチリア音楽院に通ったわ。エジプトでエジプト人の父から生まれたともいわれけれでも、それも同じこと。わたしはね、ローマでローマ人の母親とカラブリアの父から生まれたの。出生証明書にも書いてあるわ。母は私を産んだ後でエジプトに行った。まだ20歳で結婚もしてなかったから、当時はスキャンダルだった。だから母はエジプトに行き、私はここローマで祖母のところに残ることになったわけ。   はっきりさせておきたいのだけれど、わたしの姓が父方のものじゃなくて、母方の姓だからといって、何も恥ずかしいことはない。父とは会ったことがない。知っているのはカラブリア人だってこと、そして姓をデル・ドゥーチェというってことだけ。なのに、どうしてみんな、よってたかって私をエジプト人にしたいのかしらね?」
 エジプトはそれでも意味のある場所だったのだろう。叔母のオルガとイタリアはエジプトに行くことになるし、1913年、異父姉妹の妹イヴォンヌ(ミーナ)が生まれる。そこは、将来の夫となるゴッフレード・アレッサンドリーニが生まれた場所でもある。そのアレッサンドリーニのメモワールによると、アンナは自分の父が本当はエジプト人だったと告白したことがあるという。
 1923年に、母に会いにゆく。「初めて彼女に会ったとき私は9歳で、2回目は15歳のときでした。この2回目に、私が彼女に会いにエジプトに行ったのです。とても自慢なことでした。こんなに長い旅行をしたのは初めてでした。ナポリは、ナポリとエジプトのアレクサンドリアをつなぐ最も美しい船「エスペリア号」に乗り込みました。船の中で私は夢を見たのです。ああ、なんて夢だったのでしょうか。 エジプトを見たとき、まるで本のページから飛び出してきた世界のように思えました。私は『アトランティス L’Atlantide』(ピエール・ブノア Pierre Benoit、1886 - 1962、イタリア語訳は1920年)を読んでいましたが、私が見たのはアトランティスでした。それから私は母に会いました。彼女は笑い、私も笑いました。私は彼女を楽しませる馬鹿げた帽子をかぶり、彼女が笑うのが嬉しかった。可愛らしい娘だと良い印象を持ってもらえるように帽子をかぶっていたかと思うと…。その日以来私は二度と帽子をかぶることはりません。お母さんのことは、すぐに気に入りました。話し方もよかったし、話し方も大好きでした。素晴らしいユーモアのセンスがあったのですよ、私の母ったら。その気になれば、何時間も涙を流して笑わせてくれたことでしょう。そして、その性格ときたら。高貴で勇敢な女性だったのです。妹にも会いました。私より4歳年下で、学校に通っていました。私にとっては、永遠の休暇でした。私はレストランや映画館に連れて行っていってもらいました。母はオーストリア人と結婚し、美しい家に住んでいました。毎日、私たちは豪華な建物に食事に行きました。残念ながら、私は本当の心を勝ち取ることができませんでした。一緒にいる喜びと私を取り巻く贅沢にもかかわらず、私はすぐにローマに戻りたいと思いました。突然、自分の貧しい家が恋しくなりました。叔母たちがいて、夕方に仕事から帰りながら、何があったか話をしながら、皿を洗わなければなりません。けれども、ここでは使用人に囲まれ、雰囲気は全くちがいます。ゼラニウム、鶏、私の部屋、そして何よりも祖母がいないのです。今ならわかります。そのとき15歳だったわたしが、小さい頃に祖母がしてくれたような抱擁を、そのときの母親に期待することなどできなかったのです。祖母は私を膝に乗せ、寝かしつけ、梳かして、おとぎ話をしてくれました。わたしは、手に置けない子供でした。祖母は時々私を眠らせるためにおとぎ話をしてくれたのですが、話をしているときは眠ったふりをして、ベッドから立ち去ろうとするときになると、「もう1つ、別のおとぎ話」と叫んだのです。エジプトではすべてが違いました。私は、まだ小さな女の子のふりをするに大きくなりすぎていたのです」

"UNA LACRIMA DI TROPPO E UNA CAREZZA IN MENO", in Matilde Hochkofler, Anna Magnani, 2018.

 アンナに映画の話が来るころは、1929年に祖母ジョヴァンナが、1930年には祖父フェルディナンドが逝去したころ。最初は映画の吹き替えで声がかかり、やがて本格的な助演者としてスクリーンデビューを果たすことになったのです。

4)結婚、そして出産... 

 アンナは1935年に結婚します。お相手は映画監督のゴッフレード・アレッサンドリーニ... 


(続きは今度。今日は疲れたのでこの辺で)


 

 

*1:Pier Paolo Pasolini, Poesie, Garzanti 2001, p.73

カルロ・ルドヴィーコ・ブラガッリャ『人生は素晴らしい』(1943)短評

日本語版DVD。24-41。マニャーニ祭り。これは楽しい。堪能した。

 実はタイトルだけは知っていた。ロベルト・ベニーニの『ライフ・イズ・ビューティフル』と同名があるという記事を読んだからだ。今回はアンナ・マニャーニを追いかけながらのキャッチアップ。マンガノは主役ではない。けれど実に印象的なコメディエンヌとして登場する。天性の魅力なのだろうか、少し天然の夢想家のヴィルジーニャの依代となる。

 このころのマニャーニは、レビューの舞台でも人気がでていたころ。前年の1942年に息子ルーカが生まれたばかり。母子家庭だからがむしゃらに働いていたころ。しかも、映画が公開されたのはイタリアがドイツの占領下に入ってから冬。その寒い冬の時期に、この映画はとりわけローマで、異常なほどの熱気で迎えられたという。かくも厳しい状況にあって、いったいどうやったら「人生は素晴らしい」と言うことができるのか。観客たちはそれを確かめようとしたのだという*1

 ヒロインはヴィルジーニャの妹ナーディア。当時としては珍しく、女性なのに大学で農学を学び農園を経営しているという設定。演じるのはヴィットリオ・デ・シーカの妻となるマリア・メルカデル。その相手役はアルベルト・ラバッリャーティ 。だから映画はミュージカル仕立てのコメディで。当時のラジオのスター歌手ラバッリャーティが歌いまくる。

 ラバッリャーティは、ムッソリーニの愛人クララ・ペタッチも魅了したらしいのだけで、ムッソリーニの方は彼が大嫌いで「イタリアにはラバッリャーティやトスカニーニ*2は必要ない」と怒鳴っていたという。

 

以下、映画のあらすじを記す。


****************

 アルベルト伯爵(アルベルト・ラバッリャーティ)はカジノで財産を失って暗い顔をしている。それを見つめる眼光の鋭い男がいる。伯爵が薬を飲もうとするのを見て、男が止めに入る。自殺してはいけないと諭すのだが、じつは胃薬だった。しかし、自殺という言葉を聞いて、アルベルトはそれもいいかもしれないと言い出す。そこで男が自己紹介する。男の名前はルチェディウス博士(グアルティエーロ・トゥミアーティ)。新薬の血清を開発しており、人間の治験を探しているのだという。大変危険な治験なのだが、命を捨てるくらいなら、新しい血清の治験に協力してくれないか。どうせ死ぬのなら科学の進歩のために役立ってほしい。治験までの10日間を過ごすために、十分なお金も用意するという。
 アルベルトは、博士の申し出を受けることにする。お金をもらい、一度は帰ろうとするのだが、ふたたびカジノに戻りすべてをすってしまう。失意の夜。雨が降る。雨宿りのために飛び込んだトラックの荷台で、アルベルトは放浪者のマッテーオ(ヴィルジーリョ・リエント)と出会い意気投合。ふたりは、突然に出発したトラックに乗せられて郊外に連れてこられてしまうが、「La vita è bella」を歌いながら、とある農場にゆきつくことになる。


 

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 ひとりの男が屋敷の塀を乗り越えてゆく。あやしいと思った2人がおいかけると、部屋に入って誕生部のケーキを取り出し、蝋燭をさしてテーブルにセットして出てゆくのではないか。腹が減ったふたりは、残されたケーキを一口もらおうと忍び込んだところに、屋敷の住人で声楽家のヴィルジーニャ(アンナ・マニャーニ)が現れる。名前からして笑わせる。ヴィルジーニャはバージンの意味。マニャーニはこのころ35歳。私生活では前年の 1942年にルーカを産んだばかり。そのマニャーニが演じるのが、恋に恋するヴィルジーニァ。ここはニヤリとするところなのだろう。

ヴィルジーニャ(アンナ・マニャーニ

 ヴィルジーニャは、ケーキを手にするマッテーオを見て誤解する。私の誕生日ケーキなの。誰の使いなのか。マッテーオは外で待っていたアルベルトを指差す。ああ、あなただったのね。ずっとお待ちしておりました、とヴィルジーニャ。いつもお手紙を届けてくれるのに姿を見せない。それが今日はついにおいでになってくださったのね。実は、ずっと手紙を書き続け、今日のケーキを持ってきたのは近所に住む音楽家のレオーネ(カルロ・カンパニーニ)だったのだが、ヴィルジーニャはその気持ちに気づいていないという設定。
 そこにヴィルジーニァの妹ナディーナ(マリーア・メルカデル)が登場。大学で農業を学び、一人で農場を経営する優秀な女性。アルベルトはそんな彼女と偶然ふたりきりになる。姉と違って、わたしはロマンチックなセレナータなんてわからないと言うナディーナに、アントニオはそんなことはないよと、セレナータを歌い出す。心動かされるナディーナ。

アントニオ(ラバッリャーティ)とナディーナ(マリア・メルカデル)

 その後アントニオは、じつはケーキを持ってきたのは自分ではないとの告白し、それまでの事情を説明することになる。ナディーナはそれなら、マッテーオとふたりうちで働けばよいではないかと提案。こうして、アントニオは彼女の農場で新しい人生に感謝することを学ぶのだが、彼にはルチェディウス博士との約束があった。

レオーネ(カルロ・カンパニーニ)とヴィルジーニャ(マニャーニ)

 その間、騙されたことに怒ったヴィルジーニャは、自分にゾッコンのレオーネを巻き込んで、アントニオを逮捕させたりするのだが、ナディーナの尽力もあって釈放。これで約束を果たせると、アントニオはルチェディウス博士のもとに向かうのだが、そこにはマッテーオから事情を聞いたナディーナが先回りしており、博士に危険な治験を取りやめるように頼んでいた。約束通りアントニオが現れる。絶望するナディーナ。血清を射ってくれと頼むアントニオ。このとき博士が思いがけないことを言う。いやもう血清は射ってある。君は生き延びたんだよというのだ。
 実のところ、血清の治験話は方便で、博士は死にたいと思っている若者に生きるすばらしさを教えようとしただけだったというのだ。その名前ルチェディウスのとおり、「光」(ルーチェ)を名前に持つ博士が説明する。

人生の価値がわかるのは、それが失われるのが確実になったときだからね。そのとき初めて人生の価値のすべて、その美しさのすべてが理解されるのさ。
Perché la vita si apprezza soltanto quando si ha la certezza di perderla! Solo allora se ne comprendono tutti i valori, tutta la bellezza!

 

*イタリア語版の映像はここで全編見ることができます。

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ここでは日本語付きで鑑賞可能。ただ画質が少しあらい。

イタリア版はこちら。僕は持っていないのですが、経験からすると上の「CRISTALDIFILM」の方を買いますね。版も新しいので。「Bibax」はどうなんだろう。YouTube の映像はこちらからみたいですが、日本版よりも断然よいですね。

 

*1:Vedi. "Qunado nacque mi figlio fu un gran giorno" in Matilde Hochkofler, Anna Magnani, Bompiani, 2018.

*2:トスカニーニは反ファシズムの象徴的存在。1931年にボローニャファシスト党歌の演奏を拒否、暴徒に襲われたという。ムッソリーニはこの音楽家を警戒して監視。トスカニーニがイタリアの指揮台に立つのは戦後になってからだという。

フェリーニ&ロータ(3):『カビリアの夜』と音楽の力

 昨日朝カル立川で「イタリア映画を聴く」のシリーズとして「フェリーニとロータ(3)』を話してきました。ほんとうは『カビリアの夜』『甘い生活』そして『8½』の3本を話すつもりだったのです。でもね、いやいや、フェリーニ&ロータは奥が深い。結局はほとんど『カビリアの夜』に終始、少しだけ『甘い生活』と『8½』に触れると止まりました。

 でもまあ、これでよかったのではないでしょうか。だってね、急いで進んでも意味がない。ゆっくり話しながら、少しずつ発見してゆくのが楽しい。そんなぼくの楽しさを、みなさんと少しでも共有できていたらうれしいかぎり。

 1950年代のフェリーニは、偶然のデビュー作『白い酋長』(1952)と『青春群像』(1953)を撮ったあとで、本格的に自分の作品に挑戦することになります。その第1作が『道』(1954)、つづいて『崖』(1955)、そして締めくくりに『カビリアの夜』(1957)を発表します。この3つの作品は、それぞれ戦後のイタリアが新しい時代に進んでゆくとき、そこから取り残され、排除された人々を主題にしています。『道』のザンパノとジェルソミーナは旅芸人、『崖』のアウグストやピカソたちはペテン師、そして『カビリアの夜』のカビリアは娼婦なのです。

 この3作を「排除された人々の三部作(trilogia degli esclusi)」と呼んだ人がいました。よくわかります。おそらく最も完成されていたのが『崖』(原題の「 il bidone」は「ペテン」の意味)だと思うのですが、これは興行的には失敗に終わっています。それでも、この作品がいちばん「排除された人々」という主題を明確にしているのではないでしょうか。ペテン師にだって「精神的な崇高さ」が垣間見えるときがある。そして、その「崇高さ」を言葉ではなく、映像と音楽的なモチーフで示して見せたのが、実にフェリーニらしいところ。

 そうなのです。映像だけでは足りないのです。音楽的なモチーフがあってはじめて、言葉を超える何ものかを表現することができる。有名なのは「道」のテーマ曲ですね。ラストにこの調べが奏でられると、精神的な救いの光が差し込んできたように感じられます。同じように『崖』のラストでも、精神的なモチーフが流れます。それがこれです。

youtu.be

 すばらしいモチーフです。『道』のそれよりも知られてませんが、全体を通して見ると、ロータによるこの調べが、じつに精神性のあるものだというのがわかります。なによりも、最後に主人公アウグストが死ぬという展開にもかかわらず、それがじぶんの娘のためであり、誰かのために死ぬのだという精神性が強調されるわけです。けれども言葉にしてはつまらない。映像だけでもわからない。だからロータのモチーフは必須だったわけです。

 それがカビリアではもっとはっきりとした形で出てくる。カビリアの精神的なものを表すテーマは4つあります。

 Tema A はカリヨンによる透明な演奏で、非常に精神性の高い美しいモチーフ。Tema B は躍動的に盛り上がるモチーフで、Tema C でジャジーで楽しい演奏。このふたつは、カビリアが新しい恋をしたり、自分で元気を出そうとするときに用いられます。いわば彼女の精神的な活力とでもいえばよいでしょうか。そしてTema D は別名「ラリリラー」(Lla Ri Lli Ra)というタイトルが付けられたダイナミックな曲。いわば「希望」と「裏切り」の両方を含み持つテーマであり、これこそがフェリーニの「排除された者たちの三部作」を締めくくるものだと言ってよいかもしれません。

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 サウンドトラックとして録音されているものには、うえのABCDが入っているのですが、映画のオープニングではAが排除されています。おそれくこれには、Tema A と結びつくシーンのカットが影響しているのではないでしょうか。

 Tema A はふたりの人物との出会いのモチーフです。ひとりは「ずた袋の男」(Uomo del sacco)。もうひとりが「修道士ジョヴァンニ」(Frate Giovanni)です。

 

 「ずた袋の男」は実在の男だそうです。フェリーニが、おそらくパゾリーニとともに夜のローマをドライブしいるとき出会ったのだというのです。さまざまな人物と話している映画の素材をあつめているとき出会ったその男は、「ずた袋」を背に、夜な夜なローマの郊外の洞窟で暮らしている浮浪者たちに食糧などの必需品を配って回っていたといいます。

 ところが、その慈善活動が問題となります。それは本来カトリック教会がすべき仕事。それを世俗の男にされてしまったのでは、教会としては非難されているようで、どうもよろしくない。そういうこともあってか、敏腕プロデューサーのディーノ・デ・ラウレンティイスもまた、映画として必要がないと言い張るのですが、フェリーニはなかなか首を縦に振らない。そこで、このナポリ人プロデューサーはその部分のフィルムを隠してしまったのだというのです。その後ほとぼりが覚めた頃、フェリーニがあれを返してくれというと、ニヤリと笑って返してくれたというのが笑えます。じつにデ・ラウレンティイスらしい。

 ところで、この「ずた袋の男」を演じたのが、レオ・カトッツォという脚本家にしてフィルムの編集マン。彼を有名にしてのがカトッツォ・スプライサーというフィルムの編集機。じつはカトッツォ、それまでカットしたフィルムを繋ぎ合わせるのに使われていたアセトンにアレルギーで、しかたなくこのカットしたフィルムをテープで簡単に接着できる機械を発明したというのです。この発明のおかげで、編集点を何度もやり直すことができるようになったわけですが、その最初の映画がこの『カビリアの夜』だったといいます。だからフェリーニ言わせると、あのカトッツォ・スプライサーは、最初「カビリア」と呼ばれていたらしいのです。

  

 さて、この Tema A が使われるもうひとりの人物が「托鉢の修道士ジョヴァンニ」は、カビリアに神の慈愛に包まれて幸せになることを説き、結婚して子どもをもちなさいと勧めます。こうしてカビリアは、そのときまでにデートを重ねていた恋人オスカーに、自分が娼婦であることを勇気を持って告白することになります。幸いというよりは不幸なことに、このオスカーという男は平然と、それでも結婚したいと応じるます。カビリアは心踊り Tema B と C が高鳴ります。実はこのオスカーが食わせものなのです... 

 その前に「托鉢の修道士ジョヴァンニ」に注目しておきましょう。というのも、このフランチェスコ会の托鉢修道士を演じたのが、サイレント時代から活躍した喜劇役者のフェルディナンド・ギヨーム(1887 – 1977)、イタリアではポリドール(Polidor)やトントリーニ(Tontolini)として知られる人なのです。

 フェリーニは、サーカス出身のポリドールを『カビリアの夜』だけではなく『甘い生活』や『8½』でも起用します。とりわけ『甘い生活』でナイトクラブ「チャチャ」でトランペットの道化師は印象的でしたよね。

 『8½』ではクレジットされていませんが、ラストシーンの道化師のひとりが彼だったと言われています。たぶん先頭をゆく道化師がそうなのでしょう。

 さて、Tema B と C については割愛します。映画をご覧いただければ、さまざまなところで耳にすることができると思います。

Tema B 

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Tema C 

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 また娼婦のテーマというのもあるのですが、これはカビリアが娼婦仲間といる時のモチーフ。いわば、彼女の仕事のマスケラといえばよいのでしょうか。

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 今回のぼくの発見は Tema D です。これには「ラリリラ」という別名があり、ナポリ方言の歌詞までがついているのです。歌詞はあとからつけられたものではなく、その歌詞を劇中で実際にギターを抱えた男が歌っているのです。いやあ、何度も見た作品なのですが、今回音楽に注目しながら見直してみて、はじめて気がつきました。しかも、その歌詞がまたすごい。シーンのなかにいるカビリアに語りかけるような内容になっているではありませんか。これにはおどろきました。

 ともかくも、最初にこの Tema D が聞かれるのは、映画の冒頭でテヴェレ川に突き落とされる直前にカビリア本人が口ずさんだもの。カビリアは、恋人のジョルジョとの将来に希望を持っているようすなのですが、サングラスをしたジョルジョは、大金の入ったバックを奪うと、彼女を川に突き落として逃げてゆく、そんなシーンです。まさに「希望/裏切り」のテーマといえばよいでしょうか。

 同じテーマは、ディヴィーノ・アモーレの聖マリア教会への巡礼のあとのピクニックでも聴かれます。カビリアはそのとき、もしかすると本当にマリアの奇跡というものがあって、じぶんも娼婦の仕事から抜け出すことができるかもしれないと「希望」を抱くのですが、ほかのおおうの巡礼者と同様に、奇跡はそう簡単に起こりません。だから「裏切られた」と感じるわけですね。

 この Tema D が歌詞つきで聴かれるのが、オスカーに結婚を申し込まれたカビリアが、家を売り、銀行から有り金をおろし、全財産を持って新しい生活に進もうとするときです。それはアルバーノ湖を臨む高台のトラットリーア。オスカーとカビリアの席の後ろで、ギターを抱えた男がこのテーマ「ラリリラ」を歌詞付きで歌うのです。

 ギターの男は実際のカンツォーネ歌手エリオ・マウロ(1934-1983)。当時はけっこう活躍しており、ヴィスコンティの『若者のすべて』(1960)で「Paese mio」を歌っているのもエリオ・マウロです。

 ここでもうひとつ念頭においておきたいことがあります。このアルバーノ湖では、映画の2年前の1955年に、結婚詐欺の被害にあったカターニャシチリア)出身の女性アントニエッタ・ロンゴの遺体が発見されているのです。事件はいまだに迷宮入り。そしてこのシーンもまた、その同じアルバーノ湖で撮影されたものなのです。

 当時の観客は、カビリアの姿に同じ湖で殺されたシチリア人女性を重ねていたかもしれません。そして、背後の席に座るエリオ・マウロは、騙されようとしているカビリア/アントニエッタに語りかけているように聞こえます。その歌こそが Tema D (Lla Ri Lli Ra) 。
 

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 曲はニーノ・ロータ。歌詞はナポリ方言で Enzo Bonagura (1900-1980) の手によるものだそうです。ナポリカンツォーネが、フェリーニの映画に登場するのは、これが最初で最後だそうです。ナポリの響きは、シチリアの田舎から出てきた女性への語りかけに聞こえるのでしょうか。大都会ローマに働きに出て、愛/結婚という希望をつかんだと思った瞬間に裏切られてしまう。アントニエッタ・ロンゴはそれで命を落とし、今まさにカビリアも同じ運命にある。でもこの歌は「でも大丈夫だよ。また歌えばいいじゃないか」と励まします。まるで亡き魂への鎮魂歌のように。

まずは原語から。

Lla ri lli ra, lla ri lli ra,
n'ammore va, n'ato vene,
nisciuno chiù te vo bene.
Nun ce penzà, ll'uocchie asciuttate,
torna a cantà comm' a me.
 
Lla ri lli ra, lla ri lli ra,
l'ammore passa comme passa 'o viento.
Te vasa pe' 'na vota e niente chiù.
Tira a campà,
nun suffri,
nun te lagnà,
se può capì,
nun penzà ca ll'uocchie chiagnine.
 
Lla ri lli ra, lla ri lli ra,
l'ammore te l'ha fatto 'o tradimento.
Nun era comme t'o sunnave tu.
N'ammore a ccà,
n'auto a ll'à.
Te pò spassà,
nun te felì *1
che vuò fa si ll'uocchie chiagnine?
 
'O tiempo va, se pò scurdà
pienza a canta

以下に拙訳です。

ラリーリラー ラリーリラー

愛がひとつ去り またひとつやって来る

もう誰にも 愛してもらえないの?

よくよしないで 涙を拭いて

また歌えばいいさ 僕みたいに

 

ラリーリラー ラリーリラー

愛は通り過ぎてく 吹く風のように

一度はキスもしてくれる けどそれで終わりさ

前を向いて 大丈夫だよ

嘆くのはおよし 気持ちはわかるさ

大丈夫 ただ涙が 流れてるだけだから

 

ラリーリラー ラリーリラー

愛があなたを 裏切ったのだね

夢見たものとは 違っていたんだね

ここにも愛がひとつ あそこにもひとつ

揶揄われても仕方ない めげてはダメ

しかたがないのさ 涙がながれても

 

時は過ぎる 忘れられるさ

歌っておくれよ ラリーリラー

 

愛は通り過ぎてゆく 吹く風のように

だから風のように 留まることはできないのさ

 こうしてカビリアは、アントニエッタ・ロンゴのたどった最期を再現し、しずかに立ち上がって彼女を追悼すると、森の中へ歩き出します。するとそこには、ふたたび Tema D (Lla Ri Lli Ra) が流れてきます。それは「希望から絶望へ」のテーマだったのですが、ラストシーンでは「また歌えば良いさ」という歌詞にあるように、「絶望から希望へ」向かうテーマとなります。

 それがあの有名なラストシーン。トリフォーが衝撃を受けて『大人は判ってくれない』(1959)に引用したシーンですね。『ラリリラ』を演奏する若者たちに囲まれ、次第に希望を取り戻してゆくカビリア。ひとりの女性から「Buona sera」(こんばんは/良い夕べを)と挨拶されると、じぶんも少年たちに目で挨拶を返してゆきます。ひとり、ふたり、そして最後にカメラに向かって軽く会釈する。その目はぼくたち観客に「Buona sera」と語りかけてくれるのです。

 この映像とこの音楽だからこそ、絶望の淵に希望の光が差し込んでくる。それは映像に力であり音楽の力でもある。なるほどカトリック的。それも本来の意味でのカトリック(普遍)的な力。なんど見てもぼくは、ここで落涙してしまうのです。

 

 

*ぼくは正直、音楽は詳しくない。楽譜もほとんど読めない。そこで上記の分析は M.Thomas Van Ordier さんのこの著書を参考にした。記して感謝の意を表明したい。

*『カビリアの夜』『甘い生活』『8½』については、クライテリオン版の「Essential Fellini 」を参照している。ブルーレイだと汗まで見えるのが新たな発見。『カビリア』の場合、ヴァリエタの舞台で空想のオスカーと踊っているカビリアが、最後に「ほんとうに愛してくれているのね」と繰り返し始めるシーンで彼女の額に浮かぶ汗。それを見て催眠術師のアルド・シルヴァーニはハッとして催眠を解く。あのスリリングなシーンの「汗」を確認するためにも、高画質のメディアを手元においておきたいところ。

*日本版のブルーレイはこちら。

 

 

 

 

ここで Tema A, B, C, D が聞ける。

Le notti di Cabiria

Le notti di Cabiria

  • provided courtesy of iTunes

これは娼婦のテーマ。

Donne di vita, mambo di Cabiria

Donne di vita, mambo di Cabiria

  • provided courtesy of iTunes

エリオ・マウロが歌う「ラリリラ」。映画だと聞こえにくいところもはっきり聞こえる。

Lla ri lli ra: La trattoria

Lla ri lli ra: La trattoria

  • provided courtesy of iTunes

大御所ロベルト・ムーロロによる「ラリリラ」。歌詞が少し違うのだけど、これはこれでよい。

Lla-Rì Lli-Rà

Lla-Rì Lli-Rà

  • ロベルト・ムローロ
  • ワールド
  • ¥153
  • provided courtesy of iTunes

ムーロロ版の歌詞

Lla ri' lli ra' Lla ri' lli ra'
N'ammore va, n'ato vene
Nisciuno chiù te vo bene?
Nun ce penzà, ll'uocchie asciutate
Torna a cantà comm'a me

Lla ri' lli ra' Lla ri' lli ra'
L’ammore passa comme passa 'o viento
Te vasa pe' 'na vota e niente chiù.
Tira e campà
Nun suffrì
Nun te lagnà [se può capì ] 
Nun ce penzà ca ll'uocchie chiagnine

Lla ri' lli ra' Lla ri' lli ra'
L’ammore te l'ha fatto 'o tradimento
Nun era comme t' 'o sunnave tu?
N'ammore 'a ccà
N'ato a ll'à.
Te può spassà  [nun te felì] 
Che ce vuò fa si ll'uocchie chiagnine?

'O tiempo va, se può scurdà 
pensa a cantà: Lla ri' lli ra' Lla ri' lli ra'.

Nun dice chiù: Casa mia!
Nun tiene chiù cumpagnia
E che vuò fa? Te vuò accidere?
Torna a cantà 'nzieme a me 
Lla ri' Ili ra' Lla ri' lli ra'

ブルーの部分は、サントラ版(エリオ・マウロ版)にはなく、ムーロロ版に加えられたもの。また、同じブルーで斜線をひいいた部分は、ムーロロ版では歌われていない。

ラリリラ、ラリリラ

ラリリラ ラリリラ
愛は ひとつ去り ひとつ来る
だれにも愛してもらえないって?
くよくよしないで 涙をふいて
また歌おうよ ぼくみたいに
 
ラリリラ ラリリラ
愛は通り過ぎるもの 吹く風のように
接吻してくれるのは一度だけ
前を向いて
大丈夫
泣き言はおよし
くよくよしない 涙が流れても

ラリリラ ラリリラ
愛に裏切られてしまったんだね
夢見たものじゃなかったんだね
ここにもまた愛 あそこにも愛
からかわれることもある
しかたがない 涙が流れても

時が過ぎたら 忘れられる
歌ってみなよ ラリリラ

我が家とはもう言わない
連れ添う人がいなくなる 
だからなんなの?死のうとでも言うの?
また歌えばいいさ ぼくといっしょに
ラリリラ ラリリラ

 

*1: ここは意味がわからない。ナポリ語の felirsi って、どういう意味なんだろうか? Se c'è qualcuono che sa dirimene il significato, fatemi sapere, grazie.