雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

「結婚演出家」を楽しむために


『Viva!イタリアvol.4』予告編

 

昨日の日伊協会でのベロッキオの話、備忘のためにざっと概略を。

 

まずは「結婚演出家」のイタリア語タイトル il regista di matorimoni を解説。regista は確かに「演出家」なんだけど、映画なら「監督」。ついでに matorimonio が複数形になっていることに注意を向ける。言語のイメージの問題ね。たとえばデ・シーカの「自転車泥棒」は泥棒 ladri も、自転車 biciclette も複数形なんだよね。でもジャンニ・アメーリオの「小さな旅人」(邦題)は「子ども泥棒」が原題で、こっちは泥棒は定冠詞付きの単数系 il ladro で子ども bambini は複数形。

 それからシチリアの巨匠たちの紹介。巨匠はイタリア語で maestro なんだけど、小学校の先生も maestro 。その理由は、たしかこのブログでも書いたよね。

hgkmsn.hatenablog.com

 

それでシチリアを描いた映画をみんなで写真見て当ててもらうクイズ大会。ヴィスコンティ、ジェルミ、アントニオーニ、タヴィアーニらの、例のあの映画をすこし紹介。おわかりですよね、みなさん。

 次に、ベロッキオのフィルモグラフィーを概観。出身地のボッビオを紹介しながら、彼がどんなデビューをしたかを知ってもらうために「ポケットの中の握り拳」の予告編。ポケットの中で拳を握りしめているのが、ベロッキオに通底する抗いの姿勢なんだけど、けっこう初期のころはポケットから拳を出して振り回していたんだよね。

 お題になっている「結婚演出家」に入る前に、シチリアがらみのベロッキオ作品として「エンリコ4世」と「乳母」の原作者ルイージピランデッロについて。当日紹介したのは、このシチリア人劇作家のこんな言葉。たしかこれ、タヴィアーニ兄弟の「カオス」でも触れられていたっけ。

“Io son figlio del Caos; e non allegoricamente, ma in giusta realtà, perché son nato in una nostra campagna, che trovasi presso ad un intricato bosco denominato, in forma dialettale, Càvusu dagli abitanti di Girgenti, corruzione dialettale del genuino e antico vocabolo greco «Kaos» ”

 

わたしはカオスの息子。寓意的に言っているのではない。まったくの事実として、わたしたちの村の近くに深く生い茂った森があり、その名前がグリジェントの住民たちの方言で「カーヴス」と言い、それはかつて正真正銘古代ギリシャ人たちの言葉で「カオス」とよばれたものが形を崩して今に伝わるものだということなのだ。

 

ようするに、ピランデッロのなかにある、シチリア的なものの根っこの深さを言いたかったわけ。イタリアの巨匠たちは、どうしたって共鳴してゆくんだよね。

 このあたりで、ようやくお題になっている「結婚演出家」の話へ。ともかく、冒頭の結婚式のシーンの背後にある新しい宗教運動を説明。出版された脚本によれば、主人公エリカの娘である花嫁は「fervente catecumenale convertita dal fidanzato」(新郎によって改宗させられた熱心な共同運動の信者)とあるから、あの少し風変わりなところのある結婚式は、戦後になってできた新しいカトリックのなかの宗教運動「新求道共同体の道」(Cammino neocatecumenale)が想定されているのだろう。ちなみに、この運動は2008年にベロッキオの映画が公開された2006年には、この運動は「2008年にその規約が教皇庁信徒評議会によって認証され、昨年末には《道》のカテキズムも教理省によって認証を受け」「カトリック教会における公式の認可を受けた存在」*1 となっているけれど、「結婚演出家」の公開は2006年だということに注意しておこう。

 それから主人公フランコ・エリカが、映画監督として「いいなずけ」を準備中であったことを確認。そもそもアレッサンドロ・マンゾーニのこの歴史小説の意味はどういうものだったのかを確認するために、イタリア王国が生まれる前の作品だったことを指摘。物語の主要な筋は「婚約したレンツォとルチーアが数々の困難を経て結婚する話」なのだけど、重要なのは「数々の困難」 なんだよねとか言いながら、マリオ・カメリーニの手による映画化が、この歴史小説のトーキーとしては初の映画化だったこと、それがベロッキオに影響を与えていることなどを説明しながら、ベロッキオが一番怖かったというペストのシーン、それが「結婚演出家」のなかで引用されているのだよねということで、そのシークエンスを、ちょっと厳密に説明。

 

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「ペストに犯されたドン・ロドリーゴは、廊下に足音を聞いて、身を持ち上げる」

 

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現れたのはふたりのモナット(monatto)。モナットとは、17世のペスト大流行のとき「病人や死体を収容施設に運搬する作業人にことで、しばしば死刑囚がこの仕事に従事した」という *2

 上の二つのカットが、映画のなかでは実に効果的に引用されているのだけれど、「いいなずけ」を知っている人、カメリーニの映画化に通じている人ならわかりやすいのだろうけど、それを知らないと何が起こったのか少しわからないかもしれない。いずれにせよ、オーディションのエピソードは、映画界にはいつだって、アージア・アルジェントがハーヴェイ・ワインスタインを告発したような事件がざらにあるということを思い出させてくれるわけだ。

 まあ、そんなゴタゴタに巻き込まれた主人公のエリカは、映画の企画をうっちゃって、ローマから逃げ出すんだけど、ベロッキオはコモ湖のあたりに行かせたかったみたい。でもロケハンするとうまいところがない。北がだめなら南、ということでシチリアになったらしけれど、こういう偶然というか、事の成り行きにさっとのっかるあたりは、ベロッキオのベロッキオらしいところ。でも、そのおかげで、この作品にはグッと深みでたんだと思うな。

 あとは映画を見てもらえば良いのだけど、ひとつだけこの館について確認しとこう。

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これ、じつはジュゼッペ・トルナトーレの故郷でもあるバゲリーアにあるVilla Palagonia  、別名「怪物の館」。ここはアントニオーニの「情事」でも舞台になったところだけど、ベロッキオはここで2匹の黒い怪物を登場させると、みごとな演出でセルジョ・カステリット/エリカを館に招き入れるのだけど、そのシーンが実に映画的。コミカルでリズムがよいだけじゃない。謎めいていて意味深で、みごとなふくせんとなった、あとで回収されるのだからたまらない。ヒント。黒がいつのまにか白になるだ!

 あとは登場人物の名前をめぐるお話。

 主人公のフランコ・エリカ。 Elica は「らせん」のこと。ヘリコプターのエリカだからね。 フランコは、フランク族のことだけど、自由で開いたという意味でもある。彼はカトリックではなく、むしろアーテオ ateo 、無神論者。ベロッキオもまたそうだけど、ぼくらが思うようないい加減なのではなくて、どっぷりカトリッック教育、宗教教育にそまったところから抜け出してきた無神論者。

 そのエリカをひきつけるシチリア貴族の娘のなまえが Bona (ドナテッラ・フィノッキャーロ)。それってすごく直接的に「いい女」(Bona)ってことだよね。

 また映画に登場するもうひとりの映画監督の名前もおもしろい。 Orazio Smamma というのだけど、名は詩人ホラティウス Orazio を思わせるのだけど、その姓は smammare 「逃げ出す、ずらかる」という動詞を連想させるわけだ。じっさい彼はピランデッロの「故マッティーア・パスカル」さながらに、自らを死んだことにしてしまうのだけど、その理由が I morti comandano(死者たちに操られている・死者の命令には逆らえない)。

 そう、イタリアはたしかに死者たちに操られている国なのかもしれないけれど、それはぼくらの国だってかわらない。でもイタリアにはベロッキオがいて、ポケットのなかで拳を握りしめ、いつだってそいつを振り回す心構えができている。

 そうなんだよね。この映画には、いたるところに「死者たち」が登場して運命的な悪さをしようとしているのだけど、カステリット演じる主人公は、その運命に拳を握って立ち向かう。そうはさせるかという、当時67歳の、あだまだ若いベロッキオの演出によるラストシーンは、じつに感動的。その感動は、運命を裏切ったあの「夜よ、こんにちは」のラストシーンに通じるものでありながら、ぐっとスピード感をあげて、ある種の深みさえ感じさせる。

 それはもしかすると、ラストで歌いかけてくる「In cerca di te (perduto amore)」のメロディーが映像の底を抜いてくれるからかもしれない。なにしろこの曲、1945年、ネッラ・コロンバが戦後の混乱のなかで失われた大切なひとのことを探し求める心を歌って大ヒットしたものなのだ。ただし、ベロッキオが使っているのは(予告編のなかでも聞かれるバージョン)は、あのマリアンジェラ・メラートが歌ったもの。それはそれで、ぼくはぐっときちゃうんだよね。

その歌詞はこう歌っている。

Sola me ne vò per la città,
passo tra la folla che non sa
che non vede il mio dolore
cercando te, sognando te, che più non ho.

 

わたしはひとり街をゆく

通り過ぎる見知らぬ人たちには

わたしの苦しみはわからないわよね

あなたを探しているよ、夢見てるのは、もういない人を

Ogni viso guardo, non sei tu
ogni voce ascolto, non sei tu.
Dove sei perduto amore?
Ti rivedrò, ti troverò, ti seguirò.

来る人の顔をのぞきこむけど、あなたじゃない

聞こえるこ声に耳をかたむけるけど、あなたじゃない

失われた愛しい人、いまどこにいるの?

いつきっとあえる、みつけるつもりよ、あなたのあとを追うのよ

Io tento invano
di dimenticar,
il primo amore
non si può scordar.

忘れようとしても

それはむり

初恋の人を

忘れるなんてできない

È scritto un nome,
un nome solo in fondo al cuor,
ti ho conosciuto ed ora so che sei l'amor,
il vero amor, il grande amor.

名前が刻み込まれているの

心の奥底にあなたの名前が

あなたと出会って、いまやあなたは愛しの人

ほんとうに愛している たまらないほど愛しているわ

この映画は、だから誰がなんとってもハッピーエンド。ポケットのなかに拳を握りしめながらの、そんなハッピーエンドなんだとぼくは思うのだ。

  


Nella Colombo - In cerca di te (Sola me ne vo per la città)

 


Mariangela Melato - Sola me ne vo per la città (In cerca di te)

 

ベロッキオの関連記事はこちら。

 

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Il fu Mattia Pascal

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*1:この記述はこの日記から:

新潟教区における新求道共同体の道について: 司教の日記 。また、イタリア版ウィキーの記事はこちら:https://it.wikipedia.org/wiki/Cammino_neocatecumenale 

*2: Monatto - Wikipedia 

ベロッキオのリアルをめぐって

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このところ、ベロッキオについて考えている。3週間後には、少しまとまった話をしなければならないからだ。

 

www.aigtokyo.or.jp

 

ここでは備忘のために、Filmarks のメモを再掲しておくことにしよう。

 

1)『母の微笑』

背景には、当時の時代設定(大聖年)と、個人的な母の思い出が認められる。だからベロッキオの商業監督としての価値が下がるわけではない。むしろ、自伝的な要素や社会的な要素を織り込みながら、みごとな娯楽作品を作っていると考えることもできるのではないだろうか。少なくとも僕は、「宗教の時間」のマエストラとの「かくれんぼ」のシーンには、背筋がぞっとするような感動を覚えた。

filmarks.com

 

2)『眠れる美女

じつにベロッキオらしい作品。ベルルスコーニが登場する映画として、フェリーニの『ジンジャーとフレッド』やモレッティの『エイプリル』『夫婦の危機』とならんで、記憶されてもよいかもしれない。そういえば、ソッレンティーノなんて、ベルルスコーニその人を主人公にした映画『Loro』を公開したばかりだな。

filmarks.com

 

3)『甘き人生』

この日本語タイトルって、もしかしたらフェリーニの『甘い生活』へのオマージュなのかな。少なくとも内容的にはズレっているよね。すごくよい映画なんだけど、それは「甘さ」ではない。むしろ「苦い」ものなのだけど…

ともかくもこの映画、少なくともぼくにとっては、ベロッキオのリアルを考える絶好の作品だ。下のフィルマークスのメモでは、映画と「にもかからわず(nonostant)」というイタリア語について、思いついたことを記しておいた。

filmarks.com

 

4)短編『議論しよう、議論しよう』(Discutiamo, discutiamo)(1969)
ベッロッキオは1939年生まれだから、このときちょうど30歳。映画のなかでは20代に見えた。

filmarks.com

 

5) これも追加。

filmarks.com

6) ついでにこの2本も。

filmarks.com

 

filmarks.com




ベロッキオのリアルについては前記事を参照。

hgkmsn.hatenablog.com

 

また、最近のベロッキオのインタビューでは、これもなかなか参考になる。

www.minimaetmoralia.it

 

 

映画のリアルとイリュージョン

Bella Addormentata [Italian Edition]

 

 誰かがマルコ・ベロッキオの映画のことを「幻覚的なリアリズム」と読んで/呼んでいた。

 

 なるほど、そうかもしれない。でも、あれは幻覚なのだろうか。むしろ、ぼくにはとてもリアルなものに見えたのだけど、それを幻覚と言ってしまうのは、すこしばかりイージーな気がする。


 それにしてもリアルってなんだろう。考え直すのはリアルって言葉だ。

 

 イタリア語で考えて見ると、リアルという形容詞は「レアーレ 」(reale) だ。これは「レス・アーレ 」(res -ale)と分解できる。平たく言えばそれは「レス的なもの」ということ。ラテン語の「レス」〔res〕 は「もの」という意味。これはヴェーダ語の〔rayas〕やアヴェルター語の〔rayo〕にまで遡れることができる言葉であって、そこでは「財、富」という意味を持っていたらしい。

 

 どうやら「レス」とは、それによって僕らが生きるうえで、「財産」とか「富かさ」と考えられるような「もの」に由来するものらしいのだ。そして、そんな「レス」=「もの」に関わることが「レアーレ」。

 

 だからリアリティ(イタリア語ではレアルタ realtà)は、語源的に言えば、「どういう条件ならレス的であるのか」ということであり、どうすればぼくらは豊かに生きられるのかという意味で生きる条件のことを言っていることになり、そこから派生した動詞リアライズ(イタリア語ではレアリッツァーレ realizzare )は、そもそも、そうした条件を具体化することとして「実現する」であり、フランス語経由で英語に入ったとき少し意味が変わり、そうういう事態に「気がつく」ということになったらしい。

 

 こうしてぼくらは、レアーレなものを自覚して、そこから豊かに生きようとするのだけど、まさにその瞬間にあのイリュージョン、あるいは「幻覚」にとらえられてしまうことになる。

 

 イリュージョンは伊語で「イルジオーネ」(illusione)で、これは「誤った知覚、偽りの希望」という意味だけど、これは動詞 illudere (あざ笑う、だます)の過去分詞から派生したもの。そこからさらに遡れば ludere (遊ぶ)を経る。

 

 この動詞「遊ぶ」(ludere)は名詞「遊び」(ludo)に並列し、それは gioco/giuoco (遊び)に通じる。その語源のラテン語 iucus は「言葉の冗談」の意だが、元来は「儀礼における祝詞」のこと。この意味は古ウンブリア語 iuku (祈り)、サンスクリット語の yacati (懇願する)、ウェールズ語 iaith (言語)に連なる。

 こうしてレアーレに生きようとして、すなわち豊かに生きようとしたぼくらは、まさにそのための祈りのことばにとらえられてしまうと、なんとかふりほどこうとしながらも、ついにはレアーレとはほど遠い状態に宙吊りにされてしまうわけだ。それがイルジオーネ(偽りの希望に生きる状態)であり、そうした状態への自覚がデルジオーネ(失望)ということなのかもしれない。

 

 リアリズムは、そんなイルジオーネとデルジオーネをレアーレを媒介にして反復する。幻惑しておいて、すべてが幻惑であることを暴露するのだが、そのすべてを映画というイルジオーネ/デルジオーネの装置を通して「遊び」のなかにさらけ出すのが、映画なのかもしれない。

 

 追記:

 以上のようなことを、今日少し映画のクラスで話したのだけど、具体的な例としては、受講生のみなさんが見ていた『夜よ、こんにちは』のラストの、アルド・モーロ解放のイメージを挙げて説明した。

 ご存知のように、モーロ元首相は旅団に処刑されるのだが、そのモーロ演じるロベルト・ヘルリツカがローマに降り注ぐ朝日のなかを軽やかに歩くシーンは、どうかんがえても史実ではない。しかし、それは幻覚あるいはイルジオーネなのか、あやまった希望を信じさせる映像なのか、そう問われれば、ぼくは、とんでもない、まったく逆だと答えるだろう。

 イルジオーネを抱いていたのは、むしろ旅団のキアラ(マヤ・サンサ)のほうではないか。その誤った理想、イデオロギーあるいは、イルジオーネの果てに、露わになるのはデルジオーネではなく、むしろそうあったならどれほどよかっただろうと思わせる、あの軽やかなヘルリツカの闊歩するイメージ。

 あのとき、もし違うことをしていたら、どうなっていただろうというのは、たしかにファンタジアではあるけれども、イルジオーネではなく、むしろ、その具体的なファンタジアを糧にして、それによって明日にむかうための、ひとつの「レアーレなるもの」なのではないだろうか。

 そういう意味で、ベロッキオの作品は、つねに見えないもの、ありえないものを主題にしながらも、つねに「レアーレ」なもの、つまりぼくらの生を前に進めてくれる「なにものか」(レス res )をつかもうとしてきたのではないだろうか。

 そういう意味で、彼の映画は「幻覚的リアリズム」に見えながら、その実、リアリズムの徹底だといえるのかもしれない。

 今日は、そんな話をしてきたので、備忘のため、ここに記すことにする。

 

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