雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ベルトルッチを追悼するドミニク・サンダ

今朝のツイッターで、こんな記事があると紹介された。見ればレプッブリカ紙の演劇欄に、あのドミニク・サンダベルトルッチを追悼している。TWのコメントには「すばらしい文章だが、批判がないわけではない。『1900年』の撮られなかったシーンについて彼女が語っていることはとても興味深い。見てみたかった」とある。

読んでみると、確かにベルトルッチへの、決して辛辣ではないものの、かなり鋭い批判も含まれた文章。ぼくも『1900年』については少し留保があったのだが、その留保の部分をみごとに文章にしてくれているではないか。しかも、未撮影のシーンがこれまた非常に興味深いのだ。

もちろん批判だけではない。ドミニク・サンダはたった2本しかベルトルッチと撮っていないけれど、とりわけ一本目の『暗殺の森』が、いかに彼女に影響を与えたか、ここにはっきり記されている。さらには『ラストタンゴ・イン・パリ』でマリア・シュナイダーが演じたジャンヌを、ベルトルッチが最初はドミニク・サンダにオファーしたというから驚きだ。ドミニク・サンダが演じていたら、どんな作品になっていたのだろうか。

ともかくもこの記事、以下にざっと訳してみました。急いで訳したので、読みづらいところもあるかと思いますが、ご笑覧。

 

「かくのごとくベルナルドは、魔法的で残忍なシーンを撮影した」

ドミニク・サンダ

まだ二十歳にもならないころでした。わたしのエージェントが、若くて将来性のあるイタリア人の監督に引き合わせてくれました。アルベルト・モラヴィアの『孤独な青年 (Il conformista) 』(1951)を原作にした映画(『暗殺の森 (Il conformista)』)を撮りたいというのですが、それがベルナルド・ベルトルッチでした。プロデューサーで甥のジョヴァンニと一緒にやってきたのです。

 

冬のローマとパリでの撮影はすばらしいものでした。フランス贔屓のイタリア人で、ほんとうにすてきなジット・マルグリーニの手による衣装。ヴィットリオ・ストラーロとその仲間たちが作り出した光。まさに魔法でした。まだ若いベルトルッチ(わたしより10歳年上です)の想像力にあふれる演出は、わたしたちみんなにとっての喜びでした。それは大文字で記すべき〈作品 Opera 〉の創造だったのです。わたしはまだ18歳でしたが、まわりの誰もが情熱をもって仕事をしていることがわかりました。ほんとうにすばらしかった。そこは自分の生きる場所だと感じだのです。日に日に、撮影現場の空気は、美(bellezza)と詩(poesia)に満たされてゆきました。

 

付け加えるなら、この映画のラストシーンは、大作家モラヴィアの筆を超えるものでした。小説の教説的なラストで悪い者は罰せられることになります。ベルトルッチは、明らかにこの特別な「ハッピーエンド」が不満だったので、物語を脚色して観客には落ち着けないリアリズムに訴え、主人公の日和見主義者 il conformista が死なないという、心穏やかならざるものになります。日和見主義者たちが消えることなく、生き残るのです…

 

ベルトルッチの訃報に、わたしは驚きませんでしたし、とくに悲しんだわけでもありません。そうなのです。長いあいだ病気だったことは知っていました。苦しんでいたのだろうなと思います。『リトル・ブッダ』のパリでの初日は、ダライ・ラマもいらしていましたが、そこでわたしは、舞台に上がるベルトルッチが、なにかバランスを崩したひどい歩き方をしていることに気がつきました。いつだったでしょうか。1993年ですから、かれこれ25年も前のことです。ベルナルドは、ほんとうに多くの苦しみに耐えていましたから、死はある種の解放だったのだと思います。わたしは、苦しんできた魂がようやく平和を見出せるように、心から願っています。

 

暗殺の森』で、わたしは「若いプリンス」ベルトルッチと知り合いました。『1900年』(1976)ではすべてが変わります。その撮影のとき、もちろん彼がその若さを失くしたわけではありません。けれど、その心の中にあったはずの、生まれ故郷エミリアでの体験の思い出が、ソ連で起こったことの空想にすぎないヴィジョンと混ざり合っていました。わたしに言わせれば、ときには混同されたのだと思います。〈歴史 la Storia 〉がフェンタジーであってはならないにもかかわらず、そうなってしまったのです。〈歴史〉とは、その後に来るものに影響を与えてやまない事実です。『1900年』はじつに、最初から最後まで、その細部、光と陰にいたるまで、すべてベルトルッチの純粋な創造物でした。わたしは、ベルトルッチに声をかけてもらってとても嬉しかった。女性の主人公を演じることになったのですが、声をかけてもらったのは3度目でした。 

 

その前に、2度目に声をかけられたのは、『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972)のジャンヌの役でした。ただ、わたしはそのとき息子を身ごもっていたので断ったのです。1975年の夏のこと、(『1900年』の)撮影はすでに始まっており、ちょうどイタリアにいたわたしは、フランスに帰国する前に、パルマの撮影現場を訪ねることにしました。そのとき、ベルトルッチは、驚くほど酷い態度で私を迎えます。「ぼくが(『1900年』の)アーダの役を書いたのは、数年前に『暗殺の森』で知り合った女優のためなんだよ」と言うのです。「きみにまだ、あんなふうに演じる力があってほしいものだね」。わたしは黙りました。「ああ、挑発してるのね。いいわ、わたしに何ができるが見せてあげる」。そう思ったわたしは、謎めいた微笑みをうかべてみせました。疑いはありません。彼はもはや、かつての若いプリンスではなくなっていました。おそらくはある種の皇帝、それともツァールのような存在になっていたのです。スターリンのようなヒゲこそありませんでしたが、このロシア人の小さな胸像のようなものが、その編集室に君臨していたのです。

 

この映画には、まだうまく飲み込めないシーンがあります。スクリーンを前にすると、わたしは今でもそのシーンで目を閉じてしまいます。あの異常な惨殺シーンで、男の子が犯されて頭を砕かれます*1。それから猫の拷問のシーン(なんども撮り直され、何匹もの猫が使われました)*2... こうしたシーンを見ると、なぜそんなシーンを撮ったのかと聞きたくなるのではないでしょうか。もちろん聞く相手は、そんなシーンを撮影するように命じた隊長(capitano )です*3。そうなのです。彼はもはやプリンス(principe)ではなくなっていたのです。

 

オリジナル・シナリオで、わたしの役は映画のように突然に終わるものではありませんでした。映画のアーダは、その美しい衣装の数々を若い女主に贈ってからは、もう現れません。観客には、この失踪がベルトルッチの奇妙な忘却からくるものなのか、あるいは、ほかに理由があるのかわかりません。わたしは、わかります。撮影隊といっしょにいましたから、わかるのです。ベルナルドの忘却ではありません。彼は、じぶんのイデオロギー的空想を優先させたのです。そして、より人間的で、より肉感的な物語、つまり心の物語を、切り捨ててしまったのです。

 

私は、オルモと一緒に逃亡することになっていました。財産、土地、夫などすべてを捨て、地中海に向かい、フランス行きの船に乗るのですが、港につくやいなやファシストに逮捕されてしまいます。オルモは監獄に入れられ、わたしは夫のもとに戻され、そこであの裁判に立ち会うことになっていました。しかし、これらのシーンが撮影されることはありません。それはベルトルッチの最初の構想と、アメリカ人のプロデューサーたちに提出されたシナリオにしか存在しないシーンなのです。

 

わたしがベルトルッチと撮った2本の作品のなかで、彼と共に深く感じたことは、即興が思いがけない結果もたらすときの喜びです。彼自身認めているように、俳優の演技が期待を超えるものであるときが、「最高のこと la cosa più bella 」なのです。ベルトルッチは、おそらく気がついていないでしょうが、俳優の彼を驚かせたいという願望は、彼自身によって与えられたものなのです。わたしの場合は、彼と働いてからずっと、そんな気持ちを持ち続けています。もし批評家の誰かが、ベルナルドに、どういう理由で、だれそれの男優や女優を選ぶのかと聞いていたなら、こんなふうに答えることができたはずです。それは、その男優や女優のなかに、自分を驚かせてくる力がきっと眠っていると思うからだ、と。いずれにせよ、思いがけない贈り物を受け取ることは、期待していたものを受け取るよりも、いつだって、ずっとうれしいことです。わたしは、とりわけ『暗殺の森』以降、ある種の曖昧さとある種の風変わりな官能を感じさせる女優だと考えられてきました。けれども、そんな曖昧さと官能は、ベルトルッチのものであって、わたしのものではありません。混同してはならないものなのです。

 

暗殺の森 Blu-ray

暗殺の森 Blu-ray

 

 

 

1900年 Blu-ray (2枚組)

1900年 Blu-ray (2枚組)

 

 

リトル・ブッダ Blu-ray

リトル・ブッダ Blu-ray

 

 

 

*1:YouTube で見つけましたが、ドナルド・サザーランドとラウラ・ベッティがほとんど怪物に見えるシーンです。かなり強烈ですので注意して閲覧ください:

www.youtube.com

*2:YouTube に映像がありました。猫をコミュニストだとみなしたアッティラの残酷で、たしかに目を背けたくなるようなシーンです :

www.youtube.com

*3:『1900年』のラストシーンを演出するベルトルッチの映像がある。なるほど歴戦をくぐり抜けたようなふてぶてしさは、まさに隊長 capitano のものだ。

www.youtube.com

ここでインタビューをしているのは、ジャンニ・アメリオだが、ベルトルッチがこの未来の巨匠に語るのは、だいたいこんな感じの言葉だ。
「物語としてのラストシーンは45年4月25日、つまり解放記念日ですね。それをある種のユートピアとして、ユートピア的なもののなかにある真実を描こうとしているのです。けれどもそれはまた、エモーショナルなラストシーンでもあります。映画の最後に付け加えるようなものは嫌だったので、ラストシーンはリリカルな〔歌劇的な〕もの
にしたかったのです、リアリスティクではないけれどリアルなもの。言えることは、それがるしゅの渦だってことです。時間の渦ですね。それが突然に全てを飲み込みます。45年の4月25日のこの法廷にいた全てのものを飲み込んでしまうのです。わたしはこのラストシーンを、そんな目眩/渦巻きにしたいのです。それもオープンなもの、リリカルなラストシーンだったら通用するようなものにしたいのです。オープンなラストは、自然へと開かれます。田園へと、畑へと、それも今にも花が咲き始めそうな、そんな大地へと開かれたラストシーン。いわば、スターリン的に楽観的なラストシーンにしたいのです」...

怪物たちが生まれる時代に...

FBにこんな投稿を見た。

書かれているのはアントニオ・グラムシの言葉。こんな意味だ。

古い世界は死につつある。
新しい世界はまだなお現れていない。
このたそがれ時に
怪物が生まれる。

Il vecchio mondo sta morendo.
Quello nuovo tarda a comparire.
E in questo chiaroscuro
nascono i mostri.

ぼくたちもまた、グラムシが「このたそがれ時 (questo chiaroscuro) 」と呼んだ時代に、生きているのかもしれない。ここのところ、そう思わせるような事件が相次いでいる。

 たとえばこれ。

辺野古署名」というのは 、ツイッターフェイスブックで話題になったアメリカの嘆願サイトで、辺野古の埋め立てに反対する署名活動のこと。じつは、ぼくもこれにはサインしたのだけど、たとえばローラさんのような芸能人が署名を呼びかけることが、一部の人たちから、「左傾化」だとか「政治発言はいかがなものか」などの批判が出てきたというのだ。

聞いた話だけれど、接待業のプロの方々は「スポーツ、宗教、政治」をしないという。阪神ファンのお客に巨人を贔屓するような話をしたらまずい。宗教も政治も同じこと。それはわからないでもない。しかし、それはあくまでも接待のプロの心得。仕事を離れたら、まったく関係がない。むしろ、ぼくらは贔屓のチームを応援し、自分の信じる神を拝んだり、あるいは神を持たないでよいのだと信じたりする。

政治だって同じ。生活を営み、税金を納め、選挙に行く。あるいは行かないで投票率を下げるときも含めて、ぼくらはいつだって政治的に生きている。政治家だけが政治を行っているわけじゃない。ぼくらはそもそも政治的な生き物なのだから。

だから、つくづく思うのだけど、「政治的な発言をしない」ということ自体が、実に特殊な「政治的な言語行為」。沈黙は明白な言表行為だ。それは、不作為の作為ってやつであって、簡単に言えば、溺れている人がいるのを黙って見ているのは、ほとんど殺人行為だってこと。もちろん人は、なんだか変だなと感じていながら、特に変なことではないと思い込んでしまうもの。そういうのを安全バイアスと呼ぶけれど、「芸能人は政治的な発言をしない(ほうがよい)」というのは、この安全バイアスをさらに強固にしてしまうだけなのだ。

たしかに今、「古い世界は死につつある」のだろう。しかし「まだ新しい世界は現れていない」のだ。そして、ぼくらの国に蔓延る「安全バイアス」の影から、いくつもの「怪物たち」が生まれている。怪物たちは、基地負担軽減と言いつつ新たな基地のためにジュゴンの海を埋め立て、空母を空母と呼ばずに保有し、戦争と呼ばずに戦争の準備を進めている。領域国民国家の論理は(たぶんすでに)死に体であるにもかかわらず、あらたな共同体をさぐる試みもまた、あらゆる局面で文字通りの「壁」につきあたっている。冷戦の壁の崩壊から30年になろうとしている今、パレスチナの壁、メキシコの壁、そして地中海の見えない壁、世界のありとあらゆる場所に、怪物たちが壁を立ち上げようとしているのだ。脱領域的な経済をリードする者たちが、日本で、カナダで、世界中で拘束されている。

いったい何が起こっているのか?思い出すのは、ちょうど授業で扱っていたイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』(1997)の不気味なナゾナゾだ。

そのひとつ目は、ユダヤ人ウェイターのグイードに、ドイツから来ていたレッシング大尉が出題したもの。

大きくるほど見えなくなる

Più è grande e meno si vede.  

ふたつめは、そのレッシング大尉が、イタリアを立つ直前に、グイードに出題したもの。

僕の名前を呼んだら、僕はもういない、僕は誰だ?

Se fai il mio nome non ci sono più, chi sono? 

そして3つめ。

www.youtube.com

Grasso grasso, brutto brutto

tutto giallo in verità:

se mi chiedi dove sono ti rispondo "Qua qua qua".

Quando cammino faccio "poppò"

chi son io dimmelo un po'.

 

デブデブしてて、ブサイクで、

ほんとうは全身が黄色:

どこにいるかと聞かれれば「ココ、ココ、ココ」と答えよう。

歩くと「ウンチ」しちゃう。

ぼくが誰か、言ってみな。


ドイツ人の軍医レッシングの出題する3つのなぞなぞだがひとつひとつ解いてゆくと、いつのまにか時代の空気が浮かび上がってくる。

第一の答えは「闇 l'oscurità」。『ライフ・イズ・ビューティフル』は1939年に始まる。それはドイツがポーランドに侵攻した年。イタリアの参戦はその翌年。まさに、それまでゆっくりと広がってきた「闇」がヨーロッパを覆うのだが、ひろがってゆく闇に誰も気がついてはいなかったというわけだ。

第二の答えは「沈黙 il silenzio 」。強制収容所に送られたグイードは、その医務室でレッシング軍医と再会する。静かに直立させられた収容者たちを診察するレッシングは、おそらくは働けない者の選別していたのだろう。送られる先はもちろんガス室なのだ。しかし、レッシングはグイードに気がつかない。意を決して、あのなぞなぞを口にするグイード。看守が「静かに!」と叫ぶ。しかし彼は沈黙を破り、なぞなぞの答えを口にする。それはまさに「沈黙」なのだが、口にしたとたん消える「沈黙」のために、あの「闇」はここまで広がったのではなかったのか。そしてそこでは、あのグラムシの「怪物たち」が、文字通り暗躍したのではなかったのか... 

そして第3の謎々だが、これには答えがない。答えがないとは、どうやらベニーニ/チェラーミが、この謎々をあえて不条理なものにしたということ。それは、あの「アウシュビッツ」という名前がぼくたちに想像させる不条理さと、同じ不条理さを持たせるという目論見なのだろう。それは、どこかカフカ的なもの、間違えて夢の中に登場したような現実なのだ。ベニーニは言う。

「わたしは、光栄なことにユダヤ人ですとは言えません。ただひとりの人間なのですが、こんなカフカの話を思い出したいと思います。ある夜、友人の家に招待された男が、トイレを探そうとして、間違えて友人の父親の部屋の扉を開けてしまいます。目を覚ました父親に、男がバツの悪そうに言います。《すいません、ご迷惑おかけするつもりはなかったのです。どうかわたしを夢だと思ってください》。この映画もまた、すべての映画がそうであるように、ただの夢なのです*1

この夜の寝室に突然扉をあけて入ってくるカフカ的な現実は、「闇」がゆっくりと広がり、名前を呼ばれることのない「沈黙」のなかに、立ち上がるもの。そんな大いなる闇と沈黙。そんな場所に、官僚的な緻密さで、粛々と、送り出されるものたちが、その表象不可能な証言によって表象するような何ものか。黄色いダビデの星を押し付けられ、ヨーロッパでは昔から吝嗇で醜悪な姿で描きだされ、街のあらゆるところにいて、なかには自分がそうであることも忘れるほどに、他の人々とかわらないにも関わらず、けがわらしいと忌み嫌われているような存在。しかし、そんな存在こそは、答えとして告げられてはならないもの。だからこそ、第3のナゾナゾには答えがあってはならないと、チェラーミとベニーニは言っているわけだ。

レッシングの第3のなぞなぞを聞いたとき、グイードは沈黙する。その表情に注目しよう。しずかに目を伏せると、滑稽なまでに必死のレッシングから、ゆっくりと離れてゆくと、グラモフォンにドーラとの思い出の曲を見つける。それは『ホフマン物語』。美しい調べを作曲したのはジャック・オッフェンバック

 

www.youtube.com

ユダヤ人でもあるオッフェンバッハの調べ、そしてその「美しい夜、おお、恋の夜よ」と歌う言葉こそは*2、 あのレッシングの第3のナゾナゾに答えることなく、そんな謎かけをしてくる「怪物たち」を吹き飛ばし、高らかに「人生の美しさ」を歌い上げる賛歌として、ぼくたちの記憶に残るのであり、そしてまた、いまぼくらが歌うべき歌なのかもしれない。

 

ライフ・イズ・ビューティフル [Blu-ray]

ライフ・イズ・ビューティフル [Blu-ray]

 

 

*1:Roberto Begnini e Vincenzo Cerami, La vita è bella, Torino Einaudi, 1999, p.VIII.

*2:意味はこのサイトなどを参照してください。

ホフマンの舟歌 歌詞と試聴 

ジェフ・ベック、こどもたちを思うバラードを訳してみた

ラウド・ヘイラー


最近ハマっている『Loud Hailer』。2016年のアルバムなんだけど、そのなかの一曲 Scared for the childeren がすごくよい。ジミヘンの『エンジェル』を明確に意識した曲だというのだが、そんなことを言われるとよけいにグッときてしまう。

 


www.youtube.com

 

歌っているのはロージー・ボーンというおねいちゃん。ベックからみれば孫みたいな歳なのだろうけど、彼女の表現力が、じつに歌詞の味を引き出してくれていて、ジェフのギターとの相性も抜群だ。


それにしても実に泣ける歌詞なんだよね。ぼくらが生きているこの如何しようも無い時代のことを、如何しようも無いというだけなら簡単なんだけど、ベックはそうじゃない。そんな時代にしちまったのは、じぶんたち大人のせいじゃないかという思いがあるのだろう。その思いは、こどもたちのことを考えるときに立ち上がってくる。ぼくらは、こどもたちに一体、何を残してやれるのか。もしかすると、何も残してやれないのじゃないかという不安。彼らの将来をおもってぞっとすると同時に、今からでも何かできないかという焦り。焦るけれども残された時間はほとんどない。できることは、ただバラードを書いて、ギターをあわせるだけ。

そんなバラードの歌詞を、以下、日本語に訳してみることにする。ほとんど調べずに訳したので、大まちがいがあるかもしれないけど、気がついたことは教えていただければありがたいです。

では、最初に原語、次に拙訳を載せておきますね。

Billy skipped school again
Looking like a fool again
What a little waste for a taste of a big boy’s life
I'm scared for the children

 

ビリーはまた学校をさぼってしまったのね
また馬鹿みたいになってるじゃない
ちょっともったいない、ビッグボーイの暮らしを味わいたいからって
こどもたちのことを思うと、わたしぞっとしちゃうの

 

Computer screens and magazines
Manufactured hopes and dreams
Playing in a concrete box
‘Cause mother's got her shows to watch
I'm scared for the children

 

コンピューター・スクリーンに雑誌
でっちあげられた希望に夢
コンクーリートの箱のなかで遊んでる
ママは見るべきショーがあるんだね
こどもたちのことを思うと わたしぞっとしちゃうの

 

This is the end of the age of the innocent
One more game before they go
This is the end of the age of the innocent
What will we leave them with?
Suppose we'll never know

 

これは無垢の時代の終わり
あの子らがいなくなる前にもうひとゲーム
これが無垢の時代の終わり
わたしたち、あの子たちに何を残してあげられる?
そんなのわかりっこないと思うのよ

 

Processed greens and man-made meat
Running out of things to eat
Little boys having way too much fun playing with a big boy’s gun
I'm scared for the children

 

加工されたグリーンに人造ミート
食べるものが足りなくなってるからね
リトルボーイたちはちょっとはしゃぎすぎ、ビッグボーイの銃を手にしちゃって
こどもたちのことを思うと、わたしぞっとしちゃう

 

And on the day the last bird dies
There won't be a drop from their big square eyes
An old man with his eyes just like glass
Kisses the last blade of grass
I'm scared for the children

 

そうやって最後の一羽が死ぬ日が来るの
あの子とたちの大きな四角い目から涙なんて一滴もこぼれないわよね
ひとりのオールドマンがガラスみたいな目をして
最後のグラス(芝生)の一枚にキスをするのよ
こどもたちのことを思うと、わたしぞっとしちゃう

 

This is the end of the age of the innocent
One more game before they go
This is the end of the age of the innocent
What will we leave them with?
Suppose we'll never know

 

これは無垢の時代の終わり
あの子らがいなくなる前にもうひとゲーム
これが無垢の時代の終わり
わたしたち、あの子たちに何を残してあげられる?
そんなのわかりっこないと思うわ

 

No respect for anyone
Why would they after what we done?
What an example we have set,
What a planet we have left
Let's be there for these children

 

誰のこともシリペクトしやしない
そりゃそうだわ、私たちのやったことを思えばね
たいした模範を示してものよね
みごとな地球を残したものよね
そこにいてあげましょうよ、この子どもたちのために

 

Scared for the Children

Scared for the Children

  • provided courtesy of iTunes