雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

「似る」こと:「親和力」と「深くて暗い川」

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d2/Paradiso_Canto_31.jpg

 

この日曜日、どうしてだか「親和力」のことを考えることになったのは、この記事が始まりだった。

cakes.mu

ここで東浩紀はこんなことを言っている。

人間はそもそも、言葉だけではなく、服装や振る舞いや声の高さ低さや、じつに多様なチャンネルからの情報を組み合わせて相手の人間像を組み立てているわけですね。「似る」という判断はその総合から生まれていて、じつは人々は、言葉の内容なんかよりもはるかにそっちのほうに敏感で、基本的にそれをもとにコミュニケーションしているわけです。それは、イデオロギーなんかよりもはるかに根幹の部分で、人の行動を決定している。 

この発言、ぼくにはなんだかピンときた。「似る」というのは、たしかに「イデオロギーなんかよりもはるかに根幹の部分」で働いているぶん、かなりヤバイことなのだ。

* * *

ぼくが思い出したのは、大学のころに外国語の語劇の舞台をやったことだ。じつは素人が舞台に上がると、お互いのセリフがどうして似たようなリズムになり、抑揚が自然に同期してしまう。異なる役のセリフが、たがいに「似る」のはドラマとしてはまったくダメ。むしろ、まったく異なるリズムと抑揚がぶつかって、角と角がガチガチいうようなぐらいでないと、ドラマとしてならない。

ところが、日常的にはその逆のことがおこる。ぼくらは「似る」ことによって、あまりドラマチックな日常を生きている。家族どうしは、いつのまにか似たような話し方をしているし、しぐさも似てくる。同じ学校の生徒、同じクラブ、同じ地域、同じ町、同じ県の人々、そして同じイデオロギー、おなじ集団の人々は、どことなく似てきてしまうのだ。

けれども、自分たちが似ていることは、中にいると気がつかない。一度、似たものの集団から外にでることがなければ、似ていることに気がつくことはできない。外に出ることなくその同質性に気がつくためには、遠くから客人がやってきたり、外の言葉に触れる機会がなければならない。その意味で外国語の学習は、母語の話者がようやく獲得した「似たもの同士」の世界に亀裂を入れることになるのだろう。

考えてみれば、ホモ・ロクエンスであるぼくたちは、言葉を話すことによって、どうしても「似る」ことを避けられない。そもそも、ぼくらが発する《声》が、仲間の中で機能するためには、その波長があいてに同調しなければならない。同調することがなければ、ただのノイズであり、通じるとはいえないのではないだろうか。

《声》が同調すること。同調することで、集団において相互に通じるものが生まれること。それが言語の起源だとすれば、同調できない《声》は言語となることはない。誰かと同調し、そうすることで通じる《声》から言語が始まるとすれば、あらゆる言語は、その起源に同調すること、つまり《声》が互いに「似る」という現象を持つことになるのではないだろうか。そう言う意味で、《声》を「似せる」という能力は、おそらく言語の起源の驚異を想起させるのではなだろうか。だからかつては寄席の舞台で、今ではテレビの人気番組で、モノマネが芸として成立してるのだとは考えられないだろうか。

この「似る」というのは「同じ」であることとは違う。「違う」ものでなければ「似せる」ことはできない。イタリア語で「似ている」ことを 〔affinità〕というが、これは「境界に向く(a-finis)」ということ*1。異なるものが隣接するときの力学を表しているわけだ。人間どうしが「隣接する」ときの力学を「親近感 affinità 」と言うが、それは同時に、「親族 affinità」のことでもある。だから親族は似た者どうしの集団になるのだが、それはよいことだけではなく、かなりうっとうしいことでもある。

ゲーテには『親和力』という小説があるけれど、これは「化学的親和力 chemical affinity」から取られたものらしい。Wikipedia によれば「異なる化学種間での化合物の形成しやすさを表す電子的特性」のことだ。ゲーテは「化学的親和力」が人間にも働くものだとということを「姦通小説」を通して描きだしたのだろうか。どうしようもなく好きになることは、そこでは道徳や社会制度を破壊するような解放力を持つことになる。

そう考えてみると、「似ること」あるいは「親和力」というのは、二重の意味で「やばい」。一方では、似た者同士が集まる家族や村や閉鎖的な共同体に特有の鬱陶しい世界を作り上げる。だから「やばい」。けれども、その「やばさ」は同時に、当のその力が作り出した鬱陶しい世界から解放する「やばさ」をもっている。まさに、ゲーテが描いた「姦通小説」は、そういう「やばい」解放力のことを言っていたのではなかったのだろうか(ここは当てずっぽうで言っているので、違ってたらごめんなさい)。

つまり「似る」ということ、あるいは「親和力」というのは、かなり「やばい」力をもっているのだけれど、それが閉塞への力なのか、解放への力なのかはわからない。良いものなのか悪いものなのか、無記の「やばさ」なのである。
そんな力のことを、もしかするとアガンベンは quodlibet と呼んだのではなかったのだろうか。それは「なんであれかまわないもの essere qualunque 」なのだが、「そこにはすでにつねに望ましい(libet)ということへの送付が含意されている 」というものだ*2。そこには、束縛的な磁場としての「親和力」と、解放の力としての「親和力」が働いている。

そういえば、ダンテの『神曲』の最後に有名な一節がある。

L'amor che move il sole e l'altre stelle

愛、それは太陽とその周りの星々を動かすもの。

 ガリレオがのちに重力と呼んだ神秘の力のことだけど、それをダンテは愛(amore)と呼んだわけだ。これって、まさに「親和力 affinità 」ではなかったのだろうか。

神秘の力は、つねに存在の臨界 finis に働くもの。その「あいだ」や「あわい」、あるいは「閾」(@アガンベン)や「深くて暗い川」(@野坂昭如*3。そんなはっきりとしない、無形にして無調の混沌がなければ、なんの形も、どんな調律も生まれることがないのかもしれない。

ぼくらの《声》は、きっと、そこでしか立ち上がることがない。けれどもひとたび立ち上がった《声》は、それが聞こえなくなってもなお、ぼくらを動かすあの神秘の力であり続けるのかもしれない。

ゲンロン0 観光客の哲学

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到来する共同体 (叢書・エクリチュールの冒険)

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黒の舟唄

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神曲 天国篇 (講談社学術文庫)

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*1:ちなみに「似ている」には simile という形容詞もあるが、これは「ひとつの」(sem-)という語根から来ているので、意味する内容が少し違う。

*2:ジョルジョ・アガンベン『到来する共同体』上村忠男訳(月曜社、2012年)、p.9.

*3:『黒の舟歌』については、このサイトの記事に触発された。ぼくがこの曲を最初に聞いたのは、中島みゆきだったような気もするけれど、ちょっとさだかではない。

母の日の翌日、パゾリーニを訳してみた

www.youtube.com

 

昨日はずっと「親和力」のことを考えていた。母の日だったのだ。だから、今朝、一日遅れのイタリアからパゾリーニの詩が届いたのだけど、それはまさに「親和力」についての詩だと気がついた。タイトルは「母への懇願 Supplica a mia madre 」(1962年) *1。そこには深く、激烈で、狂おしいコトバが、夜のない世界の空の超新星のように、その残酷な輝きを放っている。

 

その輝きを追いかけながら、日本語でとらえることを試みた今朝。うまく訳せているかどうかというよりも、訳しながらあの輝きに近づけるような気になれたことが、少しだけ嬉しい。では以下にその嬉しさの痕跡を置いておきます。ご笑覧。

 

È difficile dire con parole di figlio
ciò a cui nel cuore ben poco assomiglio.
 
息子の言葉で口にするのは難しいもの、
心の中でまったくらしからぬ思いを抱いていることを。
 
Tu sei la sola al mondo che sa, del mio cuore,
ciò che è stato sempre, prima d’ogni altro amore.
 
この世であなただけは知っていますね、ぼくの心が
これまでどうであったか、まだほかにどんな愛も知らないときに。
 
Per questo devo dirti ciò ch’è orrendo conoscere:
è dentro la tua grazia che nasce la mia angoscia.
 
だからこそ言わせてもらいます、知るも恐ろしいことを、
そんなあなたの慈愛のなか、ぼくの苦悩は生まれるのです。
 
Sei insostituibile. Per questo è dannata
alla solitudine la vita che mi hai data.
 
あなたしかいない。だからこそ呪われたのですよ
孤独へと、あなたがくれた人生は。
 
E non voglio esser solo. Ho un’infinita fame
d’amore, dell’amore di corpi senza anima.
 
でもひとりはいやなのです。ぼくには果てしのない
愛への渇望が、魂のない肉体への愛があるのですから。
 
Perché l’anima è in te, sei tu, ma tu
sei mia madre e il tuo amore è la mia schiavitù:
 
だって魂はあなたのなかにあるのです、あなたなのですよ、
なのにあなたはぼくの母、あなたの愛がぼくを縛る。
 
ho passato l’infanzia schiavo di questo senso
alto, irrimediabile, di un impegno immenso.
 
こどものぼくはそんな想いに縛られていたのです
高尚で取り返しのつかない想い、まるで厖大な責務みたいでした。
 
Era l’unico modo per sentire la vita,
l’unica tinta, l’unica forma: ora è finita.
 
そうすることでしか、生きていると感じられなかったのです
たったひとつの色、たったひとつの形式。でももう終わったのです。
 
Sopravviviamo: ed è la confusione
di una vita rinata fuori dalla ragione.
 
いっしょに生き延びましょう。ここにある混乱は
新しい人生が道理の外で生まれ変わったからなのです。
 
Ti supplico, ah, ti supplico: non voler morire.
Sono qui, solo, con te, in un futuro aprile…
 
おかあさん、お願いです、死ぬなんて言わないでほしい。
いっしょにいますから、ふたりきりで、まだ来ない4月に… 
 
Pier Paolo Pasolini
ピエル=パオロ・パゾリーニ 

 

パゾリーニ詩集

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ペッピーノの百歩 [DVD]

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*1:この詩を最初に知ったのは『ペッピーノの百歩』だったっけ。なお、日本語訳としては四方田犬彦のものがある『パゾリーニ詩集』(みすず書房、2011年)PP.295-297.  

韓国大統領選、東京喰種、そして Us and Them

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近くて遠いとなりの国 韓国はどこへ行く? - 放送内容まるわかり! - NHK 週刊 ニュース深読み

 

今朝(5月13日)の「NHKニュース深読み」で、文在寅ムン・ジェイン)という研究者の言葉にハッとさせられた。北と戦争が始まると、まっさきに戦場に駆り出されるのは、これから兵役につく若者だ。だからこそ、緊張が高まっている今、融和を訴える候補に票を入れたのだという。そうなのだ。戦場なんて誰も行きたくない。 

 

でも、忘れてはならないことは、韓国がいまだに戦争状態であること。だから南北の38度線は国境ではなく軍事境界線であり、韓国人のすべての男性は「19歳~29歳の間に約2年間の兵役につく義務」が課せられている。北と戦争が始まると、まっさきに戦場に駆り出されるのは、そんな若者なのである。 

 

そういう意味では、兵役を終えた年配者が強硬派に票を入れるのは、喉元過ぎればということなのかもしれない。ピンク・フロイドの歌に『ぼくらとあいつら(Us and them)』というのがあるけれど、そこにあるこんな歌詞を思い出す。 

 

Forward he cried from the rear 

and the front rank died. 

And the general sat and the lines on the map 

moved from side to side. 

 

前進せよ、彼が背後からそう叫ぶと、

前線では人が死んだのさ。

そうすると将軍は腰をおろしてさ、地図の上のラインが

端から端へと動いたのだよ。

 

韓国社会でいれば、「あいつら(them)」から遠くはなれたところに「ぼくら」(若者たち)がいるわけだ。若者たちは、兵役を前にしているだけではない。就職という関門もひかえている。財閥系の企業の狭き門に入ることができるか否かで、将来が大きく変わる。 

 

一方で、兵役を終えた年配者がいる。あるいは、すでに就職した労働者や、安定した年金生活者となった人々からすれば、「あいつら(them)」は若者たちなのだ。そして、就職した人のなかでも、財閥系企業や公務員のポストを得た「あいつら」に対して、生活の苦しい圧倒的多数の「ぼくら」がいるし、年金生活を遅れている「あいつら」に対して、老後の保障がなく自殺するしかないところまでおいこまれる「わたしたち」がいるわけだ。(韓国では国民皆年金はまだ始まって日が浅く、きちんと年金をもらえていない人も多いらしい)。 

 

話は飛ぶのだけれど、「ぼくらとあいつら」という対立軸は、最近見たTVアニメ『東京喰種トーキョーグール』にもそれがある。グールというのは、どうやらイスラム教誕生以前から伝わる屍食鬼のことらしいのだけど、血を吸うかわりに肉を食らうヴァンパイアとでもいえばよいのだろうか。人間とは種が異なり、生物学的には、交配困難だが不可能ではないという距離であることから、「喰種」(くいしゅ/グール)と呼ばれる。人間を喰らう人間の天敵という設定なのだ。

 

物語の始まりは、もちろんグールが「あいつら」であり、人間が「ぼくら」なわけだが、主人公である人間の少年は、あることがきっかけで、グールになってしまう。交わらないはずの種を交わらせるという仕掛けによって、物語は単なるバトルものを超えてゆく。「あいつら」だってはずのグールが「ぼくら」になり、「ぼくら」だったはずの人間から「あいつら」とみなされること。この混淆によって、トーキョーはリアリティを獲得し、そこに寓意を読み取りたくなる誘惑に駆り立ててくれるというわけだ(なんでも、7月末には実写版も公開されるみたい)。 

 

ポイントは、「ぼくらとあいつら」の混線にある。あのピンク・フロイドも歌っていたではないか。こんなふうに。 

 

Us and them

And after all we're only ordinary men

Me and you

God only knows it's not what we would choose to do

 

ぼくらだって、あいつらだって

けっきょくのところみんな普通の人間なのさ

ぼくになったり、きみになったりは

神のみぞ知ること、ぼくらが選べるわけじゃないんだよ

 


Pink Floyd - Us and Them (with lyrics)

 

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