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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

蜷川幸雄『わたしを離さないで』

読書 映画 もろもろ


『わたしを離さないで』 PV - YouTube

この連休に、蜷川幸雄の舞台『わたしを離さないで』を観てきた。

 

原作はカズオ・イシグロの同名小説。原作は読んでいた。映画化された作品も観た。それでも舞台は新鮮だった。ひさしぶりの舞台ということもあったのかもしれない。4時間近くの上演があっという間に終わった時、ぼくはそこに、自分たち自身の物語りを先取りして見せられたような気になっていた。

 

舞台は、第二次世界大戦後の現実世界とほとんど同じだが少しだけ異なるところのあるパラレルワールド。そこでは遺伝子工学がクローン技術を実用化していた。昨今話題になっている万能細胞にしても、この技術を確立する第一歩。それがもう少し早く確立していたらどうなるか。そんな想像から構想されたのが『わたしを離さないで』のパラレルワールドなのだろう。

 

では、もしもクローン技術が確立すれば、どんなすばらしいことが起るのか。しばしば話題にのぼるように、多くの人はその効用を医療分野に求めている。うまくゆけば、ぼくたちは今まで不治とされてきた病から解放されることになるというのだ。しかし、どうやって?

 

今の技術で比較的容易に可能なのは、ガンに冒された臓器を健康なものに取り替えること。しかし、健康な臓器を手に入れるためには、健康な人間が必要になる。しかし、健康な人間から臓器を取り出すことはかなわない。ならば、人間のクローンを作ればよいではないか。クローン技術がそれを可能にする。そういうわけだ。

 

人間のクローンができれば、その臓器を移植に用いることができる。しかしクローンは人間ではないのだろうか?もしもクローンを人間と同じと考えるなら、その臓器を摘出することは許されない。もしもクローンが人間ではなく、あくまでも人間の複製であって、人間とは区別されるものだとするならば、もしかすると、倫理的な壁を越えることができるかもしれない。畜産や養殖と同じと考えればよいではないか。そこで動物の生命は、人間の糧となるべく管理され、使用されることが許されている。クローンが動物と同じだと考えられるならば、人間の命を救うためにクローンの臓器を取り出し、その生命を犠牲にすることになったとしても、そこに倫理的な問題が生じることはなくなるのではないだろうか。

 

イシグロのパラレルワールドは、クローンを動物と同じカテゴリーに区分する決断をした世界なのである。しかし、そんな世界にもクローンを動物として扱うことに、問題がないわけではない。なぜならクローンは、あくまでも人間のオリジナルを必要とするからだ。複製のための細胞は、人間が提供しなければならない。みずからの細胞を、みずからの遺伝子を、動物と同じカテゴリーとなり、ただ臓器を提供するために培養されるクローン人間のために、はたして誰が提供しようというのだろうか。

 

この問題の解決のため、イシグロのパラレルワールドでは採用されたであろう方法は、ぼくたちが生きる現実の世界でもしばしば見られる方法だ。かつても、そして今でも、貧困者がお金のために血を売ることが行われているが、こうした売血による輸血血液の確保と同じようにすれば、クローンのオリジナルとなる細胞を得ることは難しいことではなくなる。すなわち貧民や犯罪者、そして娼婦などの社会の下層民(human trash)からの細胞提供によって、クローンの培養をおこなえばよいのである。

 

しかしである。クローン培養のための母細胞の提供を、社会の下層民から受けるということは、このパラレルワールドに大きな倫理的混乱を招き入れている。たしかにこの世界は、クローン技術の医療利用に倫理的承認を与えてしまった。この世界の倫理は、「人間」と「人間ではないもの(クローンや動物)」をはっきりと区別したのだ。しかし、そのクローンの母細胞を社会の特定の階層からだけ調達するということは、「人間」を「人間」から区別していることではないだろうか。「ふつうの人間」はクローンに母細胞を提供したがらない。しかし、「ふつうでない人間」なら提供してくれるだろうというのは、まさに人間を「ふつう」と「ふつうでない」というふたつのカテゴリーに区分することにほかならない。

 

こうしてクローンたちは、「ふつう」の人間から区分された「ふつうでない」人間(クローンたちの想像では「人間のクズ human trash」)の母細胞から培養されることになる。こうしてパラレルワールドが倫理的に要請する「人間」と「クローン」の区別の間には、密かに「人間のクズ」という領域が紛れ込むことになる。「クズ trash 」は、「人間 human 」でありながら人間からは密かに切り離され、「クローン」に母細胞を与える「オリジナル」となって、その複製とは密かな関係を結ぶのである。こうして、human / clone という区分は、そこに紛れ込んだ第3項によって human - (human trash) - clone という緩やかな結びつきへと解体されてゆくことになる。

 

蜷川の舞台は、イシグロの小説同様に、ぼくたちをそんな世界に誘い込んでゆく。それは、ぼくたちの世界からは時間的にも空間的にもズレたところに設定されたものなのだが、そんなパラレルワールドは、次第に、ぼくたち自身の世界のアレゴリーであることを越えてゆくと、ついには、あの胸を突く慟哭とともに、それこそがぼくたちの世界だったのかもしれないと思わせるのだ。

 

おっと、前置きが長くなってしまった。蜷川幸雄『わたしを離さないで』の舞台で気がついたことを、以下にメモしておくことにしよう。

 

1)日本のどこかに立ち上がる物語

 

客席の灯りが消えると、ぼくたちは暗闇のなかにいる。ブーンというかすかな機械音とともに、闇の奥から赤く点滅する光が現れる。やがて照明のなかに浮かびがあるのは、リモコンヘリコプター。そのヘリコプターに導かれるように(あるいは監視されながら?)、舞台奥から現れるベッド。

 

ベッドを押すのは八尋(多部未華子)、横たわるのはケン(内田健司)。ケンは「提供者」であり、八尋はその「介護人」だ。じつは「介護人」もまたクローンであり、任期を終えると、やがては自らも「提供者」となる。

 

そんなふたりの会話。ケンは自分の名前が漫画の主人公ケンシロウから取ったものだと語り始める。ケンシロウといえば、ぼくたちがすぐに思い出すのは『北斗の拳』なのだが、ここでハッとすべきなのは、その人気漫画の名前によって舞台がある時期の日本であることだけではない。自分の名前を自分でつけるという、そのことに違和感を感じなければならないはずだ。なぜ、ケンはその名前を自ら選んでつけたのだろう。自分で名前をつける前に、彼には名前はなかったのだろうか。ふつうの名前が、自らが生まれる前から生きている誰か(ふつうは両親なのだろう)によって与えられるものだとすれば、そんな「ふつうの名前」の不在は、クローンであるケンの出自と、その「ふつうではない」環境を指し示しているのであろう。

 

そんな話をしながらケンは、介護人に彼女の名の由来を聞く。由来なんて知らないと答える八尋。知らないうちに誰かにつけてもらっていたというのである。そんな「ふつう」の返答に、ケンは驚く。介護人であり、やがて提供者となる彼女もまた、同じクローンではないか。にもかかわらず、彼女が誰かに名前を与えてもらったとするならば、考えられるのはひとつ。ヘールシャムの出身なのかと尋ねるケン、そうよと答える八尋。その答えに好奇心をかき立てられたケンは、八尋にヘールシャムでの思い出を話してくれとせがむのだった。

 

しかし八尋には、ヘールシャムの思い出がそんなに特別なことには思えないと言う。おそらく彼女は、自分の「特別なことには思えない」ことが、ケンにとって「特別なこと」だということを、まだよくわかっていないのだ。ここに示されるのは、ヘールシャムという場所がある種の特別な場所であったということ。それは小さなクローンたちが管理され養育される寄宿舎のひとつだが、ほかの寄宿舎とは明らかにことなる理念によって子どもたちを「教育」する学校でもあった。ケンは八尋の話を聞くことで、噂に聞いたその理想郷のイメージを自分のものにできるのだという。彼は、ヘールシャム出身の八尋の記憶を、自分の記憶に上書きしようとしているわけだ。

 

記憶の上書き?そう、この言葉からぼくは、どうしたってあの『ブレードランナー』を連想してしまう。『ブレードランナー』にもまた、クローン人間と同じように、遺伝子工学によって産み出されたレプリカントが登場する。彼らは細胞複製技術 replication によって生まれた複製人間なのだが、その寿命は4年しかなく、過去の記憶を持たない。宇宙開拓の最前線に送り込まれて過酷な労働を強いられるレプリカントたちは、「製造」から数年後になると感情が芽生え、人間に反抗するようになるのだという。こうして地球に帰って来て「ふつうの」人間に紛れ込もうとする者たちが現れる。人間特別のつかないレプリカントたち。そんな存在に対処するために組織された専門捜査官(ブレードランナー)の追跡を逃れるため、そしておそらくは自らの必要のため、レプリカントたちは自分の記憶を捏造する。子どものころの記憶を、誰かのもの借り受けて、自分の記憶に上書きするわけだ。

 

こうして不在の記憶を求める『ブレードランナー』のレプリカントに対して、クローン人間のケンに記憶がないわけではない。しかし、それはできれば不在の記憶としてしまい、ほかの記憶で上書きしてしまいたいような記憶なのだ。では、ケンの記憶とは、どのようなものだったのか。彼のこどものころの記憶の風景を垣間見せてくれるのが、八尋から「あなたには好きなものとかなかったの?」とたずねられたとき、ケンが記憶のなかから呼び出した「ソアラ」という車名なのだ。

 

ソアラトヨタの高級車で、のちにレクサスとなって世界戦略の機種となってゆくもの。そんなソアラに憧れたというケンに、八尋は「せめてシートに座ったりとかしなかったのか?」と無邪気にたずねたそのときだ。ケンは突然に大声をあげる。ソアラの持ち主だった保護官が最悪のヤツだったんだと言う彼は、そのときの記憶を蘇らせていたにちがいない。身体を烈しく痙攣させて、ベッドのシーツをはねのける。そこに現れたのはケンの剥き出しの身体。点滴のチューブを差し込まれた肌には、ありありと手術跡が見える。八尋はすぐに毛布をかけた、しかし痙攣を続ける脚…。それらの強烈な一撃は、ケンシロウソアラという固有名とともに、ぼくたち観客を1980年代から90年代あたりの日本のパラレルワールドへと引きずり込んでゆく。

 

2)スローモーションと世界の淵

 

そんなケンにせがまれた八尋は、かつてのヘールシャムの情景を思い出すことになる。映画で言えばフラッシュバックなのだけど、舞台ではその手は使えない。ではどうするか。蜷川演出は、ただ俳優の身体だけでみごとに時間を逆行させてしまうのだ。

 

奥行きのある舞台のもっとも深いところに下ろされたベール。そこに人影のようなものが見えたかと思いと、ひとつひとつの影がゆっくりと動き出し、こちらに向かって進んで来る。ポーンと蹴り出されたボールが観客席のほうに転がってきてはじめて、それがサッカーを楽しむ子どもたちのスローモーションだとわかるのだが、そのとき八尋は、すでに介護人の衣裳を脱ぎ捨て、ヘールシャムのセーラー服姿となっている。そしてその姿のまま、ゆっくりとサッカー少年たちの間を通り抜けると、そのむこうにいる青いシャツを着た若者に近づき寄り添ってゆく。ひとり青いシャツを着て、楽しげな少年たちの向こうで孤独に佇んでいる彼。それが彼女にとっての、運命の人モトム(三浦涼介)なのだ。

 

蜷川演出による、この見事なスローモーションは、もちろん映画的な手法の舞台的な応用だ。けれども、舞台においてスロモーションを実現するものは、高速撮影という撮影技術ではなく、四肢をゆっくりと動かしながらサッカーボールをコントロールしてみせるという身体技術なのだ。それはたしかにローテクかもしれない。しかし、スローモーションという映画的技法(ハイテク)によって初めて可能になる効果を、ただ身体を使って実現するというローテクな演出によって再現してみせる。まさにハイテクを経たローテクなのだ。もちろん、そこには高度の身体技術が必要となるのだが、それが舞台で生のかたちで実現されるとき、ぼくたちは映画を見る時に感じるような「時間イメージ」のそのものを見ているのではないだろうか。ふつうの時間のなかで動く身体もまた、ある種の身振りによって、ふつうの時間を特別な時間に変容させることができる。そんなことを教えてくれるような演出に喝采だ。

 

そんなサッカーのシーンから、ヘールシャムの校舎の窓への転換。さらに窓が取り払われて始まる教室の風景。この集団演技などは、練りに練った舞台稽古が透けて見える秀逸の出来。その出来がよくなければ、ヘールシャムがある種の理想郷であり、だからこそやがてその場所が失われたときに生じるノスタルジーも、その伝説も立ち上がらないはずだ。

 

そんなヘールシャムのシーンにおいて、その演出がとりわけ秀逸だったのは、やはり第2視聴覚室の舞台装置だろう。晴海先生が八尋と彼女の友人である鈴(演じるのは木村文乃。この人は舞台初出演らしけど、うまい。難しい役をみごとに演じていて喝采ものだ)を呼び出すシーンなのだが、その晴海先生が立ち去ったあと、ノゾムがふたりに合流することになる。その4人が披露してくれるのが、積み上げられた机の上での演技。これがじつにスリリングなのだ。

 

第2視聴覚室の演出は、その舞台装置にある。観客席と舞台の境のギリギリのところで、積み上げられた机や椅子がそびえている。視聴覚室だからだろう、映写機やカセットテープなどのガラクタの姿もある。それらはすべて人間ための道具であり、ひとつひとつに不安を感じることはない。しかし、それらがこんなふうに積み上げられてしまうと、道具たちが各々に危ういバランスを取りながら、かろうじて自らを支えているのが、いかにも危うそうに見えて来るではないか。それはまるで、あの『ブレード・ランナー』の最後に近いシーンで、ルドガー・ハウワー演じるレプリカントと、ハリソン・フォードデッカードが対決する、スラムとなった近未来の高層アパートのようではないか。

 

そんな机の山の上で八尋も鈴もそしてモトムも、あのレプリカントのように特別な存在であることを見せつけてくれる。崩れそうな机の上を、ひょうひょうと渡ってみせるその演技。クローンの子どもたちの、その恐さを知らない振る舞いは、自信たっぷりのルドガー・ハウワーを彷彿とさせる。一方、デカードのように危うい淵に乗っていることを自覚し震えを隠せないのが、保護官の晴海先生(山本道子)だ。彼女は、デッカードのように生身の人間だ。だかこそ、この技術が技術を積み上げて出来上がった地面が、まるで積み上げられた椅子と机のように、かろうじて危ういバランスの上に安定していることを自覚している。だからこそ、その不安を隠すことができず、その技術の淵に落ち込んでゆく深い深淵に、震えんばかりの戦慄を感じているのだ。

 

レプリカントやクローン人間たちは、今目の前にある深淵に落ちる恐怖など感じてはいない。それは、彼らに取って大した問題ではないのだ。いっぽう、生身のデッカードや晴海先生は、その淵にみずからの死の可能性を見て、恐怖を隠すことができない。ところが、実際のところ、差し迫る死をつきつけられているのは、レプリカントでありクローン人間なのだ。レプリカントの寿命はたったの4年。ルドガー・ハウワーのレプリカントは、そのときほとんど最後の時が間近にせまっていた。そしてクローンである鈴、八尋、そしてモトムは、晴海先生の歳まで生きることは許されていない。その前に、みずからの身体的リソースを病んだ人間に提供することで、人生を終えているはずなのだから。

 

そんな第2視聴覚室に、クローンの八尋と鈴のふたりが呼び出されたのは、鈴が持っていた外の世界の広告が理由だった。それは、美しいオフィスで働く人々の写真。その広告を手にした鈴が、いつかそんな職場で働きたいと言ったことで、ふたりは呼び出されたのだ。理由はもうおわかりだろう。彼女たちクローンには、そんなところで働くような未来は許されていないのだ。ヘールシャムを出れば、外の世界になじむ猶予期間を経て、まずは「介護人」となり、それから「提供者」となるのが、その定められた未来なのだ。だからこそ、彼らは「特別な存在」なのであり、ヘールシャムでは、そういう未来を受け入れることが運命なのだと小さい頃から教え込まれてきたのである。

 

晴海先生は、それがいかに残酷なことであるかを知っている。ちょうどデッカードが、レプリカントの寿命が4年しかなく、どのような最後を遂げるかを知っているように。しかし、レプリカントもクローン人間も、たとえ定められた最後がどのようなものかを頭では知っていても、それがほんとうにはどういうものなのか、わかってはいないのだ。それはちょうどぼくたちが、いつかは死ぬということを分っていても、実際に自分が死ぬときのことを想像できないのと似ている。それは、あのルドガー・ハウワーのレプリカントのように、タイムリミットまであと少しだということがわかってときに初めて、切羽詰まったものとして実感できるようになるものなのだ。だから八尋も鈴もモトムも、ヘールシャムにいるときは、みずからの未来を実感できていない。そこでは、ほかの寄宿舎とちがって、彼らを「ふつうの人間」のように扱いしながら、同時に「ふつうではない存在=クローン人間=提供者」として管理している。管理しながらも、その「人間性」を尊重しようとしている。そんな理想郷だからこそ、鈴は美しいオフィスで働く夢を見られたのであり、同時に、それが叶わぬ夢であると理解しているのだ。その見事なバランス感覚を、人間である晴海先生は理解できない。だからこそ、あの積み上げられた机の上で、プレードランナーのデッカードのように、あやうくバランス崩してそこから転落しそうな恐怖をかいまみせていたのではなかったか。

 

そんな視聴覚室の舞台の右手には、空のリールを備えた映写機がある。八尋や鈴や、後に登場するモトムが、そのリールをくるくる回す場面は印象的だが、映写機のリールは空であり、電源も入っていない。何も写すことのない映写機はしかし、ほんらいそのフィルムを投影してみせる舞台の左手のほうをしっかりと向いているではないか。そのスクリーンがあるべき場所には晴海先生がいる。そして八尋や鈴は映写機の側だ。ふたりはまるで映写機が投影する人間世界の影を鑑賞する観客のようではないか。

 

そんな八尋たちは、映写機の空のリールを無邪気に回す。その姿が印象的なのは、映写機が何も映し出さないからではない。むしろ、何も映し出さないことで、じつは映し出しているものがあるからなのだ。それは、クローンたちの運命を知っている晴海先生の心うちであり、その晴海先生が部屋を出た後で、先生のいた場所に立った八尋が、ふと手にして掲げる日本地図なのだ。その地図を見よ。そこに日本の東北地方だけが描かれていることは、ポスト3・11の時代を生きるぼくたちにとって偶然であるはずがない。

 

その地図を見ながら語られるのは、ゴミが打ち寄せられるという「宝島」という地名。それは、津波がさらって世界に散っていった日本の瓦礫を思い起こさせる(「ゴミになる前には誰かの宝物だったのよ」)。そして、世界中にあるヘールシャムという施設のある場所として「柏崎」という地名が上がるのも偶然ではあるまい。それは、ぼくたちの現実世界にいおいて原発のある場所。しかし、このパラレルワールドにおいては、クローン人間を育成・管理する施設のある場所だというのだ。ここには、クローンと原発という、人間の作り出した輝かしいテクノロジーの影の部分が重なって浮かび上がってはこないだろうか。

 

3)そして…以下は酔っぱらっての雑感。

 

鈴を演じたのは木村文乃ね。このひと、舞台初めてだったのね、すごいわ。「梅ちゃん先生」でおやっと思ったのだけど、今回でファンになっちゃった。

 

八尋は多部未華子でしたね。そういや、このひとも朝ドラで知ったひとだわ。今回はぴったりの役でしたね。むつかしい演技というよりは、すこしボーッとした優等生だったから、よかったのでしょうかね。でも、存在感はありました。

 

モトムの三浦涼介。このひとも舞台は数を踏んでいるようですが、よかったのではないでしょうかね。サッカーボールの扱いはうまかったね。舞台でボールを壁に当てて自分のところにきちんと跳ね返らせるのは、そんなに簡単じゃないし、第2視聴覚室に積み上げられた机の上にスッと立ち上がってみせたのはえらい。あそこでフラフラしたりすれば、レプリカント的な恐いもの知らずを表現できないからね。

 

校長の冬子先生は銀粉蝶。いやあ、この人はうまい、存在感ありあり!映画でこの役を演じたのは名優シャーロット・ランプリングだったけど(相変わらずの見事な演技)、むしろこの舞台の「銀さん」のほうがよかった気がする。

 

晴海先生の山本道子。いぶし銀ですね。ぼくとしてはもう少し若い人を期待していたのだけれど…でも、人間の視点からクローンを見て、おもわず憐れみの情に飲み込まれそうになる演技は、さすがでした。

 

マダムの床嶋佳子。このひとは背筋が奇麗。立ち姿が奇麗。ダンスやっているだけのことはある。

 

音楽もよかったね。安倍海太郎。お願いだから、舞台で流れた Never let me go. を iTunes で販売して。映画版のより、はるかによかったと思うのですがね。

 

脚本は倉持裕。いやあ、このかた、じつにお上手ですね。拍手。

 

4)最後に…

 

ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。

 

もう終わりにしますが、ぼくの感想はイシグロもすげーが、蜷川もすげー、というもの。すいません、凡庸なコメントで。

 

ただ、この作家、この演出家が、ほんとうに細かいところを積み上げて、小説や舞台を作ってくれたおかげで、ぼくたちは、同様に積み上げられたテクノロジーが、その淵から見下ろしたとき、おそろしいばかりの深い闇を作りつつあることに気づかせたもらえたと思います。それは、いつも正面からしか見ていない科学技術の「後ろ姿」を観ることではないでしょうか。

 

「後ろ姿」ってけっこうその人の人となりを表しますよね。おそらく舞台や小説をやるひとって、そういう「後ろ姿」に敏感なんだと思うのです。どうせぼくたちもまた、後から来る者に、ぼくたちの「後ろ姿」をみせきゃならないわけですからね。そっちから見られても、それなりに様になっているように、生きてみたいものだと、つくづく思った舞台でありました。

 

ふー、そんな感想です。

 

長文、最後までおつきあいありがとうございました。

 

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