雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

『舞いあがれ』と、その「リドンダンツァ」をめぐって

ひさしぶりに朝ドラのことを書く。FBには上げていたんだけど、今回の『舞いあがれ!』はなかなか素敵だ。開始からぼちぼちメモをとっていたんだけど、気がつけばもう第6週で、その名も「スワン号の奇跡」。

いや奇跡なんて起きないのですよ。でも奇跡だなと思える。そこがよい。では具体的にどういうことかということ、たとえば、人力飛行機を飛ばす。その飛行前の確認がよい。実はそれ先週からの繰り返し。なにしろ確認というものも基本的に繰り返し繰り返し。繰り返しのなかの繰り返し、こんな具合。

左翼OKですか。

右翼OKですか。

胴体OKですか。

指示出しOKですか...

(すべて確認しマイが叫ぶ)

ペラッ(プロペラ)、回します。

もうこのくだりだけで、グッとくる。似たような気持ちになったことがある。そう、『サンダーバード』(英:1965-66、日:NHK1966-67, TBS67-68)の出動シーン。頭の中で、あのテーマ曲が鳴り響く。2004年にはリブート版として繰り返された、あれですよ、あれ。

そうなのだ。言いたかったのは『サンダーバード』ではなく、繰り返しのこと。こういう「繰り返し」をイタリア語ではリドンダンツァ(ridondanza)と言う。書き言葉では「冗長性」といって嫌われるのですが、話し言葉では重要な要素。なにしろこれ、「波(onda)」が「繰り返し(red-)」押し寄せる様子を表す動詞「rid-ondare」からきてる言葉。繰り返し押し寄せる波は、やがて堤防を乗り越えて溢れ出すわけで、だからリドンダンツァには「余分」とか「過剰」の意味もある。ぼくはその過剰に意味があると思うのです。

そう、波というのは、繰り返し何度も押し寄せることで、岩を侵食し、岸辺の風景を変えてしまう。過剰であるがゆえに、その過剰さが意味をもつ。言葉も映像も同じ。波のように何度も繰り返されることで、過剰な部分が生まれ、その過剰な部分こそが、ある種の効果を生み出してゆく。

それは例えば、週の半ばの水曜日に「なにわバードマン」の人力飛行機のフライトシーンを持ってきたこと。前の週から繰り返されるフライトシーンだけど、だからこそ、溢れ出てくるものがある。だからこそ、たった10分しか飛べなかったという記録的な敗北のなかでも(またしても「も」)、敗北にもかかわらず(むかし哲学のヘーゲルの講義で繰り返されていた「にもかかわらず」!)、まるで大記録を打ちたてて勝利したかのように喜びを爆発させる部員たち。でも、飛んだけれど、目標からの10分の1。それでも飛んだこと。繰り返しのなかから、生み出された過剰なものが溢れてゆくシーン。

だから続く木曜日と金曜日の回には、この溢れ出てきた過剰を掬い上げてゆく。パイロットになりたいという夢が溢れてきちゃったんだよね、マイちゃんに。そうなんだよな、夢なんていうのはさ、過剰のなかでしか姿を現さないんだよな。それはサンダーバードの出撃シーンが繰り返されるなかに現れ、「OKですか?」というマイのセリフが繰り返されるなかから溢れだしてきたもの。まさにリドンダンツァのなかで、パイロットの夢が溢れてきたわけだ。

それは夢だから、どこまでも馬鹿げていて、これまでの文脈からは断絶された、とんでもない異物。それが、ひとつの不協音として受け入れがたく(assordante)、その意味で不条理 (assurdo)であることは、夢を見た本人がよおくわかっている。

だからこそ、毎日モニターと睨めっこして、株取引のなかに利益という万能の虚無を無益においかけている兄は、その話を聞いたとき、「おもろいこというやつや」という感想を抱くことになる。そんなこと家族に言うたらおもろいことになるで。

かれどもそんな馬鹿げた夢、それゆえ不条理の夢とは、それまでの文脈から断絶(ブレーク)され、とつぜん別のものが到来するものであるにせよ、よく見てみれば、すでに出会っていて、かつて触った感覚が手に残り、もう一度触れたその瞬間に胸のなかでみるみる膨らんでゆくもの。そういうものを、音楽用語では「リトルネッロ」(ritornello)とか、「リフレーン」(rifrain)とか、「フリシュカ」(frišká)とか、「サビ」と呼んだりするわけだ。

イタリア語の Ritornello は「再び戻ること ritornare 」。英語の refrain も同じ意味だけれど、そのフランス語経友で入ってきたネオラテン的なその語源には「refringere」(壊す)という意味が入っていることに注意したい。refrain とはそれまでの流れを「壊し frangere」ながら、前にあった何かを「繰り返す」ということを含意してしまっている。

またハンガリー音楽のジャンルのひとつ「チャルダッシュ」では、哀愁をもってゆったりと演奏される「ラッスー」の部分に、突然にスピードが上がる「フリシュカ」の部分が割って入り、それのパターンが繰り返されてゆく。まさにリフレーン形式の力。

日本語のサビはどうなのか。「サビ」とは、「Aメロ」「Bメロ」の流れをブレークしながら繰り返されるもの。語源は不明。「山葵(ワサビ)」から来ていて、味を引き締める意味で「サビを効かせる」からだとも言われている。

でも、考えてみれば、日本語の「さび」は時間の経過のなかで、変質してゆくもののことを言う。だから金属には「錆」がつくし、水だって古くなって水垢がつくことを「さび」と呼び、声にしても、若くてハリがあって美しくなくなると、「さび」がありむしろそこに味があると言う。否定的な時間の経過が、いつのまにか肯定的な意味に転じてゆく。

たぶん美的な趣味としての「寂」にもまた、そんなある種のリフレーン形式を見ることもできるのだろうか。そしてそこには、過剰を産むリドンダンツァがあり、ぼくたちを引き込んでゆくドラマの形式があるわけだ。

いやはや、苦労人と聞く脚本家の桑原亮子(りょうこ、1980- )さんの原作。脚本への落とし込み方、そして演出、なかなかよいですわ。

さらに、福原遥(はるか、1998~ ) の演じるマイちゃんの夢に、貴司の赤楚衛二(あかそえいじ、1994~:仮面ライダーの出身なのね)や、久留美山下美月(1999~、乃木坂46)のような居場所のない友人たちの気持ちが置かれることになる。

それぞれの苦しさ、苦しさのなかの明るさ、明るさのなかの弱さと強さの葛藤が、マイの世界をリアルに広げてくれている。作り込んでいるからこそ、作りものっぽい安っぽさが薄れてゆく。つまりドラマがよくできているのだ。

ドラマがよくできているから、パイロットになるという夢もまた、ある種のリアルなドラマとなってゆく。そんな予感とともに、来週はどう展開するのか。楽しみだよね。

 


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