雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ゾンビと免疫と来るべき共同体

Night of the Living Dead.

 

ちまたでは、まだまだウイルスの話でもちきり。ローマの音楽院ではアジア人のレッスンがキャンセルされたとか、どこかの国の生物兵器ではないかとか、アメリカの対応に比べて我が国ときたらという嘆きとか。そんなおり、娘とウイルスの話をしていて、興味深かったことがふたつある。

 

1. ウイルスの戦略

 ひとつは、非細胞生物としてのウイルスの生存戦略

細胞生物は、みずからの内部に代謝系を抱え込み自力で増殖する。単細胞で増殖するのは危険なので、できるだけ集まって多細胞化することで、安定して増殖しようとする。これに対してウイルスは細胞を持たないという戦略を立てた。自ら代謝系を抱え込むよりも、身軽になって、手近な細胞の代謝系を借りて増殖してしまえばよいというわけだ。

それを聞いていた娘が、ウイルスの戦略ってうちの会社みたいねという。小さくて身軽で、最小の単位で動いているということらしい。なるほど、多細胞生物が巨大な図体を抱える大企業や官僚組織は、さまざまな業務を抱え込んでいる。それが、自らの内部に代謝などのさまざまな機能を抱え込んだ細胞生物のようだとすれば、遺伝子情報を担う核酸だけを保持して、ほかのすべてを外部に頼るスタイルは、非細胞生物のウイルスが、細胞生物に寄生するのに似ている。

 

2. ウイルスとゾンビ

もうひとつ面白かったのは、ウイルスがぼくらの細胞を乗っ取って不死化させるのというのが、まるでゾンビのようだということ。

ゾンビに噛まれた人はゾンビになる。ウイルスに乗っ取られた細胞が、周りの細胞をウイルスに感染させるのと同型ではないか。このとき、ウイルスが感染した細胞は、アポトーシス自死)で抵抗する。ゾンビに噛まれた人間がゾンビ化する前に自死しようとするのと同型だ。

自死できなければ、まわりの人間が自分がまかれるまえにゾンビ化した元人間の脳をつぶす。脳が停止すれば、ゾンビは活動できなくなる。これって、なんとかしてウイルスを無力化しようとする免疫システムの働きそのもの。ゾンビ映画というのは、免疫システムの比喩としても見ることができるわけだ。

 

3. 比喩としての免疫システム

ところで「免疫」というのは「 immune 」と記す。これは否定の接頭辞「 in-」に「munus (義務)」が続いたもので、元来は税金の義務などを免除され、自由で独立した荘園の権利を指す。だとすると「疫病」から生物の自由と独立を保障するものとしての免疫システムは、人間の政治・経済・共生の歴史のパラブルではないか。

そもそも人はひとりでは生きられない。だから誰かと一緒に生きるわけだ。一緒に生きるためには「意思の疎通」が必要だ。それを「comunicare」というならば、そのなかで生まれるのが「共同体 commune 」。どちらの言葉も、その組成は接頭辞「 con- (共に)」に「 munus (義務、役割)」が続いたもの。ぼくらは「義務、役割を共にしながら」生きているのだ。

 

4. 共同体の起源から

興味深いのは、「地方自治体の」と言うとき、英語でもなお「 municipal(イタリア語では municipale)」という言葉が使われ、イタリア語ではさらに地方自治体のことを「municipio」と呼ぶことだ。その組成は「義務 munus」を「取る capere」であり、元来は「住民がローマの市民権を持つ都市」を意味するものだったらしい。

そもそもラテン語の「munus(義務、責務、役割)」には、元来「恩恵、報酬」という意味があり、さらに印欧語の語根「mei- 」にまで遡れば、そこには「相互に交換する」という意味が見出せるようだ。

なるほど。相互に交換するものが恩恵であり報酬であり、義務であり、責務であり、共同体に生きる人の役割ということか。

だとしたら、ぼくたちはぼくたちの共同体を、どうやって立ち上げなおせばよいのか、なんだか微かにではあるけれど、見えてきたような気がするのだけど、どうだろうか。