雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

加藤典洋『完本・太宰と井伏』、短評

完本 太宰と井伏 ふたつの戦後 (講談社文芸文庫)

年末から年頭にかけて、加藤典洋の『太宰と井伏、ふたつの戦後』を読んだ。読み進めながら、これが『9条入門』と平仄をあわせるものだと気がついた瞬間、鳥肌が立った。9条には「ねじれ」があった。そこには平和主義の崇高な理念が輝く一方、敗戦の結果として押し付けられたものだという引け目、そこが「ねじれ」ていたのだ。與那覇潤さんのみごとな解説によれば、かつての加藤はその「ねじれ」を解消するために、憲法の「選び直し」を主張していたが、ここでは「ねじれ」をそのまま受け入れる方向に変化している。

加藤自身の言葉では「憲法9条の『使用法』への問い」を立てることであり、それは8月15日の廃墟の場所に立ち戻り、いわばゼロの地点から考え直してみることにほかならない。注目しておきたのは「使用法」という加藤の言葉だ。これをぼくは、アガンベンの言う「使用」に近づけて考えてみたい誘惑にかられる。アガンベンは「所有」からのパラダイム変換を図るものとして「使用」を言う。

このイタリアの哲学者は、「使用」を意味するギリシャ語の「クレスタイ」という中動態の動詞から発想する。中動態において「動詞は主語がその座〔siége〕となるような過程を表す」のであり、「主語は過程の内部にある」。ということは、私たちが9条を「使用」するとき、私たちは「使用」という9条の過程のなかにある。そして、その過程のなかで変容してゆく。加藤においてそれはおそらく、憲法の「ねじれ」を解消するのではなく、むしろその「ねじれ」を生きる方向への転換を示す言葉だったのだろう。

同じことが加藤の「太宰と井伏」にもいえる。一方には文学的な理念の「純粋」に生きようとする「純白」があり、もう一方には「ただ生きていればそれでよい」という文学的な「よごれ」がある。それはいわば、文学的な理念が崩壊したのちの「理念の零度」の地点。いわば「底辺」にふれた状態から始まる文学ということになるだろうか。

かつての加藤は、この文学的な「純粋」と「よごれ」を統合するような方向を考えていた。しかし、『完本・太宰と井伏』に納められた2本の論考のなかで、その立場は次第に「純粋」と「よごれ」を、そのままに生きることを是とする立場へと変化してゆく。それはいわば、「太宰と井伏」の文学的な統合から、その「ねじれ」そのものの文学的な「使用法」を問う立場への変化だといえるのではないだろうか。

 

 

完本 太宰と井伏 ふたつの戦後 (講談社文芸文庫)

完本 太宰と井伏 ふたつの戦後 (講談社文芸文庫)

 
9条入門 (「戦後再発見」双書8)

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アガンベンの身振り (哲学への扉)

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