雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

長崎の教皇と「死に神」の舞い降りた場所

 

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https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52550690U9A121C1ACYZ00/

今朝、教皇フランシスコが長崎を訪問したニュースを見る。アルゼンチン生まれの教皇母語スペイン語で、核廃絶を訴えた。

長崎は雨、雨がっぱの参列者。気になったのはその場所。あの平和公園ではない。その手前にあるこじんまりとした爆心地公演だ。平和公園にゆけば、もっと大きなスペースがあり、多くの人をまえにスピーチができたのかもしれない。しかし、そうはしなかった。むしろ小さな爆心地公園を選んだのには理由があるはずだ。

長崎にはぼくも訪れたことがある。中学の修学旅行だ。平和公園には行った。そこには例の北村西望(1884 - 1987)の平和記念像がある。台座を含めて高さ13.6メートルの巨大な男性像だが、観光気分だったからだろうか、ぼくにはなぜか印象がない。奈良の大仏を初めて見た時よりも印象が薄いし、同じ旅行で訪れた広島の原爆ドームで受けたショックとは比べようがない。

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https://www.nagasaki-tabinet.com/guide/130/

そんな像がある平和公園だが、ぼくはずっとそこが爆心地なのだろうと思っていた。広島の原爆ドームを考えると印象のない爆心地... ところが実際の爆心地は別のところに、きちんと公園となって残っていた。そこをフランシスコ教皇は訪ねたわけだが、ぼくには修学旅行で訪ねた記憶がない。

だとすれば、平和公園のあの有名な記念碑はなんだったのか。そこにはらまれる問題を知ったのはごく最近のこと。彫刻の歴史をかじっていた娘から教えもらった気鋭の研究者、小田原のどか氏のこの記事が、そのあたりことを鋭く指摘してくれている。

10plus1.jp

ここでは、平和記念像の彫刻家が、かつては「勇壮な男性像かつ戦意高揚を意図した作品」*1を多く手がけた人であり、たとえば「山県有朋元帥騎馬像」のような作品を作っていることを思い出しておこう。 個人的なかつての戦争協力を告発するためではない。の記念碑の背後に不気味に連続するものがあることを、ぼくらはつい忘れてしまう、その戒めのためだ。

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https://bronzerider2.jimdo.com/騎馬像-equestrians/中国/山県有朋/

そんなこともあって、ぼくは教皇は長崎を訪れないかもしれないと思っていた。だから今回の訪問はちょっとしたニュースだった。しかも、あの平和公園ではなく、爆心地公園の記念碑の前でスピーチを行ったのだ。

その記念碑は《原子爆弾落下中心地碑》(1956)という。これは「建築家の松雪好修によるもので、原爆の焼影の角度によって形態が決められている」ものらしい。そこにある「落下」の文字は、彼地から飛んできて「投下」された原爆のことだが、ぼくにはオバマ大統領の広島の演説の一節を想起させる。

空から死神が舞い降り、世界は一変しました。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。*2

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http://dubleve.jp/2015/12/01/長崎|原子爆弾落下中心地碑|浦上天主堂遺壁|/

まさに「死に神」の舞い降りるところを指し示す建築学的な形象なのだが、この松雪好修による記念碑は長い間忘れられていて「設計の意図なども不明」だったらしい。そして「1990年代にこれを撤去し、被爆50周年記念事業として新たに富永直樹《母子像》(1997)を建立するという計画」が発表されることになる。

この富永直樹(1913-2006)とは、平和記念像の北村西望の愛弟子であり、やはり長崎の生まれの世界的彫刻家。彫刻だけではなく、工業デザインのさきがけとしても知られ、たとえば《国産四号電話機》(1950年)などを作った人だという。世にいう黒電話だ。そのデザインは嫌いではない。昔の家にもあったし、映画などで見かけるたびに、懐かしい空気が感じられる、時代をマークするデザインだ。

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http://www.chinoshiminkan.jp/museum/2014/0419/index.htm

しかし、その《母子像》のほうはどうなのか。

松雪好修による記念碑を撤去し、新たな記念事業としてのその建立を計画したのは、平和記念碑と同じく長崎市のイニシアチブだったというが、この計画に市民から強い反対運動が起きることとなる。細かい経緯は、小田原さんの記事を見ていただきたいが、結局のところ、爆心地の記念碑の撤去こそなくなったが、《母子像》は同じ公園のかたすみに建立されることで落ち着いたようだ*3

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https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019111200008.html?page=3

ぼくは直接見ていないが、実際に見てきた娘は、この《母子像》には「とんでもないもの」という印象を持ったという。たしかに写真でも見ても、「亡骸にも見えるみどり児を抱きかかえ、バラの花がちりばめられた華美なドレスをまとった女性という造形」はおどろおどろしく、明らかに場違い。なにしろキリシタンの長崎なのだ。イコンとしての「母子像」を敬愛してきた人たちが、このバラのドレスの母子像をどう感じるか、想像するのがそれほど難しいことには思えない。

いずれにせよ、教皇フランシスコは、たとえそんな母子像が同じ場所の片隅にあるにせよ、むしろ「空から死に神が舞い降りた」場所を建築学的に示す記念の石柱を選んだ。そしてこの建築学的な記念碑の前に立つと、そこにも、せかいのどの場所にも、あの「死に神」がふたたび舞い降りることがないようにと、この雨の中を祈り、その祈りの言葉を世界に伝えようとしたというわけだ。

なにしろ、この列島では今、いたるところに「死に神」と戯れようとする輩が出没している。かつて「死に神」が舞い降り、多くの生命が損なわれ、傷ついたその場所は、もし教皇が訪ねなければ、いったい誰が思い出したというのか。

なにしろ、一本の石柱よりも、あの巨大な像のほうがわかりやすいのだ。記憶がなくても、勉強していなくても、その前に立って見上げることで、それなりの気分を味わえる。おどろおどろしい母子像を見上げて、楳図かずおの漫画みたいだなと笑えばよい。巨大で空虚な笑顔を見て安心し、神聖を冒涜すらできない表層的な母子像に驚いて見せるような「平和」、そこに「死に神」たちの餌場はないと、誰が言い切れるのだろうか。

少なくとも教皇フランシスコの核廃絶の訴えは、どこか時代錯誤に響きながらも、かつて「死に神」の舞い降りた場所を示してくれた。それは、あれが再び舞い降りる恐怖をもはや忘れかけていると、ぼくたちに思い出させてくれている。