雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

タヴィアーニ兄弟の未公開作品 『Il prato(草原)』 について

Die Wiese [Import allemand]


 ドイツ語版のDVDが届いたので、タヴィアーニ兄弟の「Il prato (草原)」(1979)を見る。『パードレ・パドローネ』の成功に続く野心作、日本未公開。音声はドイツ語かイタリア語が選択できるので、イタリア語で鑑賞。

 主演は『パードレ・パドローネ』のサヴェリオ・マルコーニ(ジョヴァンニ)、これが本格的な初の映画出演となるイザベッラ・ロッセリーニ(エウジェニア)、そして当時の舞台俳優としての演技力を買われたミケーレ・プラチド(エンツォ)。

 タヴィアーニ兄弟がこの作品を撮った背景にあるのは、70年代の後半に目立ってきた若者のたちの自殺のニュース。なぜ彼らは自ら命を絶たなければならないのか、その探求がこの映画を動かしている。

 兄弟が参考にしたのは、まずはゲーテの『若きウェルテルの悩み』(1774年)。ご存知のように叶わぬ恋に絶望してピストル自殺する若者ウェルテルを描く古典に加えて、ツルゲーネフの『父と息子』(1862)のラストシーン(主人公のバザーロフが感染症をわざとそのままにして死にいたる)は、この映画の主人公ジョヴァンニが狂犬病の犬に噛まれたのをわざと放置するプロットに重なるもの。

 映画の引用がまたすごい。もっとも印象的な自殺のシーンを探していたタヴィアーニ兄弟は、溝口健二の『山椒大夫』(1954)を考えたというが、なにしろ東洋の映画を引用するのでは距離がありすぎる。そこで、たまたま話をすることができたマーティン・スコセッシの意見を聞いたところ『ドイツ零年』を勧められたのだという。

 もちろん、タヴィアーニ兄弟はロッセリーニの作品に触発されて映画の道に入ったわけだから、『ドイツ零年』を知らないはずがない。しかし、そのロッセリーニの娘であるイザベッラをキャスティングしたときは、まさかあのエドムンド少年のシーンを使うなんて思ってもみなかったらしい。もちろん結果的には、映画ファンにはたまらないような、じつに感動的なシーンが出来上がる。

 

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 それから音楽。タヴィアーニ兄弟がエンニオ・モリコーネと組むのは『アロンサンファン』(1974)に続く2本目で、これが最後になる。『アロンサンファン』がオペラ的な映画だとすれば、この映画にもまた音楽には大変重要な役割がある。

 注目すべきはイザベッラ/エウジェニアの夢のシーンだろう。そこには「ハーメルンの笛吹き男」さながらの美しくも残酷なシーンが展開される。彼女が笛を吹くと町中の人々は踊らざるをえない。笛がひびくあいだは踊るほかなく、驚愕の眼差しで自分の足のステップを見つめながら、夜明けが来る頃には誰もが倒れてしまう(もしかすると死んでしまったのかもしれない)。そんな場面で流れる激しく魔術的な旋律に続いて、彼女が美しい旋律を奏でると、街の子供たちは彼女につて街をでて、森の中のユートピアへと導かれるのだけれど、そのときの素朴で牧歌的な美しい旋律。このふたつの旋律の対比は、まさにタヴィアーニ流の音楽劇の真骨頂ではないだろうか。

 YouTube に、牧歌的なほうの旋律が聞こえるシーンがあがっていたので、ご覧あれ。

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 ともかくも、ぼくたちが考えておかないとならないのは、この映画が公開される前年の1978年には、赤い旅団によるモーロ元首相誘拐殺害事件が起きていることだ。そんなテロリズムが吹き荒れる時代だからこそ、若者の多くはそんな過激なイデオロギーに馴染めず、だからといって将来への希望を抱くこともできず、ある種の絶望のなかに生きていたというわけ。

 そんな絶望を象徴するのが、ゲーテのヴエルテルでありツルゲーネフのバザーロフ。こうした古典の登場人物の道ならぬ恋ゆえに絶望せざるを得ないという状況は、集団的で公的なイデオロギー(赤い旅団のものであれ何であれ)に対して、あくあでも個人の「私的な問題」にすぎないのだが、その「私的な問題」が「公的な問題」に衝突するときに生じる時代的なピットフォールというか、出口なしの状況というものを、ここでタヴィアーニ兄弟は見つめようとしているのに違いない。

 その意味でジョヴァンニ(サヴェリオ・マルコーニ)の父を演じるジュリオ・ブロージの存在が大きな意味を持つ。60年代の後半から70年代の前半にかけて、怒れる若者=革命家の演じさせては右にでる者のいない俳優が、ここでは自己実現した父親を演じているのだが、その父親が、みずからの息子の絶望に打つもなく、自らもまた絶望の淵に立たされるラストシーンの秀逸なこと。曰く:「かつておれは、もう反抗してやるという言葉は口にしないと言った。だがやめだ。反抗してやる。反抗してやる。反抗してやる... 」

 もう打つ手のない息子の死を前にして、革命世代の父が口にする言葉の虚しい響き。それに対して、緊急搬送のために手配されたヘリコプターが、ジョヴァンニの故郷でありエウジェニアとも出会いの場所である美しいサン・ジェミニアーノの風景と、そしてあの「草原 il prato 」を俯瞰で映し出すときに、聞こえてくる彼の断末魔の喘ぎ声こそは、どうしもなく深い絶望に襲われた世代の抱える闇への、タヴィアーニ兄弟による探求の成果なのかもしれない。

 そういうかたちの絶望もあるのだ。そういうかたちの死もあるのだ。その絶望的な状況を前に、人はなにもすることができないのだという、ある種の美しい諦念。だからこそこの映画は「死についての映画というよりは、死の映画だ」ということになる。

 しかし、それで話が終るわけではない。エンドクレジットを超えて響き渡る、ジョヴァンニの絶望の喘ぎ声は、そのまま『サン・ロレンツォの夜』における絶望のなかの生の賛歌へとつながってゆくことになる。

 

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