雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

人格、あるいはペルソナをめぐって

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Il Phersu, Tomba degli Auguri, Necropoli dei Monterozzi, Tarquinia (Wikipedia it.)

きっかけはこんなツイートだ。

 


「言語は思考そのもの」かどうか、という議論に深く入るつもりはない。サピア・ウォーフの仮説や、それについてのチョムスキーやその弟子ピンカーの反論も、わからないわけではない。なんならエーコの「完全言語」の話も面白いのだろう。けども今、少なくともぼくがもとのツイートを見たとき、ひとつだけ直感的に浮かんだフレーズが「言語が変わると人格は変わる」というものだった。

ツイートには少しばかり反響があった。そのなかのひとつ「人格が変わるのか、適応現象なのか」というものに目がとまる。なるほど、「適応」というのはそのとおりだし、そうかもしれない。しかしそれって、「人格」が変わることでもあるのではないだろうか。ぼくはそう思った。

人格が変わるというのは、けっして特異な現象ではない。同じ日本語のなかでもぼくらは、「人格」がどんどん変わっていゆくのを感じてはいないだろうか。たとえば、じぶんのことを「ぼく」と呼ぶか「わたし」と呼ぶか、それとも「わし」とか「うち」、あるいは「おいどん」やら「まろ」やら「ちん」やら、一人称を変えることで、ぼくらは違う人格をまとってゆく。

娘たちは、こういうのを「キャラ設定」とか言っていたはずだ。小学校から中学校、中学から高校へと進学するとき、彼女たちはつねに、多かれ少なかれ、自分のキャラ設定を意識し、それで苦労もしてきたようだ。じつのところぼくも自分の中学のころことを思い出してみれば、恥ずかしながらそのころ寡黙なキャラに憧れてて(ゴルゴ13とかワイルドセブンのヒバちゃんね)、おしゃべりな自分とのギャップに悩んだ(?)こともあるのだ。ハハハ。

そんなキャラ設定は、相手が代わり、場所が変わり、状況が変わると、どんどん変化してゆく。キャラを、人格を、変化させないとやってゆけないのだ。たんてきにいって、日本語の敬語は、比較的かなり極端なかたちでこれを意識させるもの。

たとえば、部下が上司に向かって、「わしは...」という一人称をとることは許されない。じつはぼくも、岡山から東京に出てきたときは、じぶんのことを「わし」とか「わしゃのぅ」などと言って、まわりの女子から総スカンを食った経験がある。

それはいわば「いなかっぺ大将」の経験だった。『いなかっぺ大将』の「わし〜だス」が笑えたのは、青森の「田舎」からの「上京」という状況において、キャラ設定が変わらないことにある。人はだれも、時と場所と相手をわきまえて、キャラを変える。人格を変える(整える)。きちんとキャラを変えること、人格を整えること。そこに日本語はうまく適応している。あるいは適応させられている。一人称を変化させるのが日本語の常態なのだ。

ところが「いなかっぺ大将」は「わし」の人称を変えようとしない。あるいは変えられない。ぼくはしばらく頑張ったが、けっきょくは「わし」を捨てることになる。きがつけばあのころの「わし」の人格は、おそらく友人たちの記憶のなかに残り(あるいはすっかり忘れられ)、いまの「ぼく」の人格へと変化したわけだ。だから「いなかっぺ大将」にはロマンがある。「わし」が変わると、それはもう「いなかっぺ」ではない。変わらないことが笑いにもなるが、それは同時にロマンでもある。そんなロマンがあのアニメの根っこにあった。それは、実際にはコロコロ変わる(変えねばならない)人称のうつろいに、頑として抵抗している。人称とともに人格がコロコロ変わるような、そんな「いいかげんさ」が庶民的であるならば、人格に一貫性をもたせ、どこまでもキャラを貫くことが、あそこでは問われていたのかもしれない。

そういえば、日本語の一人称については、こんな興味深い記事もあった。まさにキャラ設定に悩む女子が、ひとつの創造的飛躍をした記録とでもいえばよいのだろうか。

withnews.jp

閑話休題。ともかくも、「言葉と思考」に関しては留保しておくが、言葉は、少なくともパーソナリティ、あるいは人格と、かなり密接な関係があるというのが、ぼくの直感だ。

ぼくは言語と人格、あるいは言語とキャラは、ほとんど不可分だと思っている。さきに人格があって、そこから言語が生まれるのではなく、その言語があるから、それらしき人格が現れてきて、現れてきた人格によってさらに言語が変化してゆく、そんな相互に影響しあう関係にあると思っているのだが、ふつうはそんなふうには考えられていないのだろう。

それはたとえば、人格形成とか。人格教育とか、人格者という理想が語られるときに顕著な気がする。教育は、どこまでも一貫性があり、不変で、それゆえに立派な人格を形成するのが崇高な目的である。そんなふうに語れば、多くの人がああそうなんですねと納得するのではないだろうか。けれどもぼくにはとても、そんなことができるとは思えない。そもそも人格なんて、なにか実体として形成できるものなのだろうか?

じつのところ人格は実体ではないのだが、そのあたりにことを以下に、すこし語源的に考えておきたい。そもそも「人格」 personality という言葉は、語源的にはラテン語のペルソナ persona に遡る。ペルソナ persona というラテン語は、おそらく直接的には、エトルリアの墓に描かれた正体不明の仮面ダンサーを意味する「ペルス」に由来しているらしい。

エトルリア人たちは交易の民だから、ギリシャ文化の影響も受けていた。だからこの Pherus という言葉は、ギリシャ語の「プロソーポン prósōpon」を取り込んだのだと考えられている。この「プロソーポン」は仮面のことであり、仮面をとおして表現される舞台の登場人物のことを意味していた。

つまり、ペルソナ、あるいは仮面とは、本来的には舞台で俳優たちがかぶる面(おもて)のことであり、仮面はあくまで仮の面であり、それ自体は空虚なものだったというわけだ。

さて、ラテン語の persona という言葉だが、それはのちに、キリスト教において三位一体説を説明する重要な用語「位格 perosna」となる。すなわち、「神とは、1つの実体 substanza と3つの位格(persona)〔父なる神、子なる神、精霊〕において、永遠に存続する」というわけだ。

たしかに、ただ「3つの位格 perosna 」といわれるとピンと来ない。しかし、これを「3つの仮面 persona」と言い換えると、なんだか分かるような気がしてくる。なにしろ、ここで「実体 substanza」と言われてるものは、じつのとおろ「sub - stanza 下に・あるもの」ということ。そういうものとしての神、つまり「実体=底にあるもの」(substanza)として神はひとつだけれど、現れるときには3様の現れ方をする。つまり神は、3つの仮面 persona をかぶりわけて現れるというふうに読めるわけだ。

これを演劇でいうなら、「神」は、場面によって父の仮面をかぶり、ときには子の仮面、そしてときには精霊の仮面をかぶって現れる。仮面はそれぞれ違うが、いずれも神なのだ。もっと言えば、あらゆる局面において大切な役割をはたす「登場人物たち persona」 、それらの「底にあるもの substanza 」は、たったひとつの「実体 substanza 」としての神なのだ。

しかし、実体 substanza としての神とは、あくまでも背後に控える存在であり、「底にあるもの」 substanza として隠れている。隠れているものの姿は、ぼくらには見えない。見えるのはあくまでも「仮面 persona 」であり、その「演技 rappresentazione 」なのだ。

にもかかわらず、ぼくらがそこに神を見たと思うとすれば、神とはぼくらの「思い」にすぎない。そして、その「思い」が生まれるところは、舞台におけるペルソナたちの戯れであり、あのエトルリアの墓の仮面男ペルスの謎の踊りのように、見るものを引きつけておいて、そこに意味を読み取るようにいざなう謎なのではないだろうか。謎は意味への誘惑だ。その誘惑は意味を与えないことで誘惑する。

くりかえそう。神とは、ペルソナたちの戯れによって、ぼくがたちがそこへと誘惑される謎なのだ。仮面・ペルソナ・位格、その戯れの下にはただ舞台があるだけなのだが、その舞台を支えている「下にあるもの substanza 」=実体は、ぶたいの上に姿を現すことはないし、そもそもそんなことはできないわけだ。

だから観客が、いくら責任者出てこいと叫んでじも、舞台に引きずり出された誰か責任者は、彼もまた責任者の仮面を被った誰かにすぎず、ましてや舞台に立つ限りで、その「下にあるもの」ではありえない。つまり、責任者や、ましてや神を表舞台に引き出そうとする試みは、それが substanza を舞台の上にあげようとする試みであるかぎり、つねに失敗することが定められている。そこには仮面の、ペルソナの、戯れしかない。

ひとつの substanza とは、それを「神」と呼ぼうが「謎」と呼ぼうが「運命」と呼ぼうが、その言葉もまた、ただ仮面 persona の戯れとなって、どこまでも空虚にひろがる無限の容器に、観客の希望と絶望と欲望を飲み込み、飲めば飲むほどに、すこしずつ姿を現してくる仮面の神々の祝宴の、その「下にあるもの」にとどまりつづける。

そんな substanza が「実体」と訳される文脈は、哲学史をひもといてもらうことにして、謎として舞台の下にあるはずの、姿の見えないなにものかを、あたかも見えるかのように、あたかも姿があるかのように、とりだしてきて目の前に見せられるように振る舞うのが、たぶん、「現前の形而上学」とかよばれるものなのだろう。人格を実体と混同し、実体を現前として形而上学的にとらえるのが、いわゆる人格教育とか人格形成の思想に背後にあると言うと、いいすぎだろうか。

ペルソナは仮面にすぎない。それは仮象なのだけど、ぼくらはそれしか見ることを許されていない。そこからしか、考えられない。ペルソナの向こう側には、ただ空があるだけなのだが、それでも舞台のうえで、ペルソナが言葉を話し始めるとき、ぼくらはそこになにかを聞き取り、その聞き取ったものをぼくらもまた、生きることになる。

ペルソナの言葉は、仮面を通して響く per- sonare ものであるかぎり、言葉が変われば、仮面も変わる。あるいは仮面が変われば言葉もかわる。それはあくまでも、舞台における役割 pars (parte )であり、この部分 pars (parte)を通してしか、ぼくらは正の全体に触れることはゆるされていないということなのかもしれない。

 

言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)

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完全言語の探求 (叢書ヨーロッパ)

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