FBにこんな投稿を見た。
書かれているのはアントニオ・グラムシの言葉。こんな意味だ。
古い世界は死につつある。
新しい世界はまだなお現れていない。
このたそがれ時に
怪物が生まれる。
Il vecchio mondo sta morendo.
Quello nuovo tarda a comparire.
E in questo chiaroscuro
nascono i mostri.
ぼくたちもまた、グラムシが「このたそがれ時 (questo chiaroscuro) 」と呼んだ時代に、生きているのかもしれない。ここのところ、そう思わせるような事件が相次いでいる。
たとえばこれ。
ローラさんの辺野古署名呼びかけで「干されるのでは」という声が出ています。日本では芸能人の政治発言はタブーとされがち。発言をすれば賛否両方で話題になります。そういえばあの時も、あの人が…。芸能人と政治を考える過去の記事を、連続ツイでまとめました。#辺野古署名 https://t.co/9UcWlKrnqh
— 朝日新聞デジタル編集部 (@asahicom) December 20, 2018
「辺野古署名」というのは 、ツイッターやフェイスブックで話題になったアメリカの嘆願サイトで、辺野古の埋め立てに反対する署名活動のこと。じつは、ぼくもこれにはサインしたのだけど、たとえばローラさんのような芸能人が署名を呼びかけることが、一部の人たちから、「左傾化」だとか「政治発言はいかがなものか」などの批判が出てきたというのだ。
聞いた話だけれど、接待業のプロの方々は「スポーツ、宗教、政治」をしないという。阪神ファンのお客に巨人を贔屓するような話をしたらまずい。宗教も政治も同じこと。それはわからないでもない。しかし、それはあくまでも接待のプロの心得。仕事を離れたら、まったく関係がない。むしろ、ぼくらは贔屓のチームを応援し、自分の信じる神を拝んだり、あるいは神を持たないでよいのだと信じたりする。
政治だって同じ。生活を営み、税金を納め、選挙に行く。あるいは行かないで投票率を下げるときも含めて、ぼくらはいつだって政治的に生きている。政治家だけが政治を行っているわけじゃない。ぼくらはそもそも政治的な生き物なのだから。
だから、つくづく思うのだけど、「政治的な発言をしない」ということ自体が、実に特殊な「政治的な言語行為」。沈黙は明白な言表行為だ。それは、不作為の作為ってやつであって、簡単に言えば、溺れている人がいるのを黙って見ているのは、ほとんど殺人行為だってこと。もちろん人は、なんだか変だなと感じていながら、特に変なことではないと思い込んでしまうもの。そういうのを安全バイアスと呼ぶけれど、「芸能人は政治的な発言をしない(ほうがよい)」というのは、この安全バイアスをさらに強固にしてしまうだけなのだ。
たしかに今、「古い世界は死につつある」のだろう。しかし「まだ新しい世界は現れていない」のだ。そして、ぼくらの国に蔓延る「安全バイアス」の影から、いくつもの「怪物たち」が生まれている。怪物たちは、基地負担軽減と言いつつ新たな基地のためにジュゴンの海を埋め立て、空母を空母と呼ばずに保有し、戦争と呼ばずに戦争の準備を進めている。領域国民国家の論理は(たぶんすでに)死に体であるにもかかわらず、あらたな共同体をさぐる試みもまた、あらゆる局面で文字通りの「壁」につきあたっている。冷戦の壁の崩壊から30年になろうとしている今、パレスチナの壁、メキシコの壁、そして地中海の見えない壁、世界のありとあらゆる場所に、怪物たちが壁を立ち上げようとしているのだ。脱領域的な経済をリードする者たちが、日本で、カナダで、世界中で拘束されている。
いったい何が起こっているのか?思い出すのは、ちょうど授業で扱っていたイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』(1997)の不気味なナゾナゾだ。
そのひとつ目は、ユダヤ人ウェイターのグイードに、ドイツから来ていたレッシング大尉が出題したもの。
大きくるほど見えなくなる
Più è grande e meno si vede.
ふたつめは、そのレッシング大尉が、イタリアを立つ直前に、グイードに出題したもの。
僕の名前を呼んだら、僕はもういない、僕は誰だ?
Se fai il mio nome non ci sono più, chi sono?
そして3つめ。
Grasso grasso, brutto brutto
tutto giallo in verità:
se mi chiedi dove sono ti rispondo "Qua qua qua".
Quando cammino faccio "poppò"
chi son io dimmelo un po'.
デブデブしてて、ブサイクで、
ほんとうは全身が黄色:
どこにいるかと聞かれれば「ココ、ココ、ココ」と答えよう。
歩くと「ウンチ」しちゃう。
ぼくが誰か、言ってみな。
ドイツ人の軍医レッシングの出題する3つのなぞなぞだがひとつひとつ解いてゆくと、いつのまにか時代の空気が浮かび上がってくる。
第一の答えは「闇 l'oscurità」。『ライフ・イズ・ビューティフル』は1939年に始まる。それはドイツがポーランドに侵攻した年。イタリアの参戦はその翌年。まさに、それまでゆっくりと広がってきた「闇」がヨーロッパを覆うのだが、ひろがってゆく闇に誰も気がついてはいなかったというわけだ。
第二の答えは「沈黙 il silenzio 」。強制収容所に送られたグイードは、その医務室でレッシング軍医と再会する。静かに直立させられた収容者たちを診察するレッシングは、おそらくは働けない者の選別していたのだろう。送られる先はもちろんガス室なのだ。しかし、レッシングはグイードに気がつかない。意を決して、あのなぞなぞを口にするグイード。看守が「静かに!」と叫ぶ。しかし彼は沈黙を破り、なぞなぞの答えを口にする。それはまさに「沈黙」なのだが、口にしたとたん消える「沈黙」のために、あの「闇」はここまで広がったのではなかったのか。そしてそこでは、あのグラムシの「怪物たち」が、文字通り暗躍したのではなかったのか...
そして第3の謎々だが、これには答えがない。答えがないとは、どうやらベニーニ/チェラーミが、この謎々をあえて不条理なものにしたということ。それは、あの「アウシュビッツ」という名前がぼくたちに想像させる不条理さと、同じ不条理さを持たせるという目論見なのだろう。それは、どこかカフカ的なもの、間違えて夢の中に登場したような現実なのだ。ベニーニは言う。
「わたしは、光栄なことにユダヤ人ですとは言えません。ただひとりの人間なのですが、こんなカフカの話を思い出したいと思います。ある夜、友人の家に招待された男が、トイレを探そうとして、間違えて友人の父親の部屋の扉を開けてしまいます。目を覚ました父親に、男がバツの悪そうに言います。《すいません、ご迷惑おかけするつもりはなかったのです。どうかわたしを夢だと思ってください》。この映画もまた、すべての映画がそうであるように、ただの夢なのです」*1。
この夜の寝室に突然扉をあけて入ってくるカフカ的な現実は、「闇」がゆっくりと広がり、名前を呼ばれることのない「沈黙」のなかに、立ち上がるもの。そんな大いなる闇と沈黙。そんな場所に、官僚的な緻密さで、粛々と、送り出されるものたちが、その表象不可能な証言によって表象するような何ものか。黄色いダビデの星を押し付けられ、ヨーロッパでは昔から吝嗇で醜悪な姿で描きだされ、街のあらゆるところにいて、なかには自分がそうであることも忘れるほどに、他の人々とかわらないにも関わらず、けがわらしいと忌み嫌われているような存在。しかし、そんな存在こそは、答えとして告げられてはならないもの。だからこそ、第3のナゾナゾには答えがあってはならないと、チェラーミとベニーニは言っているわけだ。
レッシングの第3のなぞなぞを聞いたとき、グイードは沈黙する。その表情に注目しよう。しずかに目を伏せると、滑稽なまでに必死のレッシングから、ゆっくりと離れてゆくと、グラモフォンにドーラとの思い出の曲を見つける。それは『ホフマン物語』。美しい調べを作曲したのはジャック・オッフェンバック。
ユダヤ人でもあるオッフェンバッハの調べ、そしてその「美しい夜、おお、恋の夜よ」と歌う言葉こそは*2、 あのレッシングの第3のナゾナゾに答えることなく、そんな謎かけをしてくる「怪物たち」を吹き飛ばし、高らかに「人生の美しさ」を歌い上げる賛歌として、ぼくたちの記憶に残るのであり、そしてまた、いまぼくらが歌うべき歌なのかもしれない。