雲の中の散歩のように

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プロフェッソーレとマエストロ

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fb/Giotto_di_Bondone_-_Legend_of_St_Francis_-_15._Sermon_to_the_Birds_-_WGA09139.jpg

Retweeted 中田考 (@HASSANKONAKATA):
大学の教員は、小中高の教師とは根本的に違います。大学では教員が教えるのではなく、学生が学ぶのです。少なくとも私が大学生の時はそれが大学というとものだ、ということには学生と教員の間に広範な合意があったと思います。 https://t.co/RynRsFFKW9

 去年のツイートだけれど、これをきっかけに少し考えたことがあるので、備忘のためにブログアップしておきます。

 「大学では教員が教えるのではなく、学生が学ぶのです」というのは、ぼくも共有する感覚です。大学の教員は、まずは研究者として採用されているわけですから、教えることに関して優先順位が下がる。教えるよりはまず、研究すること。そして研究室において、研究者を育て、研究の継続性を確保すること。そういう感覚は、ぼくも大学院のころに感じていたものでした。

 ぼくが上のツイートに少し付言したいのは、「小中高の教師とは違う」という部分です。研究者という部分では、たしかに大学の教員は小中高の教師とは少し違う。けれども「教える」という部分では、それほど変わらないのではないでしょうか。高校生だって中学生だって、教師から「教わる」部分が大きいとしても、最終的には自分で「学ぶ」ようにならなければなりません。

 では、どうすれば自分で学ぶようになるのか。「教えること」と「学ぶこと」に関しては、以前このブログで、イタリア語の語源に遡りながら、すこし考えたことがあります。 

hgkmsn.hatenablog.com

 ここでは「教師」あるいは「教員」について、イタリア語にひきつけて考えておきたいと思います。「教える人」という意味では「インセニャンテ」(insegnante)でしょうか。けれども、日本語でも呼びかけるときは「先生」とか「教授」とか、いうようにイタリア語でも「インセニャンテ」は呼びかけには使いません。「先生」という呼びかけに相当するのは「プロフェッソーレ」(professore)です。

 このプロフェッソーレは、英語のプロフェッサー(professor)に相当しますが、大学の教員だけではありません。イタリア語では高校の教員も、中学の教員も、プロフェッソーレ (professore) と呼ばれます。小学校は違います。小学校や幼稚園の教員はマエストロ(maestro)です。

 どうして小学生まではの「先生」はマエストロで、中学生からプロフェッソーレとなるのか、はっきりしたことはわかりません。けれども、それぞれの言葉の意味を考えてみると、腑に落ちるものがあります。

1. プロフェッソーレ

 「プロフェッソーレ」とは「プロフェッサーレする者」ということですが、「プロフェッサーレする」(professare)という動詞は、「宗教的な信仰や、政治的イデオロギーや哲学的な立場などを公然と表明し、それに従うこと」*1という意味になります。語源的にはラテン語 pro-fitieri 【 pro- (〜の前で、前に向けて)+  fatēri (認識する、認める、話す)】に遡るのですが、興味深いのは、この「profĭtēri」が「 confĭtēri 」とともに、新約聖書ギリシャ語 homologéō の訳語にとして用いられたということです。

 このギリシャ語は homo + -logeo という要素に分かれます。それぞれは「同じ、一貫した(homo-)」と「言葉を述べる(-logeo)」ですが、これはキリスト教における「信仰告白(ホモロギア)」のことです。ラテン語はこの言葉を翻訳するとき、人々の前で公然と(pro-)表明するときには pro-fessare (信仰を公然と語る)を用い、同じ信仰を持つ誰かと共有する(con-)ときには con-fessare (信仰をともに語る)を用いたと考えるとわかりやすかもしれません。

 こう考えてみるとプロフェッソーレとは、まず第一になにか信じるものを持っている人のことです。現代的にいえば、ひとつの学科、数学や歴史や文学などの学問について、一貫した言葉を語る能力を持ち、その学問に献身する人がプロフェッソーレということになるのでしょう。

 だとすれば、イタリア語で中学校以上の教師がプロフェッソーレと呼ばれるのは、イタリア語に特有な誇張もあるにせよ、中学校以上の教科は専門性が高いということになります。つまり、その分野に専心している者が、その分野の言葉で、そのすばらしさを語ること(プロフェッサーレ)によって、学びの起動が期待されるということなのかもしれませんね。

2. マエストロ 

 一方のマエストロ(maestro)ですが、語源的にはラテン語の magis (più, より多い)に遡るもので、「優れている superiore 」の意。つまり楽器を演奏したり、絵を描いたり、物を作ったりと、具体的な技芸に「優れている」者がマエストロということになります。

 だとすれば、幼稚園や小学校の教師がマエストロと呼ばれのもよくわかります。クレヨンを持ってお絵描きをする園児たちよりも、先生がたはずっとお絵描きがうまい「マエストロ」ですし、文字を学び書き方を覚える小学生にとって、お手本を示してくれる先生もまた「マエストロ」だというわけです。

 興味深いのはマエストロ(maestro)に対置されるのがミニストロ(ministro)であるということです。語源的にラテン語の minus (meno, より少ない)に由来するミニストロは、「優れていない」人ということですが、それは技術のことではなく、むしろ身分の話であり、高位の者に従い仕える「臣(おみ)」のことです。わかりやすい例は、総理大臣(Primo Ministro)ですね。これは「第一の」(primo)「従者」(ministro)という意味ですが、主権を持つものが王であるならば従者の一番手(大臣)ということであり、民主主義の国であるならば、国民の下僕のNo.1 ということになりますね。

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  教義を掲げて教説を垂れるとプロフェッソーレ。技芸に優れたものが弟子をとるとマエストロ。さてはて、イタリア語を教える立場にいるぼくのような者は、どちらなのでしょうか。講座に来られる日本人の受講者のみなさんよりは、イタリア語の会話や読み書きの能力が多少優れているからマエストロではあるけれど、じぶんよりイタリア語にすぐれたイタリア人の前では烏滸がましいかぎり。一方、大学なんかで外国語を学ぶことの意義を説いて、みずからもその道を進んでいるという意味ではプロフェッソーレなのなのかもしれませんが、イタリア語というのは、宗教でもイデオロギーでも学問でもなくて、たんなるコミュニケーションの手段であり、道具であり、そういう意味ではしばしば呼ばれてきたように「語学屋さん」にすぎません。
 まあ、いずれにしても、亡くなった恩師T先生の口癖を思い出します。曰く「先生とよばる先生、生徒の成れの果て」。あるいは曰く「先生と呼ばれるほどのバカとなり」。
 いやはや、たしかに、つまるところ、いかがわしい商売ってことですよね、先生。
 

*1: "professare: Manifestare e seguire apertamente una fede religiosa, un'ideologia politica o filosofica, ecc." (il Devoto-Oli 2015).