雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

マン、ヒューマン、デビルマン...

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テクノビート

単調な波形

MAN

HUMAN という声

反復して

反響する

MAN MAN

MAN MAN

MAN の連呼

HUMAN の解体

ビートは

止まらない

 

エレクトリックな装飾音

幾重にも纏い

先へ先へと

止まる気配のないビート

まるで

なんとしても

あの真紅の

カタストロフィー

その向こうの

CRYBABY の情景

そこにぼくらを

道連れにする

つもりに

ちがいない

 

 湯浅版『デビルマン』を見た。上に記した一連の言葉は、その『DEVILMAN crybaby 』のオープニングテーマ、電気グルーブの「MAN HUMAN」に触発されたもの。その MAN HUMAN というタイトルが、HUMAN から MAN を分離し、デビル(DEVIL)に憑依されてなお人間であり続けるデビルマン( DEVIL-MAN) を呼び込む仕掛けだと感じるために綴っていたものなのだと思う。

 DEVIL は HUMAN と相容れない。そうだとされてきた。しかし果たしてそうなのか。本当はそうではないのではないか。そんな疑問は ANIMAL と HUMAN の違いを考えるとき立ち上がる問いと相似形だ。

 ジョルジョ・アガンベンは、人間を動物から区分する不断の営みのことを人類学的マシンと呼んだ。それは人間と人間にあらざるもの(たとえば動物のような存在)との境界を定めつづける。もちろん人間も動物だし、クジラも、イルカも、犬も、猫も、そしてダニでさえも動物であることは変わらない。

 それでも人間は動物とは違うし、違っていても不都合はない。違うからといって、ともに生きられないわけではない。違うなりに折り合ってゆけばよい。じっさい人類学的マシンは、人間とも動物とも判別しがたい非人間を生み出してきた。そんな魑魅魍魎はそれでも、人間世界とそうでない世界との閾に息づき、境界を行き来してきたのではなかっただろうか?

 

それは

ぼくらの傍にいた

アキラとリョウ

まだ幼いふたりの

寄り添うように

 

人類学的マシン

生み出す境界

どちらともつかない

閾はまだ

開かれて

いたはず

 

ヒトにソレ

あるのなら

動物や悪魔に

ないわけがない

愛もあるだろう

ならば愛して

やりもらう

 

MAN HUMAN

マシンからの

繰り返すビート

自由の閾の

隠された広がりを

さらけ出して

引きさく

境界

 

HUMAN は HUMUS、

すなわち大地に

生きるもの

だったはずなのに

あのマシンの

あのビートが

HUMUS から

MAN を

引き離す

 

ANIMAL が来れば

ANMAL MAN (獣人)

 

DEVIL が来れば

DEVIL MAN 

 

泣き虫の

デビルマン

 

そのとき MAN は

どちらからも追いやられ

その生をむき出しにされ

その涙さえ絞り尽くされ

ついにはあの赤い海に

永遠のビートを残し

虚空を見つめる

ことだろう

  

MAN HUMAN

MAN HUMAN

 
MAN HUMAN(DEVILMAN crybaby Ver.)

MAN HUMAN(DEVILMAN crybaby Ver.)

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開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)

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