授業でやってる『道』の冒頭のシーンの続き。
ここでのダイアローグなんだけど、ポイントはやはりローザの存在。
近所の女性がジェルソミーナに近づいて来て言う。
- Te ne vai, Gelsomina? (行くのかい、ジェルソミーナ?)
そこでジェルソミーナは「Parto. Me ne vado. 」(出発よ。行くわ)と答えるのだけど、そのときのト書きに「con stonata baldanzosità 」という指示がある。baldanzoso という形容詞は「自分を信じて、将来を恐れないこと」。そんな「自信と大胆さ」baldanzosità はしかし、どこか「stonato」( 調子っぱずれ)でなければならないわけだよね。
そんなジェルソミーナは、女性に「Dove vai? 」(どこに行くの?)と聞かれて、こう答える。
- Vado in giro, a lavorare. Vado a lavorare.
(あちこち回るの、仕事するんだわ。仕事にゆくのよ)
その時のセリフにも、「con l’euforia dell’incoscienza 」という指示がある。 euforia というのはある種の興奮状態のことなのだけど、eccitazione と対置される言葉。eccitazione が外部から刺激を受けた結果として「興奮」するのに対して、この euforia というのは、幸福な心理状態の結果としての「興奮」というのがポイント。だから、お酒やドラッグなどの影響でうれしくなって「興奮状態」になることも言うわけだ。語源はギリシャ語の[ euphoría ] だけれど、これは副詞「 êu ‘bene’ (よく)」と動詞「 phérein ‘portare’ (保持する)」から成るコトバで、「いい感じを保っている」ということになる。
ようするにジェルソミーナは、何かに酔ったように興奮しているわけだけど、そこに「dell’incoscienza」(無意識の)という限定があるのはどういうことか?ジェルソミーナの〈無意識〉とはなにかを考えながら、セリフの続きを聞いてみよう。
- M’insegno un mestiere, poi mando i soldi a casa…
(仕事を覚えるのよ、そして家にお金を送るわ)
貧乏な家だ。頭のたりない厄介者だったジェルソミーナにすれば、仕事ができること、そして家に送金できることは、大変な喜びだ。しかし、この「興奮」(euforia)は〈無意識〉のものではない。それが姿を見せるのは続くセリフ。
- Lavora sulle piazze, fa l’artista.
(仕事は広場を回るの、芸人なのよ)
ふたつの動詞 lavora と fare が3人称の単数形であることがポイント。学校イタリア語では、主語が変わるときは明示せよと教えるのだが、ここでは、なんの前触れもなく、あたりまえのように、1人称から3人称に移行している。その3人称の主語は誰か。ふつうに考えればザンパノなのだが、ジェルソミーナの脳裏では、あの〈無意識〉が顔をもたげているのだ。
- Faccio anch’io l’artista, suonare, cantare… Vado a lavorare anch’io come Rosa…
(わたしも芸人になるの、歌ったり、おどったりするの。働くのよ、ローザみたいに…)
そうなのだ。ジェルソミーナの3人称に姿を見せるのは、つい今しがた亡くなったことが伝えられた姉のこと。かつてザンパノに連れてゆかれ、広場を回って歌って踊り、貧乏な家に仕送りをしてきた
ローザの記憶なのである。だからこそト書きには、ジェルソミーナがローザの名前を口にした瞬間について、こんな指示が記される。
Si interrompe bruscamente, come se il nome di Rosa l’avesse ridestata alla realtà, si incupisce.
(ジェルソミーナは)突然にセリフが途切れると、ローザの名前によって現実に引き戻されたかのように、表情が暗くなる。
このト書き、下手な監督ならジェルソミーナのアップで応じるのだろうが、フェリーニは背後からの引きのショット。彼女の表情の変化をうかがわせない。それでも中断したセリフに、「いつ帰るの?(Quando torni?)」という無邪気な問いが投げかけられとき、背中を見せていたジェルソミーナは、母のほうを振り返ると、動揺の隠せない表情でこう口にする。
- Quando torno?
(いつ帰るのかな?)
ここでも動詞の人称変化がポイント。女性がジェルソミーナに2人称 (torni) で問いかけた「いつ帰る? (Quando torni?)」 は、1人称 (torno) を使って「いつ帰るのだろう?(Quando torno?) 」となる。形のうえでは「自分はいつ帰ることができるのか?」と母に尋ねているのだが、もちろん母に答えられるはずもなく、実のところその問いは自問としてジェルソミーナ自身につきささりながら、彼女の「無意識」の扉を開くのだ
こうしてジェルソミーナは、一瞬黙り込むが、次の瞬間、ザンパノのバイクにむかって突然に走り出す。ト書きには「まるで恐怖と悲しみから逃れるかのように」と記されるのだが、そんなジェルソミーナに母親が叫ぶ。
- Non ci andare! Figlia mia, non ci andare!
(往かないでおくれ。わたしの娘よ、行かないでおくれ)
じつのところ、この母親、ローザの代わりにザンパノと仕事に行って欲しいと頼み、こんなにお金をもらったんだよと言った、その母なのだ。
ところで、授業ではここで、こんな質問が出た。「この母親は、最初娘を売り飛ばした悪いやつだと思っていたのだが、ここではちゃんと母親らしいことを言う。いったいどちらが本当なのだろうか?悪い母なのか良い母なのか?」。すぐにこんな答えが飛び出す。「どっちもなんじゃないの」。
善と悪の話に入り込むつもりはなかったのだけれど、思い出したのは『ゼブラーマン、ゼブラシティーの逆襲』、「瞬間に生きる狼と時間をいきる人間」から善と悪について考察する『哲学者とオオカミ』の逸話、そしてナポリのデ・フィリッポの戯曲『山高帽 il cilindro 』。まあ、それはとりあえず余談。
余談はさておき、このシーンの白眉はやはり逃げるように去って行くジェルソミーナと、それを追う母と兄弟姉妹たちの姿は、じつのところ、かつてローザを見送る場面の反復なのである。そして、その反復は、忘れられた存在の回帰にほかならず、だからこそ「無意識」の扉を開くと、そこから、いいようのない恐怖と耐えられない悲しみが吹き出し来る。そんな冒頭のシーンは、さらにラストシーンに反復され、さらにはフェリーニという作家の人生の節目を形作るものとなってゆくのである。
Federico Fellini, I primi Fellini (Garzanti) pp.184-185。
- 作者: マークローランズ,Mark Rowlands,今泉みね子
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