この日曜日、どうしてだか「親和力」のことを考えることになったのは、この記事が始まりだった。
ここで東浩紀はこんなことを言っている。
人間はそもそも、言葉だけではなく、服装や振る舞いや声の高さ低さや、じつに多様なチャンネルからの情報を組み合わせて相手の人間像を組み立てているわけですね。「似る」という判断はその総合から生まれていて、じつは人々は、言葉の内容なんかよりもはるかにそっちのほうに敏感で、基本的にそれをもとにコミュニケーションしているわけです。それは、イデオロギーなんかよりもはるかに根幹の部分で、人の行動を決定している。
この発言、ぼくにはなんだかピンときた。「似る」というのは、たしかに「イデオロギーなんかよりもはるかに根幹の部分」で働いているぶん、かなりヤバイことなのだ。
* * *
ぼくが思い出したのは、大学のころに外国語の語劇の舞台をやったことだ。じつは素人が舞台に上がると、お互いのセリフがどうして似たようなリズムになり、抑揚が自然に同期してしまう。異なる役のセリフが、たがいに「似る」のはドラマとしてはまったくダメ。むしろ、まったく異なるリズムと抑揚がぶつかって、角と角がガチガチいうようなぐらいでないと、ドラマとしてならない。
ところが、日常的にはその逆のことがおこる。ぼくらは「似る」ことによって、あまりドラマチックな日常を生きている。家族どうしは、いつのまにか似たような話し方をしているし、しぐさも似てくる。同じ学校の生徒、同じクラブ、同じ地域、同じ町、同じ県の人々、そして同じイデオロギー、おなじ集団の人々は、どことなく似てきてしまうのだ。
けれども、自分たちが似ていることは、中にいると気がつかない。一度、似たものの集団から外にでることがなければ、似ていることに気がつくことはできない。外に出ることなくその同質性に気がつくためには、遠くから客人がやってきたり、外の言葉に触れる機会がなければならない。その意味で外国語の学習は、母語の話者がようやく獲得した「似たもの同士」の世界に亀裂を入れることになるのだろう。
考えてみれば、ホモ・ロクエンスであるぼくたちは、言葉を話すことによって、どうしても「似る」ことを避けられない。そもそも、ぼくらが発する《声》が、仲間の中で機能するためには、その波長があいてに同調しなければならない。同調することがなければ、ただのノイズであり、通じるとはいえないのではないだろうか。
《声》が同調すること。同調することで、集団において相互に通じるものが生まれること。それが言語の起源だとすれば、同調できない《声》は言語となることはない。誰かと同調し、そうすることで通じる《声》から言語が始まるとすれば、あらゆる言語は、その起源に同調すること、つまり《声》が互いに「似る」という現象を持つことになるのではないだろうか。そう言う意味で、《声》を「似せる」という能力は、おそらく言語の起源の驚異を想起させるのではなだろうか。だからかつては寄席の舞台で、今ではテレビの人気番組で、モノマネが芸として成立してるのだとは考えられないだろうか。
この「似る」というのは「同じ」であることとは違う。「違う」ものでなければ「似せる」ことはできない。イタリア語で「似ている」ことを 〔affinità〕というが、これは「境界に向く(a-finis)」ということ*1。異なるものが隣接するときの力学を表しているわけだ。人間どうしが「隣接する」ときの力学を「親近感 affinità 」と言うが、それは同時に、「親族 affinità」のことでもある。だから親族は似た者どうしの集団になるのだが、それはよいことだけではなく、かなりうっとうしいことでもある。
ゲーテには『親和力』という小説があるけれど、これは「化学的親和力 chemical affinity」から取られたものらしい。Wikipedia によれば「異なる化学種間での化合物の形成しやすさを表す電子的特性」のことだ。ゲーテは「化学的親和力」が人間にも働くものだとということを「姦通小説」を通して描きだしたのだろうか。どうしようもなく好きになることは、そこでは道徳や社会制度を破壊するような解放力を持つことになる。
そう考えてみると、「似ること」あるいは「親和力」というのは、二重の意味で「やばい」。一方では、似た者同士が集まる家族や村や閉鎖的な共同体に特有の鬱陶しい世界を作り上げる。だから「やばい」。けれども、その「やばさ」は同時に、当のその力が作り出した鬱陶しい世界から解放する「やばさ」をもっている。まさに、ゲーテが描いた「姦通小説」は、そういう「やばい」解放力のことを言っていたのではなかったのだろうか(ここは当てずっぽうで言っているので、違ってたらごめんなさい)。
つまり「似る」ということ、あるいは「親和力」というのは、かなり「やばい」力をもっているのだけれど、それが閉塞への力なのか、解放への力なのかはわからない。良いものなのか悪いものなのか、無記の「やばさ」なのである。
そんな力のことを、もしかするとアガンベンは quodlibet と呼んだのではなかったのだろうか。それは「なんであれかまわないもの essere qualunque 」なのだが、「そこにはすでにつねに望ましい(libet)ということへの送付が含意されている 」というものだ*2。そこには、束縛的な磁場としての「親和力」と、解放の力としての「親和力」が働いている。
そういえば、ダンテの『神曲』の最後に有名な一節がある。
L'amor che move il sole e l'altre stelle
愛、それは太陽とその周りの星々を動かすもの。
ガリレオがのちに重力と呼んだ神秘の力のことだけど、それをダンテは愛(amore)と呼んだわけだ。これって、まさに「親和力 affinità 」ではなかったのだろうか。
神秘の力は、つねに存在の臨界 finis に働くもの。その「あいだ」や「あわい」、あるいは「閾」(@アガンベン)や「深くて暗い川」(@野坂昭如)*3。そんなはっきりとしない、無形にして無調の混沌がなければ、なんの形も、どんな調律も生まれることがないのかもしれない。
ぼくらの《声》は、きっと、そこでしか立ち上がることがない。けれどもひとたび立ち上がった《声》は、それが聞こえなくなってもなお、ぼくらを動かすあの神秘の力であり続けるのかもしれない。
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