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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ベルギーのテロをめぐって:ジグムント・バウマンへのインタビュー

イタリア語 もろもろ

ヴェネツィアの友人がFBに投稿していた記事が興味深い。イタリアのコッリエーレ・デッラ・セーラ紙のサイトに掲載されたインタビューなのだが、そのページがこれ。

 

www.corriere.it

 

インタビューに答えているのはジグムント・バウマン(Zygmunt Bauman、1925年11月19日 - )。ぼくは寡聞にしてこの記事で初めて知った人なのだけど、ウィキペディアを見るとこう記されている。

ポーランド出身の社会学者。イギリス・リーズ大学およびワルシャワ学名誉教授であり、「立法者と解釈者」、「造園管理人と猟場番人」、「固定化と液状化」といったメタファーを巧みに用いて今日のポストモダン社会の考察を深めるマルチ・リンガルの知識人として知られる。 

そんなバウマン教授が、あのベルギーのテロ直後のインタビューで話している内容は、ぼくの読む限り、ヨーロッパの良心とでも言えるもの。できるだけ多くの人に読んでほしいので、まったく専門外なのだけど、誤訳覚悟でイタリア語の記事から、以下にざっと訳出しておくことにする(インタビューの原語は英語あたりだと思うのだが、細かいことは定かではない。わかる人は教えてね)。

 

では、以下拙訳です。どうぞ。

 

バウマン教授、ヨーロッパの議論において、テロリズムと移民の問題は、相互に重なり合って、歪んで見えにくくなっていますね。これではポピュリストたちを利するだけで、難民を「犠牲者」として理解する障害となります。そこでは、議論を安全保障のほうへ移行させらるメカニズムのようなものが働いており、あのブリュッセルのテロ事件を受けてワルシャワが宣言したように、各国の政府の国境閉鎖を正当化しているのです。こうした措置を行うと、どのようなリスクがあるとお考えですか。

 

 

「移民の問題」を、国家や個人の安全保障と同一視し、前者を後者の下に置くようなことを、言葉だけではなく実際に政策として実行すれば、テロリストが目的を遂げるのを助けることになります。それはなによりも、予言が自ら正しさを証明するときの論理にしたがって、ヨーロッパの反イスラム感情に火をつけ、ヨーロッパ人自らが、若いムスリムを説得して双方の間に埋めがたい溝のようなものがあることを納得させるようなものです。こうなると、社会関係に深く根ざす葛藤を聖戦という考え方へと向けるのがずっと容易になります。そこでは、ふたつの生き方が融和不可能なままにとどまり、一方だけが本物の信仰で、もう一方の信心は偽りとされてしまうのです。例えばフランスでは、テロリズムとの関係が疑われるムスリムの若者はせいぜい数千人なのですが、それにもかかわらず、すべてのムスリム、それもとりわけ若者は誰もが「共犯者」とみなされ、実際に罪が犯される前からすでに有罪だとされているのです。こうして、ひとつのコミュニティが手軽な安全弁となって、社会的復讐心に捌け口を与えるものになるのですが、そこでは個々人の有する価値はないがしろにされているしまいます。ひとりひとりが、どれほどの責任感と誠実さをもって市民としてやってゆこうとしているかは、省みられなくなるのです。

 

 

「ホスト社会」と移民との生きた関係を保持することは、相互の不信がたかまる状況では、ますます困難になってきていますね。今日のベルギーのように、攻撃にされされた国々においては、統合の希望を基礎付ける社会契約が吹き飛んでしまったのでしょうか?

 

 

テロリズムの側からすれば、私たちの社会における若いムスリムの生活状況が悪くなればなるほど、彼らをリクルートできる可能性が高まります。もしも、コミュニケーションが文化を超え、異なる民族と宗教のあいだで本物の相互作用の働きが起こることがまったく見通せなくなってしまうと、人が他者と直接的に出会い、「顔と顔を」向き合わせて、相互に理解し合うこともまた、ほとんどできなくなるでしょう。さらには、こうしたグループの全体に汚名をかぶせてしまうということが起こります。そのグループには、そこから切り離しがたい特徴があり、だから、「わたしたち、ふつうの人間」とは違うのだというわけです。その結果、このグループの人々は、押し付けられた疎外感に苛まれることになります。ふつうではないとレッテルを貼られ、社会の中心への出入りが禁止されます。彼らは、公然としてであれ、あるいは心の奥底であれ、できればこの中心に入りたいと思っているのですが、ところが実際にはそこから、帰還の権利なしに追放されているのです。それも、自分たちの劣等生について、普遍的な評決 comune verdetto を受け入れるように強いられたそのあとでの追放なのです。あたかも、クラブに入るためにもとめられる標準をクリアできなかったのは、彼らの方だとでも言わんばかりなのです。このように汚名をかぶせられた人は、自尊心に加えられた打撃に苦しみ、その結果、罪の意識と屈辱に苛まれることになります。 汚名はまた、不当な屈辱として認識されることもあります。不当だからこそ、求められ、正当化される復讐は、社会正義をひっくり返せるほどに激烈なものとなり、それによって、奪われた尊厳の回復が目指されるわけです。

 

どうすれば、共同体のなかのそうした人々と関係を取り戻すことができるのでしょうか、政治には何ができるのでしょうか?

 

各国政府は、市民の恐怖を鎮める事に関心がありません。むしろ、未来が見えないことからくる焦燥を掻き立てることで、不安の矛先をずらし、自分たちでは解決の仕方がわからない問題から、より「メディア的な」な解決ができる問題へと、焦点を移行させるのです。第1の種類の問題には、尊厳ある労働や、社会的な地位の安定性という、人が生きるための条件として非常に重要なものが含まれます。第2のものは、テロルとの戦いですね。もちろん、イスラム社会には過激化への戦いにおいて果たすべき役割があるわけですが、わたしたちが理解しなければならないのは、万人に対する脅威を根絶やしにするには、社会が一丸とならなければだめだということです。テロリズムとの戦いにおいて、ヨーロッパが有する一番の武器は、彼らを社会的に受け入れて統合することなのです。