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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ウォシャンスキー姉弟『ジュピター』、あるいは彼女の「不思議な力」について

映画

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/7/76/%27Jupiter_Ascending%27_Theatrical_Poster.jpg

 

結論から言おう。この映画は傑作だ。

 

スターウォーズ』や『マトリックス』と似ているとか、それを超えられたかなんて問題にしているようではだめ。これはSFの形式を借りた寓話であり、そこに込められた寓意とその背後にある現実認識こそが、この映画を傑作にするものなのだ。

 

読み取るべきは、この映画がまぎれもなくぼくたちの生きている今と、真摯に向き合ったところから生まれたものであるということ。たとえば、物語りのなかで英国の若き才能エディ・レッドメインが演じる敵役、アブラサクス家のバレムが、主人公のジュピター(ミラ・クニス)に向かった投げかけるセリフを聞いてほしい。

 

人生とは消費行動なんだよ、ジュピター。生きることは消費すること。お前の星にいる人類は資本に変えられるのを待っている資源にすぎない。この事業のすべては、巨大で美しいマシンのほんの一部であり、そのマシンは進化 evolution によって輪郭を与えられ、ただひとつの目的を持つようにデザインされているのさ。すなわちプロフィットを創造することだ。

Life is an act of consumption, Jupiter. To live is to consume and the human beings on your planet are merely a resource waiting to be converted into capital, and this entire enterprise is just a small part in a vast and beautiful machine defined by evolution, designed to a single purpose: to create profit.*1

 

このバレムのような考え方のことを消費主義 comsumerism という。もともとは、資本主義に対抗する概念として、消費者の立場を保護し、その地位を高めようとする肯定的な言葉だったのだけれど、その後、独善的で軽薄な消費者の行動が、個人と社会を害するようになるという、批判の意味を込めた言葉へと移り変わってゆくものだ。

 

ウォシャンスキーの映画はもちろん後者の立場に立つ。だから物語のなかでは、敵役として設定されたバレムが、肯定的な「消費主義」を宣言することになるわけだが、その言葉はあまりにも説得的であり、ぼくたちはそれに対して、抵抗する言葉も、それを裏付ける理論も、その基礎となる思想も、何一つ持ってはいないように思えるのだ。

 

もちろん、「お前の星にいる人類は資本に変えられるのを待っている資源にすぎない」という言葉には反発を覚える。なぜならば宇宙最大の王家であるアブラサクスの一族こそは、地球という惑星で人類を養殖し、その人口が最大になったときに収穫することを事業としているからだ。収穫とはもちろん人類を殺すということ。では、それでどうやって「プロフィットを創造する」のか?

 

じつはアブラサクス家とは地球の人類に伝わる「神々」のこと。彼らこそが、地球という惑星に自分の似姿である人類を移植したのというのだ。そして、地球の資源ではその生存を支えきれなくなるまでに繁殖したときに収穫し、自分たちと同じ細胞を持つ人類を原料にして「ネクター」を作り出す(一本分のネクターには100人の命が必要だとされる)。ネクターとは神々の飲み物のことだけれども、それは彼らの細胞を若返らせて永遠の命を授けると、文字通り永遠に生きる神々とするものなのだ。

 

同じアブラサクス家の長女カリクが、そのネクターの風呂に入って若返ったとき、驚くジュピターに向かった言う言葉に耳を傾けてみよう。

 

あなたの世界では、人々は石油や鉱物や土地のために戦うわよね。けれども、宇宙の広大さに触れるとき、気がつくはずよ。ほんとうに戦う価値のあるもの、誰かを殺してでも手に入れる価値のある資源はひとつしかないの。より多くの時間がそれ。時間こそは宇宙の中で最も貴重な唯一の商品なのよ。

In your world, people are used to fighting for resources like oil and minerals and land. But when you have access to the vastness of space, you realize, there's only one resource worth fighting over - even killing for. More time. Time is the single most precious commodity in the universe.*2

 

「より多くの時間 more time 」とは不老不死であり永遠の命であり、かつてギリシャの人々が神々に見ていた資質にほかならない。こうした発想は、おそらくラナ・ウォシャンスキーが作品の着想を得たという『オデュッセイア』から得たものだろう。そしてラナは、その神々に現代の消費主義の究極の姿を投影しようとしてるというわけだ。

 

ここに描き出されているのは、誰もが気がつかないうちに絡みとられている経済システムの姿。それが何億年にもわたり宇宙を支配しているのだけど、支配のためには強固な官僚システムが必要だ。ウォシャンスキーはそのあたりも抜かりはない。なんと、あのテリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』を巧みに引用しながら、カフカ的な世界をユーモラスに描き出しているではないか。しかも、テリー・ギリアム本人が王族の印章係 Seals and signet minster の役でカメオ出演しているのだからたまらない。

 

けれども『未来世紀ブラジル』は寓話のようで寓話ではない。システムに一矢を報いようとする主人公が、ついにハッピーエンドを迎えようとしたその瞬間、そんなものは幻想であることが明かされると、ぼくたちは主人公があのシステムによって損なわれてしまったことを知るのだ。しかし、ウォシャンスキーのこの物語はちがう。ちがいは2つ。ひとつはハッピーエンドが用意されていること。もうひとつは、主人公が女性であること。

 

そのジュピター・ジョーンンズは、ロシアからアメリカに渡ってきた移民だ。ふだんは英語を話すが、怒ったときにはロシア語になる。そんなジュピターを演じるミラ・クニスもまたロシアの出身であることは、おそらくウォシャンスキーの狙いなのだろう。夢の国アメリカにありながらも、ハウスキーパーとしてトイレ掃除に明け暮れる美しい娘を主人公に、あるときその娘が王女であったという設定は、まさに寓話の常道。もちろん、彼女の名前がジュピターであることもポイント。それはギリシャの神々のなかでも最強のゼウス神のことであり、神々と人類の両方の守護神・支配神であり、神々と人間たちの父と考えらる存在なのだが、その名前が女性に与えられていることは、重要なポイントのはずだ。

 

実際、ウォシャンスキー姉弟は、今までにないヒーローを作り出そうとしていたという。スペースオペラのヒーローといえば、「感情を隠し、ストロングでストイック」であったが、それをひっくり返そうとしたのだ。

 

わたしたちはこんなふうに考えたのです。はたして(SFに)ドロシーやアリスのようなキャラクターを登場させることはできないのだろうか?知性と共感によって複雑な争いごとを調停するような人物を主人公にはできないのだろうか?

We were, like, 'Can we bring a different kind of female character like Dorothy or Alice? Characters who negotiate conflict and complex situations with intelligence and empathy?' *3

 

もちろん、アリスは「不思議の国のアリス」、ドロシーは「オズの魔法使い」の主人公の少女のこと。もちろんウォシャンスキー姉弟が選んだのはドロシーだ。思い出しておこう。ドロシーはその愛犬のトトとともに、竜巻にさらされ、あの魔法の国に飛ばされてしまう。ジュピターも同じように地球からさらわれることになるが、その傍らにはケイン(チャニング・テイタム)がいる。その名前 Caine はまさに「犬 Canis」 を連想させる名前なのだ。

 

けれども、ジュピター/ドロシーにとって、ケインは初めから愛犬であるわけではない。そうであること、そしてそれ以上の存在であることを、お互いが発見してゆくことこそが、ウォシャンスキーの寓話の、重要なストーリーラインのひとつ。そのケインがジュピターのもとに現れたのは、彼女の遺伝子を嗅ぎ取ったからだ。犬と人間の交配種 splice である彼が、人並みはずれた臭覚を持ったハンターとして地球に送られてきた。探し出すべき遺伝子は、アブラサクス家の王家のものと完全に一致するもの。その遺伝子を持つものが地球の正当な継承者となる。そして、神々のネクターの原料を収穫する農場である地球の所有権を持つものが、王家の事業の行方を左右することになるわけだ。それがジュピターというわけなのだ。

 

ところが、ジュピターを探していたのはケインだけではない。地球の所有権を現在の継承者しているバレムが、自分から所有権を奪いかねない遺伝子の持ち主を抹殺しようとして、刺客を差し向けていたのである。こうしてケインは、成り行きで刺客たちからジュピターを守ることになる。ジュピターは、まさに竜巻に巻き込まれたかのような活劇の果てに、魔法の国のような宇宙世界へと迷い込むことになる。

 

このあたりはまさに『オズの魔法使い』のプロットそのままなのだが、ウォシャンスキー兄弟はそこに、古典的なボーイ・ミーツ・ガールのプロットを重ねることになる。ガールはもちろんジュピター、そしてボーイはケインというわけだ。そしてふたりの間には大きな障害があり、簡単には乗り越えられない。そんなふたりのやりとりがこれだ。

 

まずは、自分には遺伝的な問題があるというケインに、ジュピターがいうセリフ。

 

遺伝的な問題というなら、わたしにもあるわよ。よろめいちゃう男の人はきまって、こっちにはよろめいてくれないの。その点に関して、わたしはほんとうに不思議な力があるの。なんだか、心のコンパスの針が、ぜったいに「正しくない男 Mr. Wrong 」に向いてしまうわけ。それって、わたしの遺伝子のせじゃないかな。わたしも遺伝的な問題をもっているのよ。もしそうだとしたら、なんとか直せないかしら。

Could explain a lot of things about me. Like the fact that I have an uncanny ability to fall for men that don't fall for me. It's like my internal compass needle points straight at Mr. Wrong.  Maybe it's my genes.  Maybe I have defective engineering too. And if that's the case... is there any way to fix it?*4

 

そう言いながらジュピターのくちびるは、ケインのそれに触れんばかりのところまで近づいている。しかし、一瞬とまどうようなそぶりをみせながらも、ケインが答える。

 

あなたはもう王族ですよ。わたしは交配種 splice *5なのです。それがどういう意味なのか、きっとわかってはいただけないでしょうが、わたしはあなたよりも犬に近い存在なのです。 

You are royalty now. I’m a splice. You don't understand what that means, but...  I have more in common with a dog than I have with you. *6

 

このケインのセリフは、ドロシーにむかって愛犬トトが話しているようではないか。しかしトトは百パーセント犬だが、ケインは交配種なのだ。犬に近いかもしれないが、同時に人間でもある。このあたり、ラナ・ウォシャンスキーがトランスジェンダーであることを思い出しておこう。犬だとか人間だとか、男とか女とか、そんな区別を超えてしまうような強い想いが存在する。そして、その想いがどれほど不可能なものに思えようとも、それは人の胸を打ち、現実を少しずつ変えてゆく。しかし、ケインのほうから一線を越えることはできない。この見事なSFのヒーローは、あくまでもストロングでストイックで、心の内を明かすことはないのである。

 

だからこそ、ウォシャンスキーはこの映画の主人公にジュピターを据えたのだ。彼女はその「抜け目のない才能 uncanny ability 」を発揮して「間違った男 Mr. Wrong 」によろめいている。そして今、目の前で自分のアイデンティティーに苦悶するケインを前に、あせって口にする言葉がこれだ。

 

犬ならわたし大好きよ。ずっと犬が大好きだったんだから。

I love dogs, I've always loved dogs. *7

 

おわかりだろうか。ジュピターはまさにドロシーの生れ変わり。だから犬が好きなの当たり前。生まれる以前、まだドロシーだったころから愛犬トトがいたのだから。しかし、たとえ生れ変わりとはいえ、ジュピターはドロシーではない。同じようにケインもまたトトではない。生まれ変わったふたりは、生まれ変わったからこそ「よろめく fall for 」ことが許されたのだ。

 

字幕では「愛する」と訳されていたが、《fall for》とは「詐欺などにひっかかる」ことであり「誰かに突然夢中になること」。もちろんここでは後者の意味だが、そこには前者の意味も含まれる。ようするに、自分では思いがけないものにつまづいて転んでしまうという意味だ。しかし、ドロシーは、たとえ間違っても愛犬のトトに「fall for よろめく」ことはない。「よろめく」のも「ひっかかる」のも相手は人間だ。そして、それは奇しくもジュピターが少々自虐的に使った「不思議な力 an uncanny ability 」そのものではないだろうか。

 

たしかにそれは常に「正しくない男 Mr.Wrong」を選び取るのかもしれない。しかし、逆に「正しい男 Mr. Right」を選ぶ力のことを考えてみようではないか。理性に従って正しい相手を選ぶことに「uncanny (不思議な)」ところは何ひとつない。

 

ここで、少しばかり「un-canny 」という単語にこだわってみよう。それは「canny(抜け目のない)」の否定形だが、その意味は「ビジネスや金銭に関して抜け目のないこと」という意味になる。つまり、ビジネスの分野で「できる」ということなのだ。ところが、その否定形の「un-canny」は「できない」という意味にはならない。「金銭面で間が抜けている」とか「不用心である」とかではなく、むしろ「不思議な」「神秘的な」「並外れた」という意味になるのがポイントだ。

 

それはもちろん「canny」という単語の「金銭的な抜け目のなさ」に、そもそも否定的なニュアンスがあると考えればよいのだろう。だから、その否定的なものの否定は肯定的な意味になるというわけだ。けれども、その「canny」という言葉をさらに掘り下げてみたいと思う。辞書を開いてみれば、その語源は「can」にあるらしい。もちろん、「~できる」という意味の助動詞のことなのだが、この「can」とは古英語の cunnan に由来し、その意味は「やり方を知っている know how to 」ということらしい。そして、その「知る」という意味の「know 」の語源が cnāwan であり、どちらもインドヨーロッパ語族の語根 gno- 「知る」にまで遡るのだ*8

 

この「知る」とは、人が「知る」ことであろう。しかしぼくたちは、世界がぼくたちの知らないことから成り立っていることを知っている。「知る」とはぼくらの知識の届くところまでを言うのであり、その限界の向こう側にあるものと常に対置されてしまうものだ。限界の向こう側にあるものとは、まさに人知の及ばないものとして神秘であり、その神秘によってぼくたちの運命が左右されていることもまた、ぼくたちには自明だったのではないのだろうか。だからこそ、人は思わぬ出会いを享受することができる。それはその神秘に触れる瞬間であり、ぼくたちが常々「運命の出会い」と呼んでいるものに他ならない。「運命の出会い」とは定義からして人知を超えているのだ。

 

ここでようやく、ジュピターとケインの話に戻ることができる。ふたりの出会いはまさに「運命の出会い」であり、その意味で、古典的なボーイ・ミーツ・ガールだ。そして、その「出会い」を実現させる能力こそが、ジュピターの「不思議な力 uncanny ability」に他ならない。この力は、宇宙最大の王朝であるアブラサクス家のような不死を手にれた人々(あるいはオデュッセイアの神々)の「canny ability」を越えるところで働く力なのだ。オデュッセイアの神々が、まさにこの抜け目のなさを発揮して争いごとを絶やすことがなかったのだとしたら、その争いごとを調停し、知性では結びつけることのできないものと結びつく力。それがジュピターの「uncanny ability 」に他ならない。

 

それだけではない。ジュピターの力は、「知性の力 canny ability」が強引に結びつけたものを、そのままの状態に保ちながら解放するものでもある。ケインが犬と人間を遺伝子的に結びつけた交配種 splice であったことを思い出そう*9。そのケインにジュピターの自分の想いぶつけ、ケインはその想いを受け入れることで、自らの交配種としての結び目をそのままに、あの失われた羽根を取り戻すことになるではないか。

 

永遠の命を手に入れたアブラクサス家のような人間の「知性の力」は、ただ強引に奪い、強引に結びつけながら、何も変わるところがない。しかし、ジュピターの「不思議な力」は違う。それは何も奪うことなく奪い、何も変えることなく結びつけながら、結局のところすべてを変えてしまうのだ。

 

言葉にすれば実にややこしい。しかし、ジュピターの「不思議な力」が、何も変えることなくすべてを変えてしまった様を、ぼくたちはラストシーンで相変わらずハウスキーパーとしてトイレ掃除をしているする彼女に姿に見ることができるだろう。彼女の家族も、地球もまったく変わってはいない。しかし、その美しい青空を、羽根を取り戻した天使に守られながら、天使から空とぶ靴を譲り受けた女神が飛び去って行く。

 

そう、何も変わることなくすべては変わったのだ、そう思った瞬間、エンドクレジットには、広大な宇宙に広がる不老不死のネクターのための農場=惑星が、まさに遺伝子のように連なったまま。そこでは、なにも変わることなくネクターの生産が続けられている。もっと時間を消費しようという欲望が、その巨大で美しいマシンを動かし続けているというわけだ。

 

それでもぼくたちは、あの「不思議な力」を目の当たりにしたではないか。その力は、たとえ失われることがあっても、いつか、どこかに、必ずまた戻って来る。

 

そんな現代の寓話が、ウォシャンスキー姉弟による『ジュピター』なのではないだろうか。

 

少なくともぼくは、そう読んだ。

 


映画『ジュピター』予告編 - YouTube

 

 

 

 

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*1:Jupiter Ascending (2015) Movie Script | SS

*2:Jupiter Ascending (2015) Movie Script | SS

*3:Jupiter Ascending - Wikipedia, the free encyclopedia

*4:Jupiter Ascending (2015) Movie Script | SS

*5:字幕では「オオカミ種」となっている

*6:Jupiter Ascending (2015) Movie Script | SS

*7:Jupiter Ascending (2015) Movie Script | SS

*8:ちなみにイタリア語ではこの語根から 「noto (知られた)」や「conoscere (知る)」という言葉が派生している

*9:spilice とは紐などの継ぎ合わせのこと