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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

『グラン・トリノ』の「米つきバッタ」

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 先日、安保法制をめぐる投稿のツイートに、FBの知り合いがコメントしてくれた。クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』(2008年)のなかで、アジア人が「米つきバッタ」と呼ばれているというのだ。ぼくもこの映画見たのだが、「米つきバッタ」という字幕が使われたシーンが思い出せない。それに、オリジナルの英語でどう言うのかも気になるではないか。

 

 そこで、この「米つきバッタ」のもとになった表現を探してみることした。残念ながら手元に映画の日本語版がなく、「米つきバッタ」という字幕を確認できていない。それでも、映画のあらすじの書かれた日本語サイトをいくつかあたると、たしかに「米つきバッタ」という表現が散見された。もう少し調べてみると、なんと The Internet Movie Script Database (IMSDb) というところに、英語のスクリプト*1が掲載されているではないか。

 

 それにしても『グラン・トリノ』のスクリプト、読んでみると卑語や差別表現が飛び交っている。ぼくに英語力がないからだろう。映画を見たときはそれほど気にならなかった。けれども文字を追いかけてみれば強烈な言葉の数々をはっきりと目にすることになる。

 

1. ポリティカル・コレクトネス 

 

 ぼくはアメリカのことをよく知らない。ぼくの知っているアメリカはぜんぶ映画のなかのアメリカだ。だから、アメリカがポリティカル・コレクトネスの国であることが、なかなかピンと来ない。映画では、4文字言葉に代表されるヤバそうな言葉が飛び交っているからだ。それでも、ときどき公共の席で、有名人がその言葉を口にしたというニュースがある。そういうのを見ると、やはりポリティカル・コレクトネスの国なんだと確認させられるというわけだ。

 

 きっと日常生活では横行しているのだろう。けれどひとたび公の場所に立てば、それを口にすることが許されない。みんなが知っている(つまり使われている)けれど、それを使ってはならない(あるいは使ってはならない場所がある)。それがポリティカル・コレクトネスというものなのだろう。そして、この『グラン・トリノ』という映画は、はっきりとそうしたポリティカル・コレクトネスの国への異議申し立ての作品でもあるのだと思う。

 

 そのあたりをイースウッドは、どうやらはっきりと意識しているようだ。ネットで見つけたCNNの記事では、インタビューアーがこの映画のスクリプトにあまりにもひどい言葉が溢れていることについて、やんわりとした言葉でから問いただしているのだが、それに対するイーストウッドの返事が興味深い。

 

CNN:

スクリプトを読んだとき、(こうした差別的な)性質の言葉が気になるようなことはなかったのですか。

[When you read the script, were you at all concerned about the nature of the language?] 

 

Clint Eastwood:

いいえ、そんなことはないですね。もし映画の登場人物が何かを学び進歩することになっているのなら、そうではない何ものかから始めることでしか寛容である術を学ぶことはできないじゃありあませんか。それに、いくらこの人物が年を取っていても、それが理由で学べないなんてことはない。だから、そういうふうに描かれるわけです。

[No, I wasn't. If you're going to learn something and progress in the movie as a character, you have to start as something else in order to learn tolerance. And your character obviously is never too old to learn that, so he has to be a certain way.]

 

けれどわたしは、政治的に正しくないでいること(being polically incorrect )に魅力を感じるのです。いわゆるポリティカル・コレクトネス(PC)は大嫌いですからね。そういうものが、現在のわたしたちの世代を損なっているもののひとつだと思うのです。自分のことを語るときや、ほかの何かを語るときはいつだって、誰もが堅苦しくなっていますよね。けれど、むしろ少しばかりリラックスして、自分のことも、ほかの何かを語るときも、もう少し堅苦しくなるのをやめることができれば、ずっと楽しく生きられると思いますね。

[But I -- being politically incorrect -- I find [it] fascinating because I hate the so-called PC thing. I think that's one of the things that's damaging our generation at the present time. Everybody is taking themselves and everything so seriously. If they just relax a little more and take themselves and everything else a little less seriously, they'd have a lot more fun.] *2 

 

 なるほど『グラン・トリノ』には、かつてアメリカに PC なんて気にせずに「ずっと楽に生きられる」時代があったことが描かれている。イーストウッドの演じるポーランド系アメリカ人のウォルトは、親しい理髪師に 「Wop-Dago 」と呼びかけているし (Wop も Dago もイタリア系の相手への差別用語)、そう呼ばれた理髪師のほうもニコニコしながら「You old Pollack son of a bitch (この老いぼれポラーンド野郎)」と応じているではないか。そんな理髪店で、ウォルトはモン族の少年タオにアメリカ人らしい振る舞い方(言葉使いは悪くても古き良きアメリカの振る舞い方)を教えてやるわけだ。だからタオは、仕事をもらうために連れて行かれた工事現場で、ウォルトが現場監督のことを「You drunken irish goon (この酔っ払いの馬鹿アイリッシュ)」と呼んでも、もはやびっくりすることはない。ウォルトとその友人たちは、「少しばかりリラックスして」(relax a little more)、「あまり堅苦しくなることのない」(a little less seriously)やりとりを交わしているだけなのだから。

 

 〔ウォルト=イーストウッド〕のようなオールドスクールにとって、お互いのエスニシティーの違いを揶揄し合うことは、リラックスのための冗談にすぎない。お互いの違いを認め合うのは人種差別ではなく、むしろ「あまり堅苦しくなることなく」、良好な関係を構築するための会話術なのだ。しかし、そんな会話術は、今の時代に理解されることはない。それはあきらかにPCを逸脱している。ところが、オールドスクールからしてみれば、今の時代は「やたらと堅苦しく so seriously」、いつもポリティカル・コレクトネスを気にしながらビクビクして生きているように見えるというわけだ。

 

 イーストウッドがインタビューでいう「わたしは政治的に正しくないでいることに魅力を感じるのです」というのは、そういうことだ。それはオールドスクールのノスタルジーというべきものだろう。イーストウッドシナリオライターも、はっきりと意識している。たしかにオールドスクールの連中は、たしかに政治的に正しくない言動を繰り返しながらも、相互に尊敬し、リラックスして楽しく暮らせているのかもしれない。しかし実際には、同じように政治的に正しくない言動を繰り返し、相互に憎しみをつのらせ、ついには暴力に訴えるような野蛮が支配する現実があるのだ。

 

2. ライス・バーナー、あるいは米炊き器

 

 「米つきバッタ」という単語をおいかけながら、ぼくは最後に、その「野蛮が支配する現実」に突き当ることになるのだが、その前に、順を追って話を進めることにする。

 

 ともかくもスクリプトを手に入れたので、「米」(rice)を使った表現を検索することから始めることにした。すると、まず最初に出てきた「米」に関する差別表現はライス・バーナー (Rice-Burner) 。この表現は冒頭の葬儀のシーンに出てくる。

 

www.youtube.com

 

 見てみよう。主人公ウォルト(C.Eastwood)の妻の葬儀も終わり、集まった親族が帰り始めたころ、ウォルトは隣人から頼まれてバッテリーのあがった車を修理している。そこに、ランドクルーザーから息子ミッチが声をかける。

 

ミッチ:

お父さん、ほんとうは手伝いたいんだけどね。でも子供たちを家に送らないといけないからね、どうも落ち着かないみたいだから。

[I’d really like to help, Dad, but we have to get the kids home, they're getting restless. ]

 

ウォルトの車にはトヨタのエンブレム。ウォルトは、軽蔑した眼差しで息子を見る。

 

ウォルト:

わかった。行けよ。

[Fine. Go.]

 

ウォルトは頷いて、タバコに火をつけ、トヨタで走り去る息子の一家を見送りながら、こう口にする。

 

ウォルト:

アメリカを買うと殺されるってわけかい。

[(It would) kill you to buy American.]

 

 ウォルトのこのセリフは、トヨタのエンブレムを見落とすと意味が取れなくなってしまう。「buy American」は「アメリカ製の自動車を買う」という意味なのだが、この言葉に込められたウォルトの気持ちを理解するためには、走り去る車のなかで、ミッチが妻カレンと交わす会話を聞かなければならない。息子と嫁の会話によって、父ウォルトの気持ちが浮き上がるように仕掛けられているのである。

 

ミッチ:

見たかい。父さんがこの車を見る目つき。いつもそうなんだ。あれはライス・バーナーだとか、これはジャップ・バギーだって具合さ。お母さんの葬式でも同じってわけか。どうしようもないんだな。

[Did you see him look at the truck? It's always Rice-Burner this or Jap-Buggy that. Even at Mom's funeral, he can't let it go.]

カレン:

でも少なくとも今回は何も言わなかったわよ。

[At least he didn't say anything this time.]

ミッチ:

そんな必要はなかったさ。

[He didn't have to.]

カレン:

あら、お父さんにどうしてほしいわけ。フォードの工場で28年も働いた人なのよ。

[Well, what do you expect? The man worked at a Ford plant for twenty- eight years.]

ミッチ:

畜生め、それが僕のせいだとでも思えばいいのかい。

[And I suppose that's my goddamned fault?]

 

 上のやりとりを見ればわかると思うけれど、ライス・バーナー(Rice-Burner)というのは、文字通りには「米のバーナー」つまり「米焼き器」のことだが、ウィキペディアをみると(https://en.wikipedia.org/wiki/Rice_burner)、1960年代に日本製の車を揶揄するために用いられた表現だという。ようするに、日本人は「コメ」のような妙なものを食べている連中であり、そんな連中が作った車なんて「米焼き器」みたいなものだと揶揄する表現なのである。

 

 アメリカの1960-70年代といえば、まだまだ自動車産業の全盛期。ウォルトは、その時代にフォードの工場で働いていたという。実際、映画のタイトルでもある「グラン・トリノ」という車種は、その時代にフォードが製造した中型車「トリノ」の第三世代にあたる。名前の由来となったトリノは、もちろんフィアット( FIAT)のある自動車産業の中心地。フォードは、どういうわけかトリノが「イタリアのデトロイト」にあたるということで、この車名を採用したようだ。そして、ウォルトが自分で組み立て大事に所有している1972年式のグラン・トリノ(ツードア・スポーツルーフ)は、大幅なフェイスアップと性能の向上により、フォード車がアメリカ市場で大成功を収めたときのものなのである。

 

 しかし時代は変わった。黄金時代にフォードの工場で働いていたウォルトの息子は、かつて「米炊き器」と揶揄されていた日本車に乗っているだけではなく、その営業マンとなっているのだ。その意味で「Rice-Burner 」(米炊き器)という言葉の裏側には、アメリカ車のかつての栄光が刻み込まれている。そして、その象徴である「グラン・トリノ」を今でもピカピカに磨きあげ大切に乗っているのが、この〔ウォルト=イーストウッド〕というわけなのだ。

 

 しかし、この「 Rice-Burner 」が字幕で「米つきバッタ」と訳されていたわけではないようだ。

 

3. ラティーノ VS ライスニガー

 

そこでさらにスクリプトを Rice で検索してみると、ヒットしたのが Rice Stalk、Rice Nigger という表現だ。これらの表現が集中しているシーンがこれ。通りを、モン族の少年タオが本を読みながら歩いているのだが、そこにラテン系のギャング団がからんでくる。

 

www.youtube.com

 

ラティーノ(1):

お前、男か女かわからねえぜ!

[Is you a boy or a girl, I can't tell?] 

 

 本来なら(Are you a boy? )となるところだが、このあたりの英語の崩れ方がいかにもラティーノというわけだが、そんな彼らがタオをからかっているのは、明らかに本を読んでいることが原因なのだ。彼らにとって男とは、あくまでもマッチョな存在として力に訴えるべきであり、本を読むことはからかいの対象となる。そこには、本を読むなんていうのは女々しいことだという意識が働いているのだ。

 

ラティーノ(2):

へい、チニート、おまえが檻のなかにいたら、おれがケツにぶちこんでやるぜ。おれのビッチにしてやろう…

[Hey, chinito, hey, if you was in the pen, I’d be fucking you in the ass. You’d be my bitch…] 

 

 チニート(chinito)はスペイン語の「中国人 chino 」の縮小系で「アジアの坊や」ということ。pen は「家畜をいれる檻」のことだが、ここでは刑務所の檻房のこと。彼らにとって刑務所に入るのはむしろ名誉なことであり、そこでおまえみたいな可愛いチニートと同じ「檻房」になったら、おまえで性的処理をしてやろうというわけだ。だから、こんなセリフが続くことになる。

 

ラティーノ(3)

何読んでんだよ、グック、『ジャックのケツと米の木』か?

[What you reading, gook, "Jackass And The Rice Stalk”?]

 

 『ジャックのケツとライスの木』というのは、もちろん『ジャックと豆の木』(Jack and the Beanstalk)のもじりだ。ass という言葉が揶揄しているのは、もちろんケツを使うジャックということだから、その背後に働いているのはホモセクシャリティへの差別意識。これは「男か女かわからない」という言葉から連想されるものだ。さらに「豆の茎」(bean-stalk)を「米の茎」(rice-stalk)と言い換えているのは、もちろんアジアへの差別意識だ。

 

 同じ差別意識が働いているのがグック(gook)という呼びかけだ(グークとも発音されるようだ)。手元の英英辞書には「フィリピン、韓国、ベトナム系の外国人のこと(a foreigner, especially a person of Philippine, Korean, or Vietnamese descent.) 」とある。語源は不明のようだが、ウィキペディアをみると次のような説明がある。(https://ja.wikipedia.org/wiki/グック

 

グックとは、朝鮮人を意味するスラング。基本的に韓国人を意味するスラングとして定着している。 20世紀初頭フィリピンに進駐していたアメリカ合衆国海軍が、現地のフィリピン人を指して用いたのが始まり。その後、世界中に駐在する米軍が非アメリカ人を指す語として定着した。現在では、ベトナム戦争時のアジア人に対する侮蔑語としても広く知られる。1893年刊行のスラング辞典では「低級売春婦」と定義されており、海軍が現地女性を罵る目的で用いたものと見られる。「マクマク(mak mak)」や「ググ(gugu)」といった語の影響を受けたとされ、特に「ググ」はフィリピン人の話し方の真似から発生。H・L・メンケンによると、「1912年にニカラグアを占領した海軍は、現地人をフィリピン人の呼称の1つであるグックと呼んでいた」という。

 

 また、このグックとは韓国語で「国」を意味する「국(グク)」に由来するという民間説もあるようだ。

 

これは、朝鮮戦争で米軍が朝鮮軍や市民に相対する中で、現地民が「アメリカ合衆国」を意味する「미국(ミングク、美国あるいは民国)」という語を口にするのを聞いて、米軍が「Me gook?(ミー・グック)」とコングリッシュで解したものと見られる。

 

 ようするにモン族のタオは、人種的偏見と性的偏見がつまった言葉で攻撃されているわけだが、彼はまるで聞こえないかのように笑みをうかべて歩き続ける。笑みを浮かべているのは、見知らぬ相手を警戒するときのモン族の習慣なのだ。しかし、それがラティーノたちをさらに苛立たせる。

 

ラティーノ

見回せば、くそったれのスロープどもがどこにでもいやがるぜ。田んぼに帰りやがれ。

[Fucking slopes, man, everywhere you look, man. [...] Go back to your rice paddy.] 

 

 ここにまた、あたらしい差別用語が登場している。スロープ(slope)は、語源の調べはつかなかったが、ヴェトナム戦争時の米兵による差別的な言い回しでヴェトナム人、あるいは東南アジアの人々のことを指す。そして、彼らの故郷には田んぼ(rice paddy )が広がっている。そして、そんな田園の広がる故郷を追い出され、タオたちモン族がアメリカにやってきたのは、あのヴェトナム戦争のときのことなのだ。

 

 そこに、同じモン族のギャング団が現れる。車を運転しているスパイダーはタオの従兄弟。彼らはこの機会にタオを仲間に引き込もうと、ラティーノたちの車に近づいてゆく。

 

スパイダー:

おい、どうしたんだ、マザファッカーどもめ。

[Yo, what’s up, motherfuckers?]

タオよ、こいつら何言ってやがんだ?

[They fucking with you?]

ラティーノ

くそったれの、地元やろうめ。

[Fuck you, homeboy.]

スパイダー:

さっさとケツまくって国に帰りやがれ。

[Go fucking back to your country.]

ラティーノ

おい、クソたれのライス・ニガーどもが増えてきやがった。

[Oh, good, more fucking rice niggers.]

 

 このくだりの最後に登場するライス・ニガー Rice Nigger が、どうやら字幕では「米つきバッタ」と訳されたようなのだが、順に見てゆこう。

 

 まずはモン族のスパイダーが、ラティーノたちを「マザーファッカー」と呼んでいるところ。これはそもそも母親との関係を揶揄して相手を傷つける表現だが、ラテン系のひとたちは、これをやられるとかなり頭にくるようだ。*3

 

 だからこそ、ラティーノたちは「ファッキュー」と返すしかない。そこでスパイダーが「おまえらこそ故郷に帰りやがれ」と畳み掛けるのだが、こうなるとラティーノたちも黙っていない。アジア野郎に対して思いっきり屈辱的な表現を浴びせ返してやろうとしたのだろう。それが「ファッキング・ライス・ニガー」なのだ。これは、ファッキングがよくある性的な差別的な強意の形容詞とともに、アジア人に対する人種差別的な表現を黒人に対する人種差別表現のニガーにかぶせて見せたわけだ。日本語の字幕では、この表現が「米つきバッタ」と訳されていたというわけだ。

 

 この訳語の是非はともかく、イタリア語に翻訳不可能だといわれるマザーファッカーにしても、人種差別的なライス・ニガーにしても、なかなか同じ価値を持つ表現が見当たらない。見当たらないことは悪いことではないのかもしれない。しかし、一方では、ぼくらの国がいまだ言語的にそうした差別的局面に直面することなく今にいたっているという事態を表してもいるのではないだろうか。

 

 差別される側に立つこととは、通りを歩いているとき、タオ少年のようにチニートという揶揄いを受けてみたり、グックやスロープや、それこそライスニガーという言葉で侮蔑されることであり、さらには、ピストルやマシンガンが取り出されることになる。

 

 それが威嚇で終わっているあいだはよい。しかし、たとえそれがナイフであれ、拳銃であれ、マシンガンであれ、あるいはさらに恐ろしい武器であれ、一度それが所有され、威嚇のために姿を見せることがあれば、いつかは使われるときが来る。少なくとも、物語論的に言えば、それは不可避の事態なのだ。

 

4.野蛮の支配する場所から立ち上がるもの…

 

 イーストウッドの『グラン・トリノ』では、そんな最悪の事態が訪れることになる。それが、ポリティカル・コレクトネスを顧みず、相手への憎しみを募らせていった結果到来することになるのが、野蛮が支配する現実だ。

 

 もちろん、イーストウッドたちオールドスクールは、ポリティカル・コレクトネスを別の形で乗り越えることで、お互いの違いを乗り越え、相互に尊敬しあえるようになったのかもしれない。しかし、よく考えてみれば、ウォルトはポーランド人であり、理髪店の主人はイタリア系、工事現場の監督はアイリッシュ。つまり、アメリカという国に後からやってきた移民であり、差別をする側ではなく、差別される側の人々として描かれていることは確認されるべきだろう。

 

 だとすればラティーノにしてもモン族にしても、ポーランド系、イタリア系、アイリッシュ系と同じように、差別される側にいるのではないのだろうか。ところが、差別される側の人々が、アメリカの夢を追いかけるなかで相互に違いを乗り越えて尊敬しあうようになっていったオールドスクールと違い、今の若者たちには、何かが決定的に欠けている。彼らには、ウォルトたちオールドスクールのような、共同体を構築する契機が(まだ)欠けているように見えるのだ。

 

 イーストウッドの『グラン・トリノ』は、まさにその欠けている契機を寓意的に与えようとする。差別されている者たちのなかに、そこから差別を越えてゆく意思を立ち上げるために必要な契機とは何か。それがなければ、結局は野蛮の支配するままの場所に留まるしかないような契機があるとすれば、それはどういう形であらわれるのか。

 

 〔イースウッド=ウォルト〕が、物語の最後にモン族のタオ少年に託したものこそは、まさにその契機なのだが、さしあたりここではそれを、抑圧された者たちの夢と呼んでおこう。それは、そもそもアメリカという国の成り立ちのときから働いていたものだ。イギリス本国のなかでは差別されたり、抑圧されたりしてきたものたちが移り住んできたのがアメリカなのだとすれば、その建国の精神こそは、新天地での夢に駆動されてきたものではないのだろうか。この夢が強く働いているとき、人々は互いの違いを乗り越え、手を取り合い、ついには相互に尊敬しあって、ささやかな共同体での幸福を作り上げてきたのがアメリカではないか。

 

 しかし、そこには本国との闘争による殉教者たちの血と、被征服民たちへの暴力が伴っていることも忘れてはならない。殉教者の血と英雄の暴力こそが、アメリカを立ち上げたのだ。では、最後にギャング団のもとに出かけてゆくウォルトはどうなのか。あくまでも英雄のように振る舞いながら、彼は最後の瞬間に、自らの暴力を宙づりにして、相手からの暴力を被ることを選ぶ。生きるのびるためではなく、生きるのびてもらうために、生きのびるのをやめさせてもらうのだ。その選択を、ぼくたちは、いったいどう呼べばよいのだろうか。

 

 英雄的でありながら、英雄ではない。殉教のようでありながら殉教者ではない。英雄の信じる祖国は、ウォルトには過去のものであり、失われつつある。殉教者の抱く信仰は、もともとウォルトには希薄であり、あくまでもそれは他人のものなのだ。そんな失われた過去を取り戻し、他人の信仰を我がものとすること。『グラン・トリノ』とは、その不可能に見える挑戦へと、老ウォルトを掻き立てるための物語のように思える。

 

 ウォルトの最後の決断は、その意味で、アメリカの建国の神話を喚起する。まさに野蛮の支配する場所に立ち戻り、差別されたものと、抑圧されたものたちが、互いに憎しみあうことで、殺しあうような風景の向こうに側に、まだ見ぬ理想と、まだ生きられたことのない共同体を、個人の生を超えたところに立ち上がることを夢想するという物語は、いかにもアメリカらしい。

 

 アメリカとは、その始原において実現した理想を、繰り返し忘却の淵から救い出すことで同一性を保とうとする国だと、誰かが言っていたけれど、ウォルトが大切に乗り続けるフォードの「グラン・トリノ」とは、まさにそうしたアメリカの建国神話が抱き続ける夢のアレゴリーなのだ。それは、日本の車がまだ「ライス・バーナー」と呼ばれていたころの栄光であり、トヨタが席巻する現代における苦々しいノスタルジーでありながら、「ライス・ニガー」として差別される未来のアメリカ人の若者に引き継がれることで、短いながらも綿々と続く歴史を継承し、来たるべきこの国の姿に希望を抱かせる。

 

 『グラン・トリノ』の「米つきバッタ」を追いかけてきたぼくだけど、気がついてみると、ポリティカル・コレクトネスの国で、ポリティカル・コレクトネスを毛嫌いしながらも、本当の意味でのポリティカル・コレクトネスの姿を提示してみせようとするこの作品のななかに、アメリカという国の底知れない力強さを、まざまざと見せつけられていた。

 

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*1:http://www.imsdb.com/scripts/Gran-Torino.html

*2: http://edition.cnn.com/2008/SHOWBIZ/Movies/12/29/eastwood.gran.torino/

*3: ちなみに、この部分はイタリア語の字幕では「figli di puttana」(娼婦の息子)と訳されているらしい (http://www.intralinea.org/current/article/the_gook_goes_gay)。家族のなかでも母親や姉妹を娼婦呼ばわりされるのはイタリアでは最大の屈辱だが、英語のマザーファッカーは、この「娼婦の息子」(son of a bitch) よりも強烈だ。ある論文によれば、「こうした表現がインセストタブーのひとつとして表明されるとき、このインセストな関係についてイタリア語では激しく抑制されることから ( dal momento che una simile resa esprimerebbe un concetto tabu, il rapporto incestuoso, fortemente interdetto nella lingua italiana’」、翻訳することは不可能になってしまうというのである