雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

セルジョ・マッタレッラ大統領就任演説によせて

 2015年2月3日、イタリア新しい大統領に選出されたセルジョ・マッタレッラが、モンテチトーリオ宮の代議員議会堂での宣誓式に続き、就任演説を行いました。

 ぼくはその演説の映像に触れ、演説原稿に目を通したときから、これは訳してみたいと思っていました。このところ、訃報やテロなどのニュースが続いていたせいもあるかもしれません。なんとなく先行きの不安を感じていたぼくとしては、イタリア国民を鼓舞し、少しでも希望を抱かせようとするマッタレッラ新大統領の演説に、なんだかとても勇気づけられるものを感じたのです。

 実際、訳してみると、イタリアというか、ヨーロッパの歴史や思想や文化の奥深さを、まざまざと見せつけられたように感じています。訳出の過程で馴染みのない単語の意味を探り、あまり詳しくない現代イタリアの政治と司法のことを調べさせてもらったのですが(ですから誤解があるかもしれません)、ほんとうに言葉が練られていると思いました。

よく練られた言葉にはわかりやすさがあります。

マッタレッラ大統領は、政治家ですが一方で弁護士でもあり、最近まで憲法裁判所の判事を務めていました(2011-2015)。ですから、法律家としての専門的な知見があるのですが、この演説では、分かりにくい専門用語は最低限に抑えて、新大統領として決意を、聞く者の耳にすっと入ってくるようなシンプルなフレーズに置き換えてみせてくれるのです。

 よく練られた言葉は雄弁でもあります。

 そのシンプルなフレーズからは、自分の国の歴史への敬意、今イタリアの人々が直面している困難への理解、そして取り組むべき課題と進むべき道が、はっきりとした形で見えてくるようです。とりわけ、憲法の意味を強調するあたりは実にみごとだと思います。少し引いてみましょう。新大統領は、「憲法を保証する」ことの意味を、次のように列挙してゆくのです。

「若者に教育を保証すること」
(ぼくたちの国でも喫緊の課題ですよね)
「女性が暴力や差別を恐れなくてすむようにすること」
(この問題が憲法の問題だという認識が、ぼくらの国にあるのでしょうか)
「障がいを持つ人の権利を制限するあらゆる障壁を取り除くこと」
(女性の問題と同じです)
「戦争を拒絶し平和を推進すること」
(これがぼくたちの国の誇りであったはずののですが…)
「家族を支えること。家族とは社会の資源なのですから」
(日本でも同じですが、これが憲法だということは重要です)
「自由であること。市民権の完全な展開が自由なのだから」
(自由とか市民権という言葉を、ぼくらはいつの頃から忘れたのでしょう)

 新大統領が、憲法裁判所の判事をしていたことは触れました。憲法裁判所とは、その国の憲法を保証するための機関です。立法府から提出された法律を細かく検討して、憲法にかなっているかどうかを判断するのが、憲法裁判所の役割です。

 しかし、残念ながら日本には憲法裁判所がありません。そのかわり「内閣法制局」というところが、内閣提出法案(閣法)の事前審査を行っているのですが、これはあくまでも内閣の下に置かれ、独立した第三者的機関ではありません。ですから、実際に制定された法律が違憲であるかどうかを、審査するためには憲法訴訟を起こさなければならいのですが、この訴訟を誰が起こすのかが問題となります。つまり、違憲だと主張できる資格を持つ者は誰かということです。

 けれどもぼくたちは、実際のところ、お金がなくて教育を受けられなかったり、障がいがあるために普通の生活が送れなかったり、仕事がなくて結婚できず家族を持てないという理由で、いちいち憲法訴訟を起こすことはできません。ましてや、国がもしも「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」のようなスローガンとともに積極的平和主義を展開し、どこかの国に軍隊を送ろうとしたとき、「戦争を拒絶し平和を推進する」憲法に違反しているぞ、なんていう憲法訴訟を起こすことは、まず無理でしょう。あなたには違憲を主張する資格がないとして門前払されるのがオチのような気がします。

 そんなわけで日本の裁判所は憲法判断を回避する傾向があると指摘されています。いちいち違憲訴訟の資格を審査し、さらに複雑な憲法判断をすることを、裁判所はある意味でサボってきたわけです(だから「一票の格差」については「違憲状態だが選挙は有効」というような不思議な判決がでるわけです)。だって、他の訴訟で忙しいからね、というのがその言い分になるのでしょうが、これはある程度理解できます。イタリアのような国では、だからこそ憲法判断を専門的に行う裁判所が独立しているわけですから。

 こうしてぼくたちの国では、いつのまにか、そしてとりわけここ数年のうちに、憲法の存在がすっかり軽くなり、あちこちから改憲の声があがっているわけです。そうすると、改憲反対の声があがり、護憲改憲かの不毛な議論が戦わされているように思います。しかし、物事は賛成すればよいとか、反対するのが正しいとかいうものではありませんよね。大切なのは、双方が歩み寄り、どうすればより良い憲法を持つことができるか考えることです。

 同じことは「原発」にも言えると思います。反対派と推進派のまっぷたつに別れて、相手を否定することに全力を挙げる姿はじつに滑稽です。どうすればエネルギー資源を有効に活用できるかを、譲るべきところは譲りながら、相手の気持ちも考えながら、誰もが冷静に話し合うほうがよほど効率的だと思うのですが、そう思っている自分がなにか抽象的な理想論を述べているように感じてしまうのですから、現実とはななかなか難しいものです。

 おっと、日本の憲法裁判所について触れながら、つい話がそれてしまいました。イタリア大統領の演説に戻りることにしましょう。

 実はマッタレッラ大統領が、その演説で憲法の重要性を訴える部分に力を入れているのは、彼が憲法裁判所の出身の弁護士だからというだけではありません。実は、イタリアでは今、共和国憲法の改正作業が進められているという事情もあるのです。そこでは、現行の2院制(共和国元老院 Senato della Repubblica と代議院Camera dei Deputati )を廃止し、代議院に一本化し、議会の権限を強めようというな話が進められているようです。

 もちろんそこには、さまざまな政治的利害が絡んでくることもあり、どんな議論があり何が問題点なのか、ぼくも追いかけられてはいないのですが、少なくともこれは大きな政治的な関心事であるわけです。ですから、憲法の番人たる憲法裁判所判事であった新大統領が、憲法の重要性について強調するのは、じつに時宜を得たものだといえるでしょう。

 注目しておきたいのは、この憲法の重要性を、民主主義の理想にからめながら、みごとな射程の長い説明(あるいは歴史的で理念的な説明)をしているところです。その一部を見てみましょう。

「民主主義とは、ひとたび獲得すればそれで終わるものではありません。それは繰り返し実現を目指し、時代の変化にもっとも適した形式を探し続けるものなのです」
憲法の改革は、民主主義的なプロセスを強化するためのものです」
「わたしたちの憲法の最強の保証は、なによりも、それを適用することにあります。それは憲法を日々生きることなのです」

 おわかりのように、ここにあるのは護憲改憲かという2項対立の議論ではありません。注目すべきは、マッタレッラ大統領の視線が「時代の変化」を見つめていることなのだと思います。ぼくはこれを歴史意識と呼んでみたいと思います。それは、ぼくたちが変わりゆく歴史のなかで生きていること、時間という形式のなかに存在していること、そうやって日々を生きているということを自覚させるものです。
 こうした歴史意識が働くとき、ぼくたちは、あの賛成か反対かをめぐって罵り合うような不毛な議論から自由になることができるのではないでしょうか。いささか単純化して、歴史が過去から未来へ流れてゆくとするならば、その流れに乗っているという意識を持てたとき、ぼくたちの「今の時」はある種の広がりを持てるようになるのでしょう。その広がりのなかで自然と出てくる言葉は、「感謝」であり「希望」なのではないでしょうか。実際、マッタレッラの演説は「感謝」で始まり「希望」で終わっていますよね。

 イタリア大統領の就任演説に触れ、その文章を日本語に訳す作業を通じて、ぼくはときどき胸が熱くなるように感じていたのですが、その理由がようやく見えてきたような気がします。

 今、ぼくたちの周りには、「危険」と「安全」、「損失」と「利益」、「自己責任」と「自己実現」、そして「憎しみ」と「復讐」のような、寒々とした言葉が溢れかえっています。しかも、その言葉を口にすればするほど、ぼくたちはなにか急かされるような気持ちになり、「今しかない」という脅迫観念じみた檻のなかに閉じ込められてしまいます。その檻のなかで、ぼくたちはある種の病にかかっているような気がしてならないのです。

 そんな精神の視野狭窄とでも呼べるような病に、イタリア大統領の就任演説はみごとな処方箋を示してくれたのではないでしょうか。それが「感謝」と「希望」です。感謝をもって希望を語るとき、ぼくたちはおそらく視野を回復することができるのではないでしょうか。それによって、ぼくたちはあの「時間」という形式を再び取り戻し、ぼくたちのいるこの場所で、新たな「空間」を開くことができるのだと思います。