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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ありがとう、ピーノ。ありがとう、ナポリ。

イタリア語 音楽


Il Saluto di Napoli a Pino Daniele - Flash Mob a ...

 

ピーノ・ダニエーレの訃報についてはすでに書いたけれど、その後、FBで彼に捧げられたすばらしいビデオに出会ったので、ここに紹介しておこうと思う。

 

その秀逸な冒頭のシーン。

 

ナポリの海岸で iPhone を見ている若者。そこにやってきた2人の少年が声をかける。

「ジョヴァンニさんじゃないですか、調子はどうですか?」

話しぶりから見て、若者は少年たちの兄貴分のようだ。

 

よく晴れた空、青い海、何事もなかったかのように挨拶を交した3人だったが、少年のひとりがこう切り出す。

「ねえ、知ってますか?」

ジョヴァンニが答える。

「何をさ?」

もうひとりの少年が顔を曇らせて告げる。

「ピーノ・ダニエーレが死んだんですよ」

iPhone の若者は、まるで冗談を聞いたかのように答える。

「ピーノ・ダニエーレが死ぬわけないだろ」

仲間たちはムキになって続ける。

「いやホントなんです、ピーノ・ダニエーレが死んだんです」

「みんなその話で持ちきりですよ」

 

ここまでのシーンで、ジョヴァンニはまだピーノ・ダニエーレの死を知らないように見えるのだが、思い出しておこう、彼は iPhone を見ていたのだ。ソーシャルネットワークで大騒ぎになっていたナポリの偉大なミュージシャンの訃報を知らないはずがないではないか。すでに知りながら少年たちの言葉に答えていたのだということが、ジョヴァンニのセリフから明らかになってゆく。

 

馬鹿なことを言うなよ、ピーノ・ダニエーレが死んだって?ピーノ・ダニエーレは死んでいない。おまえらは、なにかい、トトも死んだっていうのか?エドゥアルドも、トロイージも、ヴィヴィアーニも死んだのか?

 

ジョヴァンニが挙げてゆくのは、ナポリでは知らないものがいない人物たち。ナポリの喜劇王にして詩人でもあるトト(1898-1967)、役者、劇作家、映画監督、脚本家のエドゥアルド・デ・フィリッポ(1900-1984)、日本では『イル・ポスティーノ』で知られる早世の役者、映画監督、脚本家のマッシモ・トロイージ(1953-1994)、そして20世紀前半にナポリを代表した舞台人、詩人、作家、作曲家のラファエーレ・ヴィヴィアーニ(1888-1950)である。

 

その誰もがナポリ人であり、ナポリを代表する芸術家なのだが、すでにこの世を去った人物ばかり。ところがジョヴァンニという若者は、そんな彼らのことを「死んだっていうのか?」という問いただしているわけだ。

 

怪訝な顔をするふたりの少年に、ジョヴァンニが続ける。

 

だいたい『フィウメーナ・マルトゥラーノFilumena Marturano 』が死んだなんてことがあるか?『最後の悪戯小僧 L’ultimo scugnizzo』や、『水準器  'A livella』や、『3から始めるぞ Ricomincio da tre  』はどうだ?

 

ここで挙げられたのは、あの芸術家たちの作品だ。Filumena Marturano はデ・フィリッポによる1946年の舞台喜劇だが、これを原作にした撮られたのがデシーカの『ああ結婚』(1964年)。 L’ultimo scugnizzo はヴィヴィアーニの名を知らしめた喜劇だが、これは1937年に映画化され(しかしフィルムは消失)、いまでも舞台で上演される芝居である。そして ‘A livella は喜劇王トトによるナポリ方言の詩(1964年)であり、Ricomincio da tre はトロイージの主演、監督、脚本による1981年の映画で、その音楽を担当したのがピーノ・ダニエーレなのである。

 

ここにいたって、じつはジョヴァンニがピーノ・ダニエーレの訃報を知っていたことがあきらかになる。けれども、かれはその死を認めようとはしない。ナポリの芸術家たちの不滅の名前と不滅の作品を挙げてゆきながら、ピーノもまたそんな不滅の名前のひとつであることを確認しようとするのである。

 

だからこそ、「ピーノが死んだ」とは決して認めなかったわけなのだ。そして、彼が死んだということをどれほど認めがたいかを、ジョヴァンニはその見事なまでにナポリらしい言い回しで、こう説明するのだ。

 

お前らはまるで、ナポリで太陽が死んだ、海が死んだ、ヴェスヴィオが、カプリが、イスキアが、プロチダが死んだって言ってるようなものだぞ。

 

ナポリという場所は、その歴史上なんども外国に支配され、いくつもの国が生まれては滅びてきたけれど、ナポリの太陽と海とその島々は決して変わることがない。それこそがナポリナポリとするものなのだ。けれども、そんな自然の風景だけがナポリナポリにしているわけではない。そこに生きてきた人々、芸術家たち、そしてその作品もまたナポリを形作るものなのだ。ナポリの太陽や海や火山や島々を、芸術家たちとその作品と並べて見せたジョヴァンニは、そこに永遠のナポリを見ているのである。

 

どれほど時間が経っても変わることなく同じであり続けるナポリ。それは不滅なのだ。だからジョヴァンニは最後に、その不滅を保証するものが何であるか、こんなふうに明らかにしてくれる。

 

いいか、人が死ぬのは忘れられたときなんだ。

忘れさえしなけりゃ、肉体がどこかに行ってしまうにすぎないのさ。

 

なるほど、その肉体を失ったピーノ・ダニエーレの不滅を担保するのは、ジョヴァンニとナポリの人々が「忘れない」こと。そして、ナポリも、ナポリの人々も、もしかするとあらゆることは、ぼくらが「忘れない」かぎりで、不滅であり続けるのかもしれない。

 

そんなふうに感じた瞬間、このビデオにはピーノが歌う「Napule è 」が聴こえてくる。映し出されるナポリの人々の顔、顔、顔。なによりも圧倒的なのはプレビッシート広場に集まった人々の姿。その迫力。ぼくはただ胸をつまらせるほかない。

 

ここで思い浮かぶ言葉はただひとつ。

 

ありがとう、ピーノ。

 

ありがとう、ナポリ

 

 

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