雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

ぼくらの《まつりごと》のために

政治には関心がなかった。投票に行くのはどうも気が進まなかった。どうせ何も変わらないとも思っていた。でも、なにより嫌だったのは、市民たるもの投票に行くべきだという、そんな空気ではなかったかと思う。

投票所に行けば、投票用紙を受け取り、候補者の誰かの名前を書いて、あるいは何も書かずに投票箱に向かう。そこで立会人に監視されながら、あの厳重に鍵をかけられたアルミ製の投票箱に用紙を入れるのだが、そのときに感じるのはなんだか、まじめに宿題をやってきたことをさりげなく自慢する学生のような、ちょっとした気恥ずかしさ。ほら、義務を果たしましたよみたいな。

考えてみれば、それはどこか、神社に参拝するときに似ている。手と口を清め、鈴を鳴らし、柏手を打ち、お辞儀をするわけだけれど、それはあくまでも、そうしないとならないからそうするのであって、本心からものでないことはわかっているのだけど、結果的に、誰かに(きっと神様だろうな)、せっせと媚を売っている自分が、どうも居心地が悪いのだ。

そうでありながら、賽銭を投げ入れて、いざ手を合わせてみれば、おもわずご利益を祈ってしまうのだから困りもの。健康でいられますように、仕事がうまくゆきますように、恋人ができますように、できればお金も‥。なんとも身勝手な自分の願いにふと気がつくと、どうにもいたたまれなくなってしまう。

「〜でありますように」というご利益祈願は、呪術的な性格を持つ。祈祷によって自分の利益のために神を動かす行為(神強制)とはそういうものだ。しかしながら、神社の祈り方のようなサイトの教えるところでは、祈りの言葉は「願いごと(神強制)」ではなく、「感謝と誓い」であるべきだという。今ここにあることを神に感謝し、「願いごと/〜でありますように」に向かって努力することを誓うわけだ。こうして「感謝と誓い」を祈りにするという態度をとるとき、ぼくたちは呪術的な「神強制」を抜け出し、宗教的な「神礼拝」を行っていることになるのだろう。

マックス・ヴェーバーによれば、「人間に役立つように神を強制することが可能である」という考え方が「神強制」。つまり、「神の力に対して正しい手段を用いるカリスマの所有者は、神よりも強く、また自分の意志通りに神を強いることができる」という立場。これに対して、神礼拝とは「人格的な主としての神の、その力と性格が次第に明らかに観念されてくるにつれて、そこに呪術的でない諸動機が優勢となってくる」ときに現れる。このとき神は「その意のままに拒否することもできる偉大なる主となり、従って、いかなる呪術的強制をともなう方策によってでもなく、ただ請願と寄進によってのみ近づくことが許される」ものとなるわけだ。

話を選挙に戻そう。選挙においても、呪術的な「神強制」と宗教的な「神礼拝」が奇妙な混交を見せているのではないだろうか。投票によって、あるいは寄付によって、政治家を自分の利益にかなうように動かそうとするとき、それは呪術的な神強制と本質的に変わらないものとなる。一方、政治なんていうのは、所詮、天気と同じで、自分がなにをやろうと、自分には関わりのないところで動くものだという諦念にとらわれるとき、どこか神礼拝のように見えるではないか。

そもそも政治のことを、ぼくたちは「まつりごと」という。これは政治がそもそも宗教的な儀礼と重なっていたこと(祭政一致)から来ていることを思い出しておこう。だから「政(まつりごと)」であり「祭りごと」なのだ。神さえ動かすことができるカリスマ政治家が登場すれば、その呪術的な力を通して、ぼくたちは「神強制」を行うだろうし、そうでなければ、無能な政治家たちの愚行を見上げながら諦念のなかで「神礼拝」をすることになるのだろう。そんなふうにぼくらは、これまでずっと政治というものを、どこかアナクロな、呪術と宗教の間でしかとらえることができずに来てしまったのかもしれない。

そういう意味で、ぼくたちは人民なのだ。「民」という漢字の字義が「目を射抜かれた者」であり「盲目的に指導者に従う者たち」であるならば、たしかにぼくらは「人」であると同時に「民」である「人民」にほかならなかったのではないだろうか。政治家が「国民のみなさまのために」と繰り返すとき、それは、彼らの治める「国」で盲目的に指導者に従う「民」、つまり「国民」に向かって投げかけられたものなのにほかならない。

けれども、ぼくたちはまだ盲目の「民」のままであり続けているのだろうか。

そうではないと思う。少なくともぼくは、あの 3.11 の地震津波に続く原発事故の後で、自分がいかに盲目の「民」であったかを思い知らされた。見えないモノがあったことを、あのときに見たのだ。波にのまれて死んでいったものがいることを、溺死者を映し出すことのないTVの映像からも、はっきりと見ることができた。見えない放射能もまた、故郷を追われて避難する人々の姿を通して、その後の除染活動を通して、ベクレルという見慣れない単位によって、はっきり見ることができた。

もはやぼくは、そしてねがわくばぼくたちは、盲目のままの「民」ではない。ぼくたちは見たではないか。それなのに、ああ無情にも、時の力は、ぼくらが見たものを忘却の淵にしずめようとしている。その力を借りて、慌てふためいて開いたぼくたちの目を再び潰そうとする者たちが、あの手この手で、ぼくたちの機嫌を取ろうと必死になっている。けれども、ぼくたちはこの目で見たではないか。「民」であったぼくたちの目は開かれたのだ。

だからこそ、ぼくたちは「まつりごと」をカリスマを気取ろうとする政治家の手から取り戻さなければならない。かつて、「まつりごと」は祭礼によって天候を変えられるかのようにふるまった。ぼくらは、そのふるまいを信じる。気がつけば、目を貫らぬかれて「民」となっていた。たしかに今、日照りが続くならどこかから水を引き、雨が降るなら傘をさすこともできるだろう。けれども、そんな技術だけではとても治められない自然災害も起こることだってある。おぼろげながらも分かっていたはずなのに、ぼくたちは見えないものを信じなかった。

そして、その時が来た。

ぼくらは見ないできたものを見た。あのカリスマ気取りの政治家や科学者たちさえもが、ただオロオロするだけ。彼らもまた、ぼくらと変わらない、ちっぽけな盲いた人間であることを、ほんのひと時、さらけ出した。科学や技術や政治の隠しておきたかったものが、ほんの一瞬だけ露わになった。けっきょくのところ、それらもまた、ぼくらと変わらないちっぽけな人の営みであること。それがぼくたちには、ほんの一瞬だったけれど、はっきり見えたのではなかったのだろうか。

ぼくらは、日照りの夏はオロオロするしかないし、雨が降れば傘をさすぐらいしかできない。結局のところ「まつりごと」とは、そんなオロオロする人間たちが作り上げたものにほかならない。だから「まつりごと」に天候を動かすことができないし、その呪術の力は、ぼくたちの目を潰して「民」とすることで、ない力をがあるもののように見せかけたものにすぎなかったのだ。

だから政治は天候と関係がない。

「明日の天気はどうなるのだろうか?」という問うように、「この国の未来はどうなるのだろうか?」と問うことは、政治を天気予報と混同するものだ。天候は予想するしかない。ぼくらにはどうすることもできない天気だからこそ、その成り行きを予想するのだ。だから、ぼくらは予想外の天候を前に、ただオロオロするしかない。けれども、同じように政治にオロオロするのは、目の見えない「民」のやることだ。ぼくらは見たではないか。政治は、ぼくらと同じ人間が作り出したものなのだ。

もう政治にオロオロするのはやめにしよう。

ぼくらは政治を取り戻さなければならない。政治を取り戻すことは、ぼくらが盲目の「民」となることで失った場所を取り戻すことになるはずだからだ。では、どうすれば政治を取り戻すことができるのか。

はっきりしているのは、巷で言われているように「選挙に行く」ことだけでは、何も変わらないということだ。選挙なんていうものは、歴史上、民主主義というお題目を正当化するための茶番劇であり続けたし、おそらく今度もそうなるのだろう。

選挙でないとすれば、革命を起こせばよいのだろうか。いや、革命もだめだ。革命が成功するのは、カントが言うように、世界で同時に革命を起こさなければ意味がない。そうでない革命がどんな末路をたどったか、これまた歴史が教えてくれている。

選挙もだめ、革命もだめというなら、どうせよというのか。

残念ながら、その答えはまだ霧に向こうに霞んでいて、まだはっきりと見えてこない。それでも、手掛かりはやはり選挙にあるのだと思う。いや、選挙ではなく投票にある。もっといえば、投票を意味する vote (イタリア語では voto )という言葉の意味がとても重要なものに思えるのだ。

voto とは、そもそもラテン語の votum 「神聖なもの(神)への崇高な誓い」に遡る言葉で、動詞 vovere 「誓う」の過去分詞から派生した名詞だが、これが近代になってフランス語経由で英語に入り、「vote of confidence (承認と激励の表明)」のような表現から、イタリア語に逆輸入され、「投票」という意味になったものだ。

その最も近代的な意味での「投票」では、政治は変わらない。それは政治家の誰かや政党のどこかに信任を与える節目にすぎず、せいぜい盲いた「民」を懐柔するための儀式なのだ。しかし、政治とは選挙の前から続いており、選挙の後も続くものだ。その政治、あるいは「まつりごと」を取り戻すという困難な営為もまた、節目/儀式としての選挙とは関係なく、日々、ぼくたちのひとりひとりにおいて続けられなければ、とても達成することはできない。

だからこそ、ぼくたちには(本当に目が見えるようになったのだとすれば)、その日々の「まつりごと」に献身することを「誓う vovere 」ことが求められているのではないだろうか。その誓いという行為を、もしかすると今、「誓い/投票 votum 」という形のなかに取り戻さなければならないのではないだろうか。

中世の修道士たちは、この「誓い votum 」によって修道院生活に入ってゆき、この「誓い」によって自らを生を拘束して神に捧げたという。それはまさに「神のなかにあることを信じる credere in Dio 」ことであり、それは「神を信じる credere in Dio 」ことにほかならなかったというのだ。

ならばぼくたちは、この「誓い」によって新たな社会的生活に入らなければならない。それはぼくたち自らの日々の生活の営みを拘束し、政治に捧げることを誓わせる。ぼくらはそもそも政治的動物なのだ。だからこそ、「政治のなかにあることを信じる credere in Politica」で「政治を信じる credere in politica 」 ことを取り戻さなければならない。

この本来的な意味での「誓い votum 」を、あの欺瞞的な「投票 vote 」のなかから掘り起こしてみせるために、「まつりごと」を自らの儀礼として、みずからの身体によって執り行うために、かつて天にあった神を地上に呼び戻すために舞ったその儀式を、地上にあるぼくたちの自身の場所=ポリスへの崇高な誓いとともに自ら舞うために、ぼくたち自身の死者たちの魂を静める鎮魂の祭と、ぼくたちの場所としての政治を取り戻すための「まつりごと」に身を捧げる「誓い」をたてるために、そうすることで、まだ姿の見えぬぼくらの「まつりごと」を、ぼくら自身の手で作り上げ、ぼくら自身の足で踊ってみせるために、ぼくは今度の選挙に行って投票するつもりだ。

政治を変えるために投票に行くのではない。その「投票 voto 」を「誓い voto 」として、これまでも「まつりごと」のそのなかに生きて来たことを思い出し、これからもそこでしか生きてゆくしかない自分を見つめ直し、そうすることで自分自身を救い出すのだと誓い、その誓いを実行することを誓うために、ぼくは投票に行くつもりなのだ。

ほかに何を誓うというのだろう。そうやってぼくがぼく自身を変えるようと思い立ち、その思いを形にしてゆくことのほかに、いったい何を変えられるというのだ。

だからこそ、この誓いを誓うことこそ、ぼくがぼくらの《まつりごと》のためにできる、唯一にして最大のものなのではないだろうか。

ぼくはそう考えている。

 

いと高き貧しさ――修道院規則と生の形式

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