雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

スワッグとアッロスティチーノ:あるいはバロテッリの開くイタリア

 FBで紹介されたのだけど、なかなか興味深い記事だったので、ちょっと紹介してみたい。記事はこれ:

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生贄の黒人が経験していること
メディアから袋だたきにされるバロテッリだが、彼の国であるイタリアは「Swag」や「羊の串焼き」という言葉をとうてい理解できないありさまだ

http://www.linkiesta.it/mario-balotelli-linciaggio-mediatico-quit

そう、あのマリオ・バロテッリについての記事なのだ。ご存知の方多いと思うけど(よく知らない人は マリオ・バロテッリ - Wikipedia を見てね)、この人、こういう見かけだけどれっきとしたイタリア生まれのイタリア育ち。英語も流暢らしいけれど、彼の喋る言葉はイタリア語というよりはブレッシャ方言。方言を話すということは、その地方で育ったということであり、それだけ純粋のイタリア人だということだ。

そんなバロテッリ、その抜群の身体能力でW杯2014のイタリア代表選手となったのだけど、残念ながらチームは予選落ちに終わってしまったことは記憶に新しい。この記事は、チームで唯ひとりの黒い肌の選手である彼が、その後メディアからの袋だたきにあっていることを取り上げ、その背後にあるものを分析してくれている。それを一言で言えば、秘かな人種差別意識が働いているということだ。

たとえば、こんな一節。

単純にいって、善良なイタリア人のしゃくに障るのだ。多くの人々は、バロテッリフェラーリや美しいモデルたちと一緒に、金の鎖をして写っている写真を見るとき、その瞳の奥には嫉妬の炎をもやしてこう思うのだ。「こんなことはおかしい。あいつはイタリアにいる黒人野郎だ。おれたちの国にいるくせに、おれよりも金を持っているなんてあり得ない」。

イタリアの街を歩くと分るけれど、通りにはバロテッリのようなアフリカ系の人々をよくみかける。新聞では、毎年毎年、不法入国した「移民たち immigrati 」が犯した犯罪を取り上げ、移民=犯罪者という図式を作り上げている。そのすべてが黒い肌をしているわけではないのだけれど、それでもイタリア人が「移民 immigrati」という言葉でイメージするのは「黒人 negri (この言葉には差別的な響きがある)」なのである。

もちろん、すべてのイタリア人がそう考えているわけではない。むしろ近年、多くの文学や映画が彼らの暮らしぶりを描き出しているし、理解が進むなかで人種差別に反対する声も大きくなってきている。だから、未だにあるとはいえ、バロテッリに対する差別的な発言は問題視され、控えられてるようになって来ている。

実際、バロテッリはその実力でイタリアの代表に選ばれ、彼の得点力がチームを牽引してきたのだ。しかし、予選では敗退したとたんに、あたかもイタリア人がまたしても人種差別主義者に逆戻りしたかのように、バロテッリがすべて悪いように言われてしまうのだ。曰く、あいつはクソだ。イタリア人じゃねえ。

しかしバロテッリはイタリア人だ。両親こそガーナの移民だが、生まれはパレルモだ。生まれてすぐ病気になった彼は養子に出され、ブレッシャのバロテッリ夫妻のもとに引き取られ、そこでサッカーの才能を開花させていったのである。だから彼はれっきとしたイタリア人であり、言葉に不自由しないどころか、多くのイタリア人と同じレベルでその言葉のあやを理解する。しかし、まさにその事が問題となってゆくのだ。

ここからは、ぼくの想像だけど、おそらく彼は小さな頃から肌の色のことを言われ続けていたのだろう。外国人には理解できないようなオブラートに包んだような差別表現でさえ敏感に感じ取っていたはずなのだ。きっと彼は、そういうもの対して反発した。もしかするとサッカーが上達したのも、そんな反発をバネにしたのかもしれないが、同時に彼は言葉で、態度で、反発するすべも覚えていったのだ。

だからこそバロテッリは、若くして才能を開花させ、高額の報酬を受け取りビッグチームで活躍するようになっても、ことあるごとにその愚かで思慮のない言動が取り沙汰され、批判されることになる。しかし、この記事によれば、だからといってバロテッリは決して「悪い子 bad boy 」なのではない。ただの「善良で大金持ちの大きな子ども」であり、ただふざけて悪人を演じているにすぎないというのだ。本当の悪人は、むしろ彼を追いかけまわしているイタリアのジャーナリストたちではないか。なにしろ彼らにとって、うまくバロテッリが刑務所に入るようなことをしでかせば、そいつを記事にして自分たちのサイトに載せる快感を味わいたいと思っているのだから。

 では、どうしてバロテッリに批難が集中するのか。それを理解するためには、まずイタリアという国をしらなければならない。

バロテッリのいるイタリアは、実力主義の対極にある国として知られている。この国を作っているのは、実業家のグループであり、排他的な組織であり、うわべだけの笑顔であり、偽善者たちであり、そして他人に先を越されそうになるとためらわずに後ろからぐさりとやるような人々の国だ。(コメディアンの)ダニエーレ・ルタッツィなら、さしずめこれがイタリアのよいところだ、ということであろう。

かなり辛辣な自己批判だけれど、「実力主義の対極 l'antitesi della meritocrazia 」という表現に注意しておこう。ここでいう実力主義の国とはアメリカのこと。そこで人はなによりも実力で判断される。たとえばモハメド・アリ。たとえ若くて、肌の色がちがっても、実力さえあれば大きな口をきいて不遜な態度をとっても許される。フェラーリを乗り回し、美女を侍らせ、金ぴかの服を着たったかまわない。差別表現に思いっきり言い返したとしても、かならずその実力を評価してくれる誰かが現れる。それが実力主義の国だ。しかしイタリアはその対極にある。だから同じことをやったバロテッリは、メディアから徹底的に叩かれ、彼の側に立ってくれる人はほとんどいなくなってしまう。なぜなら、イタリアでサッカー選手に求められているものは、実力だけではないからだ。

(選手は)ピッチで走り、30歳まで口を閉ざして、ステップをのぼり、ようやく義務から解放されてはじめて尊大な態度をとることができる。イタリアのサッカーは、内々の事情を明かさないという沈黙の掟にとらわれるあまり、選手にそんな態度を求めている。

つまり選手は、若いうちにはピッチでしっかり走っても、外でへたのことは言わずに口を閉ざし、謙虚な態度を取り続けなければならないわけだ。この記事は、そんなイタリアで理想的とされる選手としてマルコ・ヴェッラッティの名前を挙げる。現在パリのサンジェルマンでプレイするヴェラッティは、まだ若くよく走り、正確なパスを出す。バロテッリのように前線でじっと待ち構えることなく(したがって自分からゴールを奪うことは少ない)、なによりも「あまり喋ろうとせず、じつに控えめ」なのだ。そして、同時に、そういう選手を求めるイタリアのことを、皮肉な調子で「アッロスティチーノの味がする国」だというのである。《アッロスティチーノ arrosticino 》とは、羊の肉を一本一本の同じように成形して串にさした料理のことだが、そもそも従順な羊の串焼きであるアッロスティチーノこそは、「沈黙の掟にとらわれるイタリアのサッカー」界でプレイする選手たちの姿にほかならない。

しかし、そんな「羊の串焼き(アッロスティチーノ)」であることに選手たちは満足できるのだろうか。この記事によれば、それができるのだ。あの「沈黙の掟」さえ守れば、なんでもありなのがイタリアだというのだ。この記事の皮肉な一文を見ておこう。

イタリアは「何をやってもよいが喋ってはいけない si fa ma non si dice」国だ。それはサッカーの場合、もはや黄金の掟というよりもプラチナの掟となっている。つまり誰と寝てもいいし、どんなバカなこともやりたければやってもよいが、重要人物には触れてはならず、もしもつかまったら、大変反省しています、大切なのは神さま、家族、そして安心して投資できるようにしてくれるような政府ですと、言っておけばよい。

しかし、バロテッリはそんな「羊の串焼き」になろうとはしない。30歳になるまで口を閉ざしておこうとは思わず、子供じみた愚かな行為を繰り返しながら、それが多いに罪なことだなどと反省することもない。この記事は、彼がどんな風に思われているか簡潔にこう記している。

バロテッリはしばしば思ったことを口にする。バロテッリは上下関係を尊重しない。バロテッリアノマリーだ。バロテッリは酷い最後を迎えねばならない。

つまり、求められたときに頭を垂れることしなかったというそれだけの理由で、イタリアのメディアはバロテッリを悪者扱いし、「狂ってる」「信頼できない」「頭にすぐ血が上る」というレッテルを貼付けたのだ。だから、ふつうの選手がランボロギーニに乗れば、そんなことは当たり前だといわんばかりなのに、バロテッリフェラーリに乗れば大ニュースになってしまう。

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では、バロテッリのことをどう考えるべきなのか。この記事は、若くてリッチなアフリカ系イタリア人である彼のことを、ヒップ・ホップの言葉を用いて「スワッグのあるヤツ Balotelli ha lo Swag 」という。イタリア語で言えば「ha lo stile (自分のスタイルがある)」となるのだろうが、そこを lo Swag というところがポイント。それはまさに実力主義の国アメリカのアフリカ系アメリカ人たちの文化に由来する表現であり、たんにクールというだけではなく、なんだかヤバイようなカッコ良さをいう。それが SWAGだとしたら、たしかにバロテッリには「スワッグがある」。なによりも相手からゴールを奪う力は並の選手をはるかに抜きん出ている。「沈黙の掟」にとらわれず思っていることを平気で口にするし、社会的地位などはおかまいなしの不遜な態度。フェラーリに乗り、美女をはべらせ、金ぴかのスタイルを決めるのもまたスワッグだ。まさに若くして実力がありリッチで自分のスタイルを貫いているというわけだが、それこそがまさに、イタリアでバロテッリが批判される理由だと言うのである。

なにせイタリアは実力主義の対極にある国。ここに Swag という言葉はなく、望まれるのは、どんなにピッチで優秀でも社会では寡黙で従順であるような「羊の串焼き(アッロスティチーノ)」なのだ。バロテッリはそんな「羊の串焼き」のなかに現れた異形の存在であり、まさにアノマリー。それでも勝っているときはよい。しかし、少しでも勝利から遠ざかると、他の誰にもまして集中攻撃を受けることになる。だからこそ、彼はつい「どうしていつもオレなんだ Why always me?」と叫んでしまうのだ。

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そんなバロテッリの置かれた状況について、この記事は悲観的だ。彼のような「スワッグのある」選手がイタリアで当たり前のものとして受け入れられるのはずっと先になるだろうという。しかしながら、そんな(残念ながらまだまだ遠い)未来において、バロテッリはきっと「サッカーにおける反人種主義のパイオニアの役割を果たした選手」として思い出されるはずだとも言うのだ。

そんなこの記事の分析は、すでに多くの移民たちが社会のなかで影響力を持ち始めているイタリア社会の今を映し出すものとして、なかなか興味深いものだと思う。少なくとも、すでにアノマリーなものを取り込み、地中海の向こうに広がる世界との回路を開きつつあるイタリアが、もはや同じ味が同じ姿で並んでいるアッロスティチーノの国ではなく、あっと驚くようなスワッグを称揚し、自らの多様性のなかに未来を開いてゆく姿を垣間見せてくれるではないか。

ひるがえって、ぼくたち国のことを考えてみれば、ここはまだまだ「焼き鳥の国」だ。異形の存在(アノマリー)がもたらすスワッグが、まだその片鱗も見られないことを残念に思うのは、ぼくだけなのだろうか。