最近ちょっとした出会いがあって、忘れかけていた映画を語る歓びを思い出すことができました。せっかくだからここに、少し自分の書いて来たものをふりかえってみようと思います。あちらこちらに書き散らしたコラムを、少しずつアップしてゆくことにします。
まずは2007年のNHKテキスト「テレビイタリア語会話」(11月号)に掲載されたコラム「親愛なるイタリア映画:スクリーンに耳をすませて」から、フェリーニの『道』をどうぞ。
海は人の心を開きます。潮風に吹かれながら水平線に目をやれば、その向こう側に何があるのか無性に見てみたくなります。けれども海は、行く手を阻む境界でもあります。打ち寄せる波は、それを乗り越えて進むことを容易には許さず、まるでひとりで歩いて来られるのはここまでだと告げているようにも聞こえるのです。
そんな海に始まり海に終わるのが『道』という作品です。監督はイタリア映画を代表する巨匠フェデリコ・フェリーニ。その生まれ故郷リミニはアドリア海に面した小さな都市ですから、海には特別な思い入れがあるのでしょう。
その冒頭のシーンに耳をすませてみましょう。砂浜を歩く人影が見えると、打ち寄せる波の音に混じって「ジェルソミーナ! Gelsomina! 」と呼ぶ声が聞こえてきます。それはジャスミン gelsomino に由来する女性の名前。イタリア語では女性の名前にしばしば花が用いられるのです。
ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マジーナ)を呼ぶのは小さな妹や弟たち。母親に言われて呼びに来たのです。
È venuto un uomo con la motocicletta grande grande.
子どもらしいセリフです。「男の人が来たよ È venuto un uomo 」というですが、耳に残るのは con la motocicletta grande grande の部分。 la monoticletta は「オートバイ」のことですが、これにかかる形容詞 grande がふたつ重ねられていることに注意しましょう。その男は、ふつうのオートバイではなく「とっても大っきなバイクに乗って」来たのです。じつは荷台に大きな幌を張ったオート三輪だったのですが、子どもたちには初めて見るものだったのでしょう。
けれども子どもたちは、もっと大きな知らせを持ってきていました。ジェルソミーナにこう伝えるのです。
Dice che la Rosa è morta.
Dice che... は「(その男が)〜と言っている」ということですが、言われているのは、じつはジェルソミーナの姉 la Rosa のこと。標準的イタリア語では名前 Rosa に定冠詞 la をつけることはありませんが、方言ではしばしば聞かれる言い方です。つまり子どもたちは「ローザ姉さんが死んだ la Rosa è morta」と知らせに来たのです。興味深いのは、それが「バラが枯れた la rosa è morta」とも聞こえること。ジェルソミーナがジャスミンなら、ローザ Rosaもまたバラ rosa に因む名前なのです。
ジェルソミーナが急いで家に帰ると、ザンパノ(アンソニー・クイン)が待っていました。かつてローザを連れて行ったオート三輪の大道芸人です。不安そうな表情を浮かべる彼女に向かって、母親はなだめるように話し始めます。それはローザのことでした。
Era così bella, così brava...
動詞 essere が半過去 era となっているのは、もちろん亡きローザのことだから。副詞のcosì はそれぞれ続く形容詞を強調。そのひとつbello は「美しい」。もうひとつのbravoはふつう「優秀な」の意味ですが、こちらは子どもなどに対して「聞き分けのよい」の意味でも使われるもの。きっとローザは、バラのように「美しい」だけではなく、ザンパノのもとに働きに出ることさえ「よく聞き分ける」娘だったのでしょう。彼女について、母親はさらにこう続けます。
Sapeva fare tutto, tutto...
半過去の補助動詞 sapere は、習い覚えた結果として「〜することができる」の意。これにfare tutto と続いていますから、ローザは「どんなこともよくできた」ということ。おそらく大道芸人のアシスタントとして歌ったり踊ったりと、様々な芸をこなすことができたのでしょう。それにしても、なぜ今そんな話をするのでしょうか。
母親は大道芸人ザンパノに、この娘がジェルソミーナだと紹介します。ローザの代わりに彼女を手渡すつもりのようです。だから母親の口からはこんな嘆きがもれてきます。
Ah, come siamo disgraziati!
Come...! は「なんと〜なことか」という感嘆の表現。また形容詞disgraziato は「不幸な」という意味ですね。動詞 essere の主語は noi 「わたしたち」ですから、「わたしたち一家はなんて不幸なのでしょう」と嘆いているのです。娘を大道芸人に手渡さなければならないほどの貧さもあるのでしょう。時は1950年代のイタリアですから、そんな話もめずらしくはない時代です。しかし母親の嘆きはそれだけが理由ではありません。ジェルソミーナのことを、「この娘はローザのような子ではない Questa non è come la Rosa. 」と言います。そして「この可哀想な子はとても良い子なのよ Questa poverina è tanto buona... 」とかばいながらも、こう続けるのです。
Però è venuta su un po' strana.
「しかし」という逆説の接続詞 però に続く動詞 venire su は「成長する」の意。この近過去の形に形容詞 strano 「普通ではない」が副詞的にかかっています。それに、 un po' 「少しばかり」と言い添えたのは、娘のことをかばう気持ちがあったからでしょう。実はこの母親、「(ジェルソミーナが)少し普通ではない子どもに育ってしまった」ことを嘆いているです。「普通ではない 」とはどういうことでしょうか。次のセリフを聞けば想像がつきます。
Mo' se mangia tutti i giorni cambia anche di testa.
冒頭の Mo' は方言で、標準語では adesso や ora 。「今や」という意味ですが、それは「ジェルソミーナをザンパノに手渡す」ことにした「今」なのです。だから彼女は「(ザンパノのもとで)毎日食べるようになれば se mangia tutti i giorni 」と言います。子どもたちに毎日食べさせてやれない貧困がうかがえますね。十分に食べられないとき心配なのは健康状態ですが、ジェルソミーナの場合はそれだけではありません。この母親が「頭もまた変わる cambia anche di testa 」と言うとき、娘の頭の弱さを心配しているのです。
そんなジェルソミーナに大道芸の仕事を覚えられるのでしょうか。心配する母親に、ザンパノが自信満々に答えます。
Faccio imparare perfino ai cani io!
動詞 fare はここでは使役の意味で「〜させる」。使役の対象となる不定詞はimparere 「覚える、学ぶ」ですが、その意味上の主語はperfino ai cani「犬までも」によって示されています。また主語の io 「おれ」が文末に置かれていることから、ザンパノの自信のほどがうかがえます。「おれ様は犬でさえも(芸)を仕込むことができるのだから(心配するな)」というのですから、ジェルソミーナがこれから彼にどんな扱いを受けるのか想像されるのです。
そんなやりとりを黙って聞いていたジェルソミーナ。ザンパノが子どもたちをワインや肉を買いにやらせている間に、ふっと後ろを向きくと波打ち際のほうに歩いてゆきます。しゃがみ込んだ彼女の表情は、一瞬、泣いているようにも見えますが、すぐにその瞳は晴れやかとなり遠くを見つめます。それは今まで彼女を閉じこめていた海に別れを告げ、その向こう側の新しい世界へ旅立てる歓びを噛みしめているかのようではありませんか。
Anch'io faccio l'artista, a ballare, a cantare, come la Rosa.
いよいよ出発のとき、ジェルソミーナのセリフです。「わたしも芸人になるの Anch'io faccio l'artista 」と嬉しそうに、「踊ったり、歌ったり a ballare, a cantare 」と小躍りして、「ローザみたいに」と姉のことを思い出します。けれどもローザとは違って、美人でもなく頭も弱いジェルソミーナに何ができるというのでしょうか。予想通り、やがて獣のようなザンパノとの旅のなかで生きる希望さえ失うときが訪れるのです。
つつましく咲くジャスミンの花にバラの美しさはありません。けれどもその甘い香りは、天使から愛されるもの。そんな愛に触れることで、ジェルソミーナは再び希望を取り戻してゆきます。そしてそんな魂の遍歴の果て、あの暗い海のラストシーンの後にも、清らかな芳香がぼくたちの記憶に深く深く残るのです。
イタリア公開1954年9月
日本公開1957年5月