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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

おお、アメリカ!『ゾンビランド』にゾワっとする。

ゾンビランド [DVD]

 
なるほどね。
 
引きこもりのダメ男(ジェシー・アイゼンバーグ)がヒーローになるという話型に、できのあまりよくない主人公を怪力男マチステ顔負けのゾンビキラー(ウディ・ハレルソン)が助けるという古典活劇を組み合わせ、そこに男を食い物にする悪女だけど根は純粋なおねえちゃん(エマ・ストーン)が、こまっしゃくれているけれどつい助けたくなる小娘(アビゲイル・ブレスリン)を連れて登場すれば、あとは4人を肉食の欲望のみに駆り立てられるゾンビだらけのディストピア(=資本主義的末法の世界)に解き放ち、ビバリーヒルズの御殿での贅沢三昧と、パシフィック・プレイランドのスリルたっぷりの「プレイ」を堪能させたあげく、最後のご褒美はアメリカ No.1 のジャンクフード “Twinkie"  という映画:これこそはまさに合衆国そのもの、ただしそれは「アメリカ合衆国」ではなくて「ゾンビランド合衆国」。
 
なにしろ冒頭のモノローグがすべてを語ってくれている。
 
Oh, America"  I wish i could tell you that this was still America. But I've come to realize that you can't have a country without people. And there are no people here. No, my friends...  this is now "The United States Of Zombieland. 

 

 訳せばこんな感じ。

 
【嗚呼、アメリカよ。できるなら、ここはまだアメリカだと言ってあげたい。でもだめなんだ、 ピープルがいなけれれば国じゃない。そしてここにはもうピープルはいない。だめなんだ、わが友よ、「合衆国」は今では「ゾンビランド合衆国」なのさ】
 
字幕では「人がいなきゃ国は作れない」。日本語では自然に聞こえるけれど、その「人」と言われるものが「people」だということは重要なところ。この冒頭のセリフは、アメリカ人なら誰でも知っている(ぼくも知っている)フレーズ「人民の人民による人民のための政治 (government of the people, by the people, for the people)」(リンカーンゲティスバーグ演説 1863年)を想起させる。このピープルとは、まだ国がないところに自分たちの力で自分たちのものとして自分たちのために国を立ち上げる人々のこと。そんな人々が立ち上げた「国々 states 」を「ひとつにした unite 」のが「合衆国 United States 」なのだ。
 
アメリカは、困難な状況にあればあるほど建国の理念に立ち返ろうとする国なのだけど、『ゾンビランド』では、そんなアメリカの要であるはずの「ピープル」がいなくなったというところから話を立ち上げてしまうのだ。人間が次々とゾンビになってゆくというのがゾンビ映画の常道だけど、建国の立役者である「ピープル」を「ゾンビ」にしてしまう図式こそが、この映画のヒットの理由なのかもしれない。
 
走らなければ生き残れない
 
なにしろ典型的なアメリカ人が次々とゾンビ化する。まず最初にやられるのがデブ。なぜならゾンビに襲われたとき、デブは走って逃げ切ることができないからすぐに食いつかれる。肥満体国のアメリカにおいて、デブはまっさきにピープルではなくなってしまうわけだ。そこで、ゾンビから走って逃れられるだけの心臓の強さがなければならない。だから主人公を演じるアイゼンバーグは、生き残るためのルールとしてまっさきに「心臓の強さ Cardio 」(字幕では「有酸素運動」)を挙げる。ピープルにとどまるためには走らなきゃならない。それがルールというわけだ。それにしても、ゾンビから逃げながら走っているアイゼンバーグくんの姿を見ていると、ついランニングに精を出すアメリカン・エグゼクティブの姿を連想してしまう(そういえば彼は『ソーシャル・ネットワーク』で Facebook の創始者ザッカーバーグを演じていたな)。
 
車がなければ生き残れない
 
しかし、いくら心臓が強くてもいつまでも走っていらるわけではない。そこに登場するのが自動車だ。それでもまわりはゾンビだらけ。何かと衝突してしまうことを想定する必要がある。だからアイゼンバーグくんはサバイバルのルールとして「シートベルト Seatbelts 」を挙げるのが笑えるところ。いずれにせよ、車がなければ生きていけないアメリカでは、ゾンビからのサバイバルにも車が必要となるわけだ。だから映画のなかに登場する車にはニヤリとしてしまう。ゾンビキラーのウディ・ハレルソン(そういえば彼は『ナチュラル・ボーン・キラーズ』というはまり役があったよね)が乗っているのは、アメリカを代表するキャデラックのエスカレード。そのエスカレードがダメになったときに登場するのが、GMのド派手な黄色のハマーH2と来た。そして、そんなあまりにもアメリカ的な大型車で砂漠の道を突っ走る主人公たちの姿は、アメリカ映画が『駅馬車』以来ずっと繰り返して来たフロンティアへの旅そのものではないか。違うのは、駅馬車を襲撃するインディアンが人間に食らいつくゾンビになったところぐらいだろうか。それにしても、ゾンビがインディアン扱いされているのか、インディアンがゾンビ扱いされていたのかと考えると、少し目眩がしてくる。
 
銃がなければ生き残れない
 
そしてインディアンなりゾンビが登場するときに必要になるのが武器である。インディアンが弓矢を使って、どこからともなく現れて大勢で攻撃をしかけてくるのと同じように、ゾンビたちの武器は「噛みつく」ことと「感染させる」こと。感染させてしまえばゾンビだから、数をどんどん増やし、どこからともなく人間を襲うことができる。なんだか、神出鬼没のインディアンに似ているけれど、アメリカの建国者たちは最後にはそのインディアンたちをみごとに隔離し、同化することに成功した。ところが、ゾンビはそうはいかない。なにしろ、奴らの方がアメリカ人を次々と自分たちに同化してゆくのだから。
 
ゾンビの恐怖はそこにある。なにしろ鬼畜米兵と言っていた日本人だって、みごとなまでにコカコーラとハンバーガーとロックンロールの文化に同化させることに成功したのがアメリカなのだ。なにしろ民主主義の理念こそは絶対的な正義なのだと思えば思うほど、呪いのように自らが同化されてしまう恐怖が大きくなってくる。実際、その恐怖の現れのひとつがチャップリンを追放したマッカーシズムだし、冷戦の時代の神経質的な反共産主義だ。その恐怖は、自分たちの身内からマルクス主義者が出ることへの恐怖。それって、ゾンビに感染するのと同じ恐怖じゃないだろうか。
 
そんな恐怖こそが、かの国を建国した人々の根源的なところで働いているからこそ、銃を持つ権利が生まれるのかもしれない。実際、あらゆるゾンビ映画がそうであるように、ここでも主人公たちはあたりまえのように銃を持つ。そして、ゾンビを相手に撃ち倒したと思っても、少しでも油断すると噛みつかれるぞと警告する。だからこそ「2度撃ち Double tap」がルールとなるのだ。
 
身軽になって旅をする
 
感染の恐怖というヤツは、人を孤独にする。誰かに頼らなければ生きてゆけないようではダメなのだ。けれどもアイゼンバーグくんは、そもそもオタクなので、ひとりでやりくりするのは慣れている(と自惚れている)。下手に他人に関わると、そいつがゾンビに感染していたり、感染させられたりすることで、危険な目にあう。だから「身軽に旅をする Travel light 」ことで生き残ろうというわけだ。
 
しかし、その旅はどこに向かう旅なのか。あらゆる人間がゾンビとなってしまった世界で、まだゾンビがいない世界が果たしてどこかにあるのだろうか。汚染されていない大地がどこかにあるというのは、これもまたゾンビ映画の話型のひとつだ。そして、どこかにあるかもしれない場所を求める旅は、同じような場所を求める者との出会いの旅でもある。こうして、引きこもりのアイゼンバーグはゾンビキラーのハレルソンと出会う。この凸凹コンビは、さらに純真な悪女のエマ・ストーンとその妹ブレスリンと出合って、西へ向かう。めざすはカリフォルニア。そしてビバリーヒルズの豪邸、そしてパシフィック・ランドという名の遊園地。それは、西部に理想の土地を求めた開拓者たちの旅と似ている。
 
しかし、これまたゾンビ映画のお決まりどおり、どこまで行っても目的地などはない。ゾンビのいない場所などはないのだ。どでかいアメ車で、ゾンビたちから身を守る銃をかまえながら、道すがら放置されたスタンドで給油し、ドラッグストアに入っては食料を調達してゆくなかで、主人公たちはそのことに少しずつ気がついてゆく。だから「小さなことを楽しむ enjoy little things 」というルールが生まれるわけだ。そして、パシフィック・ランドの派手なゾンビ・シューティングの果てに、彼らははっきりと自覚する。大切なのは旅の仲間なのであり、旅の目的は旅そのものなのかもしれない、と。
 
まあそんな映画なのだけど、引きこもり青年のアイゼンバーグとイカした悪女のストーンが心を通わせてしまい、ハレルソンがなんとしても食べたかったジャックフード “Twinkie” を小さなブレスリンが見つけて来るところで(このハレルソンは息子を亡くした設定なので、さしずめブレスリンは新しくできた娘というところなのだろう。しかも、銃の打ち方を教えてやれる娘なのだ)、おそらくアメリカの観客は拍手喝采を送るのだろう、と思う。なにしろゾンビランドを旅するために必要なのは、健全な肉体とどでかい自動車と威力のある武器と、そして家族的な結束なのだから。
 
ピープルは屈しない
 
それにしても、このゾンビ映画の健全さはどうしたことだろう。4人を乗せた車が煌びやかなパシフィック・アイランドを出発するとき、そこにはなんの恐怖も感じられないのは、ゾンビに対抗するために必要なものはすべてゲットしたからだろうか。そして彼らこそが、けっしてゾンビと化すことなく、あくまでもピープルとして、あらたなアメリカを建国するということなのだろうか。だとすれば、そのアメリカとはどういうアメリカなのか。
 
99%がゾンビと化しても、残りの1%は屈しないというメッセージなのだろうか。おそらく重要なのは、その残りの1%となった4人の主人公たちが、それまでは社会的にもたいした地位になかったことだろう。それは、誰にでもチャンスはある語っているように見える。だからこそ、誰もが主人公たちに自分を重ねることができたのだろう。
 
そうだとすれば、現在のアメリカ合衆国ゾンビランドとして描き出すなかで、失われつつあるアメリカンドリームを反復し、アメリカン・ピープルである誇りを回復させてくれるような映画なのかもしれないな。ゾンビに噛まれて感染することを恐れながら、銃を手に、あばずれ女を手なずけ、襲いかかって来る敵は容赦なく叩き潰し、家族で結束し、ジャンクフードを求めて西へ西へと旅を続ける。そんな主人公たちの姿に拍手喝采する観客の姿を想像して、ちょっとゾワと来てしまったのは、ぼくだけなのだろうか。
 
それにしても、ゾンビ映画ってほんとに社会を映し出しているよね。iTunes store の100円レンタルで見たのだけど、いやあ実に勉強になりました。きっちり元は取れたと思うな。
 
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