雲の中の散歩のように

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男と女をめぐるイタリア語の悩み…

英語しか学んだことがない学生が、イタリア語に接して最初に驚くのが、名詞に男性名詞と女性名詞があることだ。形容詞や冠詞にもこの性の違いに応じて形を変えることになる、そんなふうに説明すると、「どうして?」と質問されるから、そのあたりをなんとかうまく飲み込んでもらうような授業をするのが工夫のしどころなのだ。
 
たとえばぼくの場合は、男性と女性の名前を教えることから初める。マリオ Mario は男でマリア Maria は女。クラウディオ Claudio は男で、クラウディア Claudia は女。それじゃ、Paola は男?それとも女?そう、-a で終わってるから女性だよね。そんな具合にして、-o で終わると男性で、-a は女性の語尾だということを少しずつ飲み込んでいってもらう。すると banco (机)は男性名詞で sedia (椅子)は女性名詞だとすぐに気づいてもらえる。イタリア語の場合、名前の性別が名詞の性と同じルールであることを利用するわけだ。
 
けれども、文法的に言うと、名詞の性は人間の性別とは少しちがう。人間については sesso (性別)というのだが、名詞の性については genere (性)という言葉が使われる。「机  banco 」は - o で終わるから男性名詞なのだが、じつは「机」が男性として性別されているのではなく(机にはそもそも性別なんてない)、たんにその名詞が「男性 genere maschile 」というジャンル genere に区分されているというだけ、ということなのだ。
 
男女の性別から入るとああそういうものかと納得してくれるみたいで、学生たちから「どうして -o で終わると男性で -a は女性なのか」などと説明をせまられることはない。けれども職業や肩書きを表す名詞を説明する段になると、少しややこしいことになる。たとえば「先生」という肩書きは、イタリア語では「professore」だが、女性の先生の場合は「professoressa 」だ。うまく説明できる。けれども「弁護士」は、男性でも女性でも avvocato という男性形が用いられる。avvocatessa という女性形もあるにはあるのだが、こちらには風刺的なニュアンスがつきまとうので、一般的には男性形の avvocato が用いられる傾向にあるのである。もちろん、どんな言語にも多少の例外はあるのだけれど、イタリア語の場合は、女性なのに男性形を使うものがかなりある。だから、どういう場合に女性形を用いるのが普通で、どういう場合には女性形を用いるべきではないのかを、うまく説明しなくてはならないのだが、ぼくなどはへっぽこイタリア語教師だからなのだろう、このあたりのことになると、どうしても歯切れが悪くなってしまう。うまく説明する理屈がみつからないのだ。
 
ところが、そんな悩みはぼくのような外国人のイタリア語教師だけのものではないらしい。当のイタリアにもまた、この問題を悩ましいと考えている人がいるようなのだ。ジャーナリストでブロガーの Paolo Hutter 氏もそんなひとり。実は最近 Facebook の投稿に導かれて記事を読んだのだけど、そこではイタリア語で職業や肩書きを表す名詞を本人の性別に一致させたり一致させなかったりする現象について、ヨーロッパの他の言語と比較しながら、みごとなユーモアを交えて、問題点が指摘されていた。ああ、あちらでも悩んでいるのだなと、興味深く読ませてもらったのだけど、ぼくだけおもしろがっているのは悪いので、試みに、以下訳出してみることにする。ざっと訳したので読みづらいかもしれないけれど、そのあたりはどうか御容赦を。
 
ではどうぞ。
 
《女性たち:新しいイタリア語の無意識の差別》
 
「ministra (大臣の女性形)」という言葉の響きが悪いというとき、それは何に基づき、どのような詩的基準からいわれるのだろうか?新聞タイトルの編集長や、イタリアで編集の役割を担う女性の大部分は、文化的で言語的な崩壊現象 scempio に責任を取らなければならなくなっている。この崩壊現象は、私見では、政治的で人類学的なものでもある。メディアのイタリア語の用法において、そしていまや日常的な言語においてもまた、女性によって占められている権力の地位や女性に果たされる高度な職業を指すとき、名詞、形容詞、そして冠詞(il/la, un/una) の男性形を使用することが、どう考えても度を超すほどに目だつようになって来ているのだ。「お腹の大きな(男性形の)大臣 il minstro col pancione 」や「この写真に写っているのは夫を同伴した(男性形の)大臣だ ecco nella foto il minstro accompagnato dal marito」 という表現を見てしまうと(もちろんゲイのカップルの話をしているのではない、われわれはイタリアにいるのだ〔編集部註〕)、わたしなどは、唯一の基準があるとすれば、それはもしかすると伝統的に確立されたものだけなのかと心配になってくるのである。
 
そうでなければ、「イギリス国王エリザベス il Re d’Inghilterra Elisabetta 」と言っているはずではないか。ところが実際は「女王 Regina 」と呼んでいるのは、いったいどういうわけなのか。その役割が単に装飾的で文化的なもので、女性歌手 le cantenti 、女優 le attrici 、女性画家 le pittrici のようなものだと見なされているからなのか。知らない人ためにはっきりさせておきたいのだが、「あるレベル以上の」仕事や地位を示すとき、男性形を使うのはイタリア語だけの現象なのだ。英語は「the」を用いるから比較にならない。フランス語では女性形が用いられる。ドイツ語では、厳密に、女性形が用いられている(もしも誰かが男性形を使って「アンゲラ・メルケル(男性)首相 Der Kanzler Angela Merkel 」などと言えば挑発的に響くだろう。ドイツ語では女性形で「(女性)首相 die Kanzlerin 」と言うのである)。しかし、わたしたちイタリア人が注目すべきは、ポルトガル語やスペイン語など、わたしたちの言語にもっとも近い言葉だ。
 
私見によれば、スペイン語とポルトガル語における女性形の用法を見れば、次のように事態が明らかになる。すなわち、女性建築家 architetta, 女性弁護士 avvocata, 女性技師 ingegnera 、女性大臣 ministra 、さらには(イタリア語でほとんど用いられない)女性下院議員 deputata, 女性局長 direttorice, diettora などの表現に「響きが悪い」と言う者は、誠実な男性 sincero でも、誠実な女性 sincera でもないということだ。だから、女性秘書 segretaria という言葉が不可避的に従属的な仕事を示しているとか、(男性形の)秘書 segretario を使う方えばそうはならないと言っても同様なのである(だから、たとえ響きが悪くても「イタリア労働総同盟 Cgil の(女性)書記長 segretaria generale 」とか、あるいは「外務省の(女性)次官 sottosegreatria agli Esteri 」と言うことになる〔イタリアでは女性がその地位についても男性形が用られる〔訳者註〕)。
 
スペインやラテンアメリカで用いられる今日のスペイン語においては、女性大統領 presidenta 、女性国務大臣  secretaria de estado 、女性建築家 arquitecta、女性技師 ingeniera 、女性医師 doctora, 女性教授 profesora 、女性市長 alcaldesa などの言葉が使われている。これらの言葉は、たとえ響きが悪かろうと、調子の外れた男性形  stonati であったり、調子の外れた女性形  stonate でなければならないのだ。イタリアでならば、女性がこうした職業に女性がついたとき、その生まれながらの音楽性によって、女性労働者 operaia やウエートレス cameriera は響きがよいが、女性弁護士 avvocata はだめ、女性市長 sindaca もだめ、女ボス capa や女局長 direttrice は調子が外れていると判断されるのだが、スペイン語はそうした音楽性を持ち合わせていないというわけだ。
 
もしかすると無意識に劣等感のようなものがあって、自らが女性であることを主張すると威厳を少し下げてしまうという思いが働いているのかもしれないが、そのあたりのことはよくわからない。しかし確かなことは、こうした言語的なねじれ現象が起ってしまった責任が、それを受け入れた女性にあるということだ。なぜなら、もしも彼女たちがこの「ねじれ」を拒絶して、スペインの男性や女性の話し方は道理にかなっているのだから女性大臣の肩書きにも女性形の「 ministra 」を使うべきだと主張したならば、きっとマスメディアも、したがって一般的な言葉づかいもまた、そちらに適応することを余儀なくされていたはずだからだ。もしそうなったなら、せいぜい1年ていどで「ねじれ」は解消される。しかし解消されないなら、いずれ学校や大学において、社会のあらゆる分野で女性の存在が顕著になってくるにともない、いったいどういう理由でイタリア語は権力の座や威信ある地位についた人物を男性形に一致させることにしたのか、その理由を教えなければならなくなるはずだ。それは、もちろん単に言葉の問題にすぎないのだが、おもしろくない話ではないか。
 
(il fatto quotidiano 紙のサイトの Paolo Hutter のブログ記事より、原文はこちら:http://www.ilfattoquotidiano.it/2014/03/05/donne-la-discriminazione-inconsapevole-della-lingua-italiana/902877/