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雲の中の散歩のように

Cinema letteratura musica どこまで遠くにゆけるのだろう

あえて最悪の場合を考えてみる

連続テレビ小説 ごちそうさん Part2 (NHKドラマ・ガイド)

 
ごちそうさん』の悠太郎の堅物ぶりには、けっこう好感をもっているのですが、今日の放送もなかなかおもしろかったですね。
 
西門家の末っ子の活男が、海軍の主計課に志願し、船のうえでコックの修行をすると言いだして、母のめ以子は大反対。それでも活男は「このまま、好きでもない事毎日やって、それで、事故とか空襲で死ぬんやったら、せめて好きな事やって死ぬ方がええ。このままやとわし、何の為に生まれてきたんかわからん」と訴えるのですが、父の悠太郎は、そんな息子の志願の同意書に署名する決断をすることになります。そして、その理由をめ以子にこう説明するのです。
 
あえて最悪の場合を考えてみました。ここで活男の意を酌んで、行かせて戦死させた場合と、説き伏せて、行きたくもない工場に行かせて空襲で死なせた場合と。僕は後者の方が耐えられないと思いました。 
 
最悪の場合を考える、というのは何かの決断をするときに重要な方法です。もちろん、そう考えたとおりになるとは限りません。もしかすると、そんな最悪の事態など起らないかもしれないのです。だからといって、決断しないわけにはゆきません。署名するかしないか、そのどちらかしかないわけです。だとすれば、悪く転んだとき、どちらがましかを考えることは重要です。それは、ぼくたちが自分の人生を考えるのに「どうせ死ぬのだとすれば、どのように死にたいか」と考えることに似ています。これは、未来に想定される最悪の地点に立ち、そこから現在を距離をとって見てみるということですね。
 
通常、ぼくたちは目の前の現実に対して距離をとることができません。それが困難な決断を迫るとすればなおさらです。慌てたり感情的になったりして、冷静な決断は難しい。だからこそ、悠太郎のように最悪を考えることで、どっぷりと浸かってしまっている現在から距離を取ることは、とても有効な方法なのではないでしょうか。
 
実際、悠太郎は距離を取っているからこそ冷静でいられます。おそらく本人としてもできれば活男を戦争にやりたくはないのでしょう。それに望み通りにコックになれるかどうかもわからない。だからこそ、め以子にむかって「あなたは納得せんといて下さい」と言えるのでしょう。この苦渋に満ちた言葉は、自分がとった決断とは異なる決断にもまた、なにかしらの可能性を認めるような、じつに思いやりのあるものでもあるわけです。

悠太郎が直面している問題は、論理では片付けられない実践の問題ですね。それでもあえて論理性を貫きながら、論理ではとらえらきれないなものかとらえようとするとき、そこにはある種の冷静さと対話的な態度が開かれるてくれるということなのかもしれません。
 
そこでぼくも、少し悠太郎にならって思考実験をしてみることにします。決断すべきテーマは、この前の都知事選の争点になった(ならなかった?)、原発を推進するか否かです。もちろんあえて最悪の場合を考えてみるのですが、そうすると悠太郎の言葉は、こんなふうに書き換えられるのではないでしょうか。
 
あえて最悪の場合を考えてみました。
 
ひとつは、民意を酌んで、原発を推進し景気の回復をはかり、原発事故と汚染物質の処理に悩み続けながらもエネルギー供給だけは安定させ、さらには原発で生じるプルトニウムで原爆開発への可能性を残し、潜在的核保有国かつ経済大国となって隣国からも怖れられる存在となり、平和主義を訴える現行憲法を敗者に押し付けられたものとして改正、愛国心による新憲法を立ち上げて自国中心史観に基づく歴史教育を徹底、道徳の時間には「江戸しぐさ」を称揚、誰もが起立して「君が代」を斉唱、たとえ世界から孤立しようとも、同性愛の弾圧で孤立する国と手を結び、座して死を待つよりはと軍備を増強し、徴兵制を復活する道筋をつけ、たとえまた想定外の原発事故が起ろうとも、今度こそきっちりとメディアを懐柔して情報管理を貫き通し、すべてを秘密裏に処理しながら、海外の敵の悪辣さを憎悪せしめ、まさに男女の別なく国民一丸となって靖国英霊とならんとする場合。
 
もうひとつは、民意を説き伏せて、原発を止めて代替えエネルギーへの変換を図り、技術開発費のために割高な電気代を払いながら、業を煮やした大企業の海外への移転を許し、国際競争力を低下させ、人口減少による市場の縮小に苦しみ、ついにはローカルで相互扶助的な零細な経済活動だけとなり、それでも出稼ぎに来るさらに貧しい地域の外国人労働者を受け入れざるをえず、あるいは国内で生活できなくなった人々が外国に出稼ぎに出てゆくことを余儀なくしながらも、なおこの小さな島国での細々とした生活を守り続けてゆくことになる場合です。

 

さて、わたしたちの「西門悠太郎」は、すでに後者が耐えられないとの思いから決断を下してしまったようですね。それは仕方のないことなのかもしれません。けれどもはたしてそれは、前者もまた耐えられないと訴えるわたしたちの「め以子」に向かって、「あんたは納得せんといてください」と言えるような、距離をとった、冷静で、対話的なものだったのでしょうか。